31話 想い伝え合って
その夜、マリーエルは寝台に横になってからもうんうんと頭を悩ませていた。
「眠れませんか?」
部屋の隅からアーチェが歩み寄って来て訊いた。
ジュリアスの豊熟城のようには休むことが出来ず、マリーエルの目は冴えていた。カルヴァス達が警護をしているとはいえ、話し合いでのことを考えたりしている内に気が立ってしまって、上手く眠ることが出来なかった。
「私が起きていても、出来ることはないって判ってはいるんだけどね。むしろ、ちゃんと寝ていつでも力を使えるように整えておかないといけないんだけど……」
アーチェは髪を耳に掛け、マリーエルの顔を覗き込んだ。その仕草を、マリーエルの瞳はつい追っていた。混乱した頭に、不安が混じる。
──アメリア……。
「何も出来ないということはないと思いますが……そうですね、今はお休み頂くのが最優先です。気が落ち着くようなお茶でも淹れましょう」
アーチェは茶器を置いている棚まで歩いて行こうとしたが、マリーエルの返事がないことに足を止めた。
「マリー様? お茶の気分ではないですか?」
ハッとしたマリーエルは、取り繕うように笑みを浮かべた。
「うん、今はそういう気分じゃないかも。ごめんね」
「そうですか……では──」
アーチェは荷の方へ歩いていくと、包みを取り出して手のひらの上に乗せた。それを開いてマリーエルへと差し出す。そこには花を閉じ込めた雨露のようなものが乗っていた。
「花飴です。緊張が緩まりますよ。少なくとも私はそうなのですが……よかったら」
マリーエルは花飴をひとつ取り上げ、その甘い香りに手を止めた。甘く、意識が溶けていってしまいそうな瑞々しいすみれの香り。
動きを止めたマリーエルに、アーチェが慌てて背筋を伸ばす。
「飴の気分でもありませんか。申し訳ありません。えぇと……」
マリーエルは緩く頭を振り、花飴を口に含んだ。
「ううん、良い香りだったからつい楽しんじゃったの。頂くね」
美味しい、と笑うマリーエルに、アーチェはホッとしたように表情を和らげた。包みに目を落とし、少し悩んでから自身も飴を口に含む。寝台横の椅子に腰掛け、包みを畳むと、アーチェは笑みを浮かべた。
「今、グラウスでは花飴が人気ですが、私はここの職人のものが特に好きなんです。まぁ、私の刺繍の腕を評価してくれている職人でもあるのですが。実はこの包みの刺繍は、職人と相談して私が入れたものなんです。ほら、これからは巡礼者相手に物作りをしたり、通貨を扱ったりするでしょう? その時の為に色々と考えているんです」
マリーエルは包みを受け取り、そこに施された花の刺繍をまじまじと見つめた。
「アーチェの刺繍は本当に繊細で綺麗だもんね。この飴も凄く美味しいし、きっと人気になるね」
その言葉にアーチェは嬉しそうに笑ってから、ついと、窓の外に遠い目を向けた。
「今、お話することではないのかもしれませんが……」
「なぁに、どうしたの?」
少し俯いたアーチェは、マリーエルの手の中にある包みに目を移し、じっと見つめた。その瞳はいつもより柔らかく、それでいて何処か熱が籠もっていた。
「刺繍の腕を褒めてくれたのは、アメリア姉様が初めてだったんです」
マリーエルは一瞬だけ返事に迷い、それを取り繕うように「そうだったんだね」と返した。
じんわりと焦りのような後悔が胸の中に滲む。傷口はまだ、晒されたままだ。
アーチェは静かな口調で続けた。
「幼い頃から、衣装役の母についてグラウス城に居た私は、あの時も刺繍の練習をしていました。母の求める水準にはとても至らなくて、幼心に焦っていたんです。それを、アメリア姉様が見て『糸の引き方と、色の置き方が上手だね』と褒めてくれたんです。アメリア姉様は優しい方。周りをよく見て、気に掛けてくれる方。私は、そんなアメリア姉様を慕う者の一人だったんです。それから私は一層の努力をしました。姫様の世話役として認められ、美しさを増していく姉様に認めて欲しくて。私には手の届かない憧れの人……。結局、姉様にこれ以上褒めて貰える機会を失ってしまって……酷く胸に穴が開いた気持ちでした。でも、そんな時マリー様の世話役に選んで頂き、私は驚きました。こんな私でよいのかと悩みもしました。ですが、アメリア姉様の跡を継げるのなら、この身を尽くして頑張ろうと思ったんです。最初はその想いだけでした。精霊姫様は私達からすると、あまりにも特別な方ですから。ですが、共に過ごす内、アメリア姉様がマリー様を大切にしていた気持ちが判って……これだと偉そうですね。とにかく、精霊姫様としてではなく、マリー様に私はお仕えしたいと思っていて。だから、その……先日、マリー様のお顔を曇らせてしまったことが気懸りで」
一息に話したアーチェは、そこで言葉を切ると窺うような瞳をマリーエルへと向けた。
「アメリア姉様のことは……私よりもきっとマリー様の方がお辛いと思います。ですが、私の中にもアメリア姉様への想いが燻ぶり続けていて、どうしたらいいのか判らないんです。記憶の中のアメリア姉様のようにやってみても、マリー様のお顔を曇らせてばかり。皆さんを見ていると、いかに自分が足りていないか思い知らされます。せめて、このような時にこそマリー様のお気持ちを少しでも楽に出来たらいいのに。あのインターリ殿でさえ、マリー様にお気を配っているのが判ります。今だって、気が付けば自分の気持ちばかり……。マリー様、私はどうしたら……」
アーチェは瞳に溜まった涙を指先で払い、俯いた。
彼女はいつでも冷静に役目をこなしているのだと、マリーエルはそう感じていた。だが、ずっと自身の気持ちや、取り返しのつかないことに悩んでいたのだと知った。
マリーエルは、後悔と目の前で目まぐるしく起きる様々なことに気を取られ、すぐ近くに居る者に目を向けていなかったことを思い知った。
──自分の気持ちばかりなのは、私だってそうだ。
これではまた、繰り返してしまう。
マリーエルはアーチェを寝台の上に座らせ、震える手に手を重ねた。
「話してくれて有難う。気が付かなくてごめんね。アメリアのことは──」
そこで、マリーエルは長い息を吐いた。自身の手も震えていることに気が付く。アーチェが気遣うようにその手を擦った。
「アメリアのことは、まだ私の中でも気持ちの整理がついてないの。それは、アメリアを失ったことだけじゃなくて、それにまつわる全てのことも含めて。そのことについては、詳しく話せないの。ごめんね。これは、アーチェを信用してないってことじゃないの。アメリアのことを想うなら、話さない方がいいと私は考えてるの。それを伝えられなくて、私自身も辛くて、これまでちゃんと話せてなかったよね」
マリーエルを見つめるアーチェは小さく頷き、それ以上話の続きを求めなかった。ただ、静かに涙が一筋零れていった。
その涙を拭ってから、マリーエルは続けた。
「アーチェは世話役としていつもよくやってくれてるよ。それこそ刺繍の腕だってアメリアを越えてるかも。それに、こうして想いを話してくれたことが嬉しい。私は……話し合うことが大切だって思い知った筈なのにね……。アーチェはアーチェのやり方でいいんだよ。これは、私が言われてきたことでもあるんだけど、難しいよね。でも、大丈夫だよ。アーチェはちゃんと頼りになってるよ。──私は、アメリアが本当に大切だった。それでも気が付けなかった。後悔ばかりだけど、でもそれで今此処に居るアーチェまで失いたくない。だから……」
マリーエルは両腕を広げて笑みを浮かべた。アーチェが虚を突かれ、目を瞬く。
「ほら、ぎゅー」
「え……え⁉」
腕を広げたままのマリーエルを戸惑いの目で見やり、アーチェは眉を寄せた。その様子に、マリーエルは頬を膨らませる。
「アメリアはこういう時、ぎゅーってしてくれたもん」
「何を急に子供みたいな……あぁ、そうかマリー様とアメリア姉様は幼い頃からの仲でしたものね。ですが──ひゃっ⁉」
マリーエルが抱き締めると、アーチェは驚きに硬直した。その耳元でそっと言う。
「前に『成人したからって誰の支えも必要なくなる訳じゃない』って、アメリアがこうしてくれたの。あの時私は凄く安心したし、嬉しかった。頑張る力を貰えた。だから、私もアーチェをそうさせてあげたいなって。話をしようって言っておきながら、こういうことに頼っちゃうんだけど……。私って、元々話すよりこうして伝える方が得意っていうか……頑張って言葉で伝えようとはしてるんだけど……」
「……判ってます」
アーチェは躊躇いがちにマリーエルの背に手を回すと、長く息を吐いた。
「まだきっと話せないことが多くあるでしょう。至らぬ所もありますが、私はこうしてマリー様と判り合っていきたいです。他に並ぶ者のない世話役になってみせます」
体を離したアーチェは、視線を揺らした後、ゆっくりとした動きでマリーエルの手を取り、その甲に額をつけた。マリーエルが同じように親愛を返すと、照れたように笑みを浮かべた。
アーチェとは、アメリアの後任に決まった際に親愛を交わしているが、その時よりもずっと互いの気持ちが籠もっているように、マリーエルには感じられた。
「ねぇ、今夜は一緒に寝ない?」
「え?」
アーチェは目を瞬いてから、明らかに動揺した。
「……流石にそれは子供ではないのだし……」
「えー、だって前にカルヴァスとカナメは一緒に寝てくれたよ。あの時も辛かったけど二人が居てくれたから──」
「何ですって……?」
だから、と話を続けようとする主人の顔を見つめたアーチェは、深い溜息を吐いた。
「……不憫」
「え、ふびん?」
アーチェは、ぽかんと見つめ返すマリーエルの前でもうひとつ息を吐き、自身の寝台まで枕を取りに行った。心細そうな顔をしていたマリーエルの顔がぱっと明るくなったのを見て苦笑する。
「今夜は特別ですよ」
「うん!」
ニコニコと笑いながら場所を空けるマリーエルを見ながら、アーチェは改めて〈精霊姫〉という存在について考えた。
〈精霊姫〉ではなく〈マリーエル〉に仕えるつもりだが、それでも精霊姫であることに変わりない。その感覚は精霊に近いのだという。
同じ寝台に横になり、伝わってくる体温は温かい。しかし、その身の内に在るものは──。
「何だかワクワクしてきたね。もう少し話そうか」
「いえ、もう寝て下さい。あと、ほんの少しだけでもいいので警戒心を持って下さい。何が起きるのか判らないので」
「はぁい」
アーチェは次々に沸き出そうとする考えを頭の隅に押しやり目を閉じた。
その横顔を見つめていたマリーエルも誘われたように目を閉じた。胸の内にあった重さは、幾分か軽くなっていた。




