39話 試しの儀
カナメはその時、体の芯から力が抜けていくのに戸惑いを感じていた。
訳の判らないまま地に膝を突く瞬間、駆け寄って来ようとしたベッロに火が降りかかった。その体が乱暴に蹴飛ばされる。
咄嗟に名を叫ぼうとするが、喉を震わせることは出来なかった。体の内側から搔き回され、縛り付けられていく感覚があった。
「──く、そっ……」
体の中に残る力を掻き集め、力任せに剣を抜き、揮う。しかし、鋭さを欠いたそれは、虚しく宙に弧を描いただけだった。細剣が手を離れ、地に落ちる。
──一体、何が……?
撹乱されていく意識を必死に手繰り寄せる。目の前に立ち塞がる者の顔を見上げた。
──そう、付き人だ。
ルドラの付き人が、妖しい熱狂を宿した瞳でカナメを見下ろしている。
「これで、ルドラ様にお許しを頂ける……」
酷く痛めつけられた手で札を取り出すと、痺れた感覚のまま見上げるカナメの腹に押し付けた。それは、首の後ろにも貼り付けられていた。これを貼られた瞬間、カナメの体は動かなくなった。二枚目の札を貼られた今、カナメの身の内はきつく絞められていく感覚があった。苦しさに声が漏れる。
「その汚れたモノを殺せ」
「はっ」
背後でベッロの悲鳴が響いた。
「……ベ、ッロ」
付き人がカナメの額に触れ、何事かを唱えた。
視界が回り、自分の存在が撹乱されていく。全てを吐き出してしまいそうで、呼吸を感じることも出来ない。苦しいのか、自分は、一体──。
その瞬間、意識は途切れた。
酷い痛みと吐き気を覚えながら意識を取り戻したカナメは、篝火で照らされる異様な光景に後退った。背中に当たった冷たい感覚と、視界を縦に幾筋も遮る陰に、檻の中に入れられているのだと判った。
カナメは、それを頭の隅で考えながら、目の前で繰り広げられる光景に、息を飲んだ。
同じ檻の中、六人の修養者が一心に祈りを捧げている。
「何を……!?」
「目を覚ましたようですね」
檻の外で声がすると、一瞬篝火の灯りが陰った。
「ルドラ殿……!」
そう言った瞬間、カナメは自身に何が起きたのかを思い出した。檻に取りすがり、叫ぶ。
「ベッロを何処にやったんだ!?」
ベッロの姿は何処にも見えない。記憶を頼りにするならば、付き人から酷い扱いを受けていた。
ルドラは忌々しそうに顔を歪めると、鼻を鳴らした。
「獣と交わり、その末に愛玩されるだけとなったモノなど、この国に必要ない。精霊姫様のお側に在るだけでも汚らわしいのに、祈りの間へも立ち入るのを許すとは」
その声は、深い憎しみと蔑みが込められていた。マリーエルに対して発せられる声とは全くの別物だった。
ルドラは檻の中の修養者を見やると、熱に浮かされた瞳を細めた。
それは、カナメに札を使ったあの付き人だった。傷だらけの体で、しかし一心に跪き祈りを捧げている。
「まだ、機は熟していなかった。しかし、この巡りこそ、事を成せとの世界樹の意志だと、そうは思いませんか」
「世界樹の意志? 何を言っているんだ。一体此処で──」
「それでは、試しの儀を始めましょう」
「試し……?」
ルドラは答えず、小箱から封の施された包みを取り出すと、開いた。
「それを、どうするつもりだ!?」
包みには影の墨が収められていた。
ルドラはカナメに答える、というよりも独り言ちるように話し始めた。瞳に宿った光は、いまや狂信的に妖しいものとなっている。
「あの忌々しい出来事から、この世界は穢れを許容し始めている。それでは、いずれ内から侵されてしまう。影の侵入を防ぎ、根本から正すこと。それには精霊姫様のお力が不可欠。精霊姫様に最も近しい器と成るよう、長きに渡り修養を積んできた私達は、しかし、精霊姫様と同等の力を得るに値するのか──」
そこで言葉を止めたルドラは、小さく笑ってからカナメに観察するような視線を向けた。
「精霊姫様とは尊いお方。手の届かぬお方。だからこそ、畏れ敬うのだ。貴方は影と同じく澱みから生じた存在。そして、影の影響を受けない者。実に興味深い。穢れでありながら、それに対抗する力を持ち合わせている。私達が到達すべきは、そこである」
「何を言っているんだ……?」
戸惑うカナメの前で、ルドラは付き人を呼んだ。
「お前はこの巡りを生み出したもの。全ての過ちを流し、儀の始まりを飾るのを許そう」
ルドラの目の前に進み出た付き人が、感極まったように声を漏らし、有難そうに手を掲げた。その掌にルドラは影の墨を落とした。付き人は、潤んでさえいる瞳でそれを見つめ、おもむろに口に含んだ。
「止めろ、止めるんだ! そんなことをしたら影憑きに──」
「貴方は影を斬ることが出来る。影に侵され、それを祓うのを繰り返し、身の内から影に慣れさせ、操れるようにする。私は、貴方の性質と、修養者が器として覚醒する様を、ここで見定めさせて頂きます」
付き人は苦しげに体を曲げ、影を滴らせながら、それでも祈りを上げる。
異様な光景だった。
「止めろ、こんなこと……」
ルドラが何事かを唱え、手を掲げると、カナメの体は意志に反して足元に置かれた剣を掴み上げた。
「な、んだ……これは──」
「私達は、こうして影を操る術は手に入れました。しかし、あと一歩。澱みより生じ、影と同等の存在である貴方の力で、きっとこの試みは成功するでしょう。そう、願っています」
ルドラはおもむろに影の墨を檻の中へと放った。ぶわりと墨が粉状に飛び散り、溢れ出す。
「やめろ!」
カナメは剣を抜いた。しかし、それは自身の意思ではなかった。剣を抜きたかったのは確かだ。しかし、意志とは関係なく、体が動く。
剣を揮う。修養者の体から影が霧散していく。しかし、すぐに新たな影がその体へと侵入し、影を纏った修養者は、言葉にならない声を上げながら、カナメへと手を伸ばした。
影憑きとなった修養者が、影を斬る度、地に崩れガクガクと体を揺らす。檻に体を打ち付けようが、肌をすりむこうが、ふっと浮上する意識の内に祈りを唱え、影に囚われては涎を垂らしながら、虚ろな瞳でカナメへと何かを求めるように手を伸ばす。
「こんなことをしたって何の意味もない! 止めるんだ!」
その声は虚しく響いた。ルドラはただ静かに檻の中を見つめている。
カナメは、剣を揮い続けた。




