7話 深淵の女王
戯れのように手を差し出した女は、まるで狩りをする獣のように、深い虚無のようで業火を灯す瞳を細めた。くるりと手を返すとマリーエルの髪を掴み、強く引き上げる。
「痛っ……!」
女はマリーエルの呻きに嘲笑を浮かべる。しかし、マリーエルの瞳に見入られるようにした女は、その嘲笑を引っ込め、深い憎しみで睨み付けた。あまりの憎しみの強さに、マリーエルは体を動かすどころか、声を発することも出来なかった。
マリーエルの様子を見て嘲笑を取り戻した女は、ふと頭上に目を上げると、どろりと溶け、影に姿を変えた。拘束を解かれたマリーエルは、地に倒れる前に広大な手に掬い上げられた。
「姫よ」
精霊王が頬ずりをするようにマリーエルを抱え上げ、気を流し込んでそれを整えると、再び人型を模った影に探るような視線を向けた。
影の女はクツクツと笑いながら握った手のひらを見せつけるように開いた。手のひらの上のすみれの花が恐怖したように小さく震えている。
マリーエルはとっさに髪に手を当てた。すみれの精霊から贈られた花がなくなっている。
「か、返して……」
やっとの思いで発した声は、か細く頼りなかった。辺りに響く悲鳴や怒声、苦悶の声にかき消されてしまう。
影の女は引き裂くように笑い、冷酷な目で笑みを深めると、すみれの花を強く握り潰した。はらはらと手から滑り落ちる花弁が影に侵され、締め上げられ、地に落ちる前に砕け散る。マリーエルはその光景に息を飲んだ。
「さて、お前をどう苦しめてやろうかしら。私はお前の苦痛に歪み、絶望に染まる顔が気の済むまで見たいの。それを踏みつぶしてやりたいのよ」
マリーエルは震える手で精霊王に縋りつくようにした。何故、ここまで憎しみを抱かれなくてはいけないのか判らない。一体、この影の女は何者なのだ。
「お前も、私の前に跪かせてやる」
影の女は、挑発するような視線を精霊王に向けた。精霊王は静かに女を見下ろしたままで、一切の反応を返さない。女がピクリと顔を引きつらせる。構わず、精霊王は口を開いた。
「貴様は我等の理から外れている。在り得ないものだ」
女は可笑しそうに鼻で笑った。
「お前がどう捉えようが、私は存在している。在り得ている。影を抱く深淵の女王よ」
〈深淵の女王〉は唇を歪め、哄笑した。ふいに笑みを消し、手を掲げると、解けた両腕が影となって鋭さを増し、マリーエルに襲い掛かった。咄嗟に目を瞑ったマリーエルは衝撃に身構えたが、温かい風に包み込まれた。力強い風が辺りに吹き荒れ、影を消し去っていく。風が止むと大気に温かさが戻り、凛とした音が響いた。
「精霊王……」
マリーエルの呟きに、精霊王は気遣うような視線で見やった。精霊王が力を揮う度、マリーエルの身の内では猛々しい気の流れが駆け巡り、強引とも言える勢いでその流れは放出されていく。ぐらぐらと視界が揺れ、頭痛がする。
「あら、壊れちゃうわよ、それ。私としては構わないけれど。王の手で姫が壊される……それも絶望的で愉快だわ」
ケラケラと笑っていた深淵の女王は、ふいに目を瞬くと、つまらなそうに目を細めた。彼女の足元から生え出た蔓草が、その体を締め上げ始めた。
「無駄なことを。今ここで私を捕らえたとして何の意味もない。さぁ、視なさいよ。影を……深淵の女王を!」
深淵の女王が蔓草を掴み上げると、溶けだした影が蔓草を飲み込み、染めていく。
「貴様……」
精霊王の怒りに反応して大地が震動した。木々が騒ぎ、大気が雷を含み始める。強大な力は、その片鱗でもマリーエルの身の内に流すには強烈なものとなる。体が破裂してしまいそうだ。
その時、轟くような声が聞こえ、辺りを囲んでいた影を切り裂き、何者かが舞台に転がり込んできた。
「くそっ、やっと入れた……。マリー、無事か!」
カルヴァスが息を切らしながら辺りに目を走らせると、その脚で深淵の女王に斬りかかった。僅かに目を開いた深淵の女王は、後退しながら手を掲げ、カルヴァスに向け影を放った。影が腕や脚を掠めていくのを、器用に致命傷を避け、カルヴァスはマリーエルの許まで後退する。
「火の精の器か」
精霊王に言われ、カルヴァスは深淵の女王に視線を向けたまま、緊張した面持ちで「はい」と答えた。
「お前が火の力の肩代わりをせよ」
精霊王は、カルヴァスが切り裂いた後に再び形作り始めた影の囲いを薙ぎ払った。影の囲いが晴れ、舞台の周囲が見渡せるようになる。辺りは殺気立ち、怒号と激しさに支配されていた。
「この場には良い器が他にもある。我の造りし精霊よ。力を使い、姫を助けよ」
それに応えるように、辺りで力の奔出が起こった。
燃え盛る剣を手にしたカルヴァスは、驚きに目を瞬いてからニヤリと笑った。その手は強大な力を受け、僅かに震えている。
「キツイけど……これなら、いける!」
カルヴァスが地を蹴った。深淵の女王は影に姿を変えながら炎剣を避け、影を放つ。
ヒュウと裂くような音がしたかと思うと、深淵の女王の胸に矢が突き刺さった。深淵の女王はそれを抜き去ると、影を纏わせ射返した。射手が影矢を受け倒れ込む。
「鬱陶しい」
苛立たしげに影を放つその背後から、カルヴァスが斬りかかった。深淵の女王は振り向かないままにカルヴァスの頸を掴み、地に叩きつけた。呻きながらも影を炎剣で切り上げ、脱出したカルヴァスは一度後退し、血を吐き捨てる。
「カルヴァス……!」
名を呼んだマリーエルは、息苦しさに咳き込んだ。精霊王はマリーエルを地に下ろし、顎を掴み上げた。怠さが深まる体で、地を踏みしめる。
「姫よ。役目を果たせ。其方は器としてまだ未熟であるが、姫である。精霊達に力を分けた。我の力だけを一身に受け、理を外れしモノを祓うのだ」
精霊王が引く手に縋り、マリーエルは深淵の女王を視界に捉えた。
「私の、役目……」
掠れた声で呟き、小さく頷く。
精霊王は、マリーエルの背に手を当て、凛とした声を上げた。その声は歌となり、徐々に張りつめていくと、マリーエルの内を駆け巡り、解き放たれた。
解き放たれた力は、斬り合うカルヴァスを包むように通り抜け、その先の深淵の女王に衝突した。寸前、影へと姿を変えた深淵の女王だったが、逃げ遅れた箇所がボロボロと崩れ霧散する。辺り一面の影が消失した。
「本当に、お前は……」
深淵の女王は再び影を溢れ出させると、憎しみに満ちた瞳でマリーエルを睨み付けながら、影の波を走った。駆け寄るカルヴァスの足を影に沈め、一直線にマリーエルに襲い掛かる。
深淵の女王が近づいてくるのを、ぼんやりとした頭で見つめていたマリーエルの視界は、ふいに遮られた。鈍い音がして、精霊王のくぐもった声が聞こえる。マリーエルの視界を遮っていた腕が退けられると、炎剣を胸に突き刺された深淵の女王がニタリと笑うのが見えた。
「だから無駄だと言っているでしょう、木偶の坊」
「その様子では、そうとも言えないようだが」
深淵の女王はカルヴァスの炎剣を掴み、横に薙ぐと、カルヴァスごと投げ捨てた。舞台上を転がったカルヴァスは、すぐに立ち上がろうとしたが、傾いだ体を腕で支え、息の塊を吐いた。
深淵の女王の体は炎剣の傷跡からボロボロと崩れ始めていた。影の欠片となり、霧散する。しかし、口元には微笑みを湛え、精霊王の体をねめ回す。
「お前の体に影が及び始めた」
その言葉の通り、精霊王の体には影が這い上り、調和の取れていた体は均衡を失い、色褪せつつあった。
ふふ、と忍び笑った深淵の女王は、どろりと溶け始めながら挑発するような視線を向けた。
「影はこの世界を覆い尽くす。お前達の絶望を吸い上げて」
高らかな笑い声を残し、深淵の女王は影の中に消えた。
「マリー」
荒い息をしながらカルヴァスが歩み寄って来ると、マリーエルに手を差し出した。
「精霊王。あとはこちらで――」
「否」
精霊王はマリーエルを解放せず、マリーエルの額に指先を付けた。
「姫には、まだ使命がある」
マリーエルは自身の内を駆け巡る強大な力の余韻に感覚を痺れされながら、精霊王の声を聞いた。何が出来るのか、何をするべきなのか、判らない。呼吸の仕方も忘れてしまった。アントニオは無事なのだろうか。アメリアは? この地は影に穢されている。頭が割れるように痛い……。
「マリー」
温かい手がマリーエルの腕に触れた。そこから熱が広がり、意識が引き戻されていく。
「カルヴァス……」
カルヴァスは周囲を見渡してから、ニッと笑みを作った。影が再び伸びあがり始めていた。
「こっちはオレに任せろ」
励ますようにマリーエルの腕を優しく叩いたカルヴァスは、精霊王を見上げてから、踵を返した。襲い掛かる影を炎剣が切り裂いていく。
その姿が視界の中で滲む。マリーエルは体をふらつかせながら精霊王を見上げた。精霊王は難しい顔をしていたが、再び指先をマリーエルの額に付けた。
「我の力を扱うには苦しかろう。しかし、姫よ。我等の祝福を受けし者。調律せん者よ。我等の力を導き、この地を調律せよ」
マリーエルは深く息を吸い、吐き、もう一度吸うと、瞳を閉じた。
「……私がこの地を調律する」
意識を、乱れた気の流れに集中させる。散ってしまった力の残滓を集め、導き、繋いでいく。
「精霊達よ……歌を聴かせて」
散っていた気配が濃くなっていく。
炎の熱が頬を撫でた。影の破片が飛び散る。足音が駆け回り、声があがる。金属がぶつかる音が鈍く聞こえる。それらが徐々に遠退き、歌声が身の内に響き始める。それに合わせ、マリーエルは歌った。
幾重にも重なった歌声は辺りに響き渡り、穢れを飲み込み、すり潰し、塗り替えていく。
全てが終わった時、静寂の音が鳴った。
「精霊姫様……」
疲弊した兵達が、舞台に立つマリーエルの姿を呆然とした表情で見上げ、言った。
影は跡形もなく消え去り、この地の気は整えられ、満ちた。
「終わったか」
カルヴァスが肩で息をしながら歩み寄って来ると、マリーエルを支えるように横に立った。額の血と汗を一緒くたに拭う。
目を合わせた筈のカルヴァスの表情が読めなくなる。視界が彼の髪の色に滲み、マリーエルは体を支えていられなくなった。遠くの方で名前を呼ばれている。体が何かにぶつかり、嗅ぎなれた強い陽と草原の匂いを感じた。
マリーエルの意識は深く沈み、途切れた。