26話 温かい光景
「連れてきたよー!」
その時、戸布が勢いよく開けられると、リュビナが飛び込んできた。
窓の外に目を向けると、話し込んでいる内にすっかり陽が落ちていた。
カルヴァスの父テュルイスと長女のグルニカが窓の外で会釈をし、部屋に入って来て改めて頭を垂れた。
「マリーエル様。ようこそおいで下さいました。心ばかりではありますが、お気に召して頂けるよう一家共々尽くさせていただきます」
そう言うテュルイスにマリーエルも「お気遣い有難うございます」と深々と礼を返した。
「さて、食事にしましょうか」
クルトロが言うと、リュビナが「オレここに座るー」とマリーエルとカルヴァスの間に割り込んだ。こら、と叱られるのに、問うような視線でマリーエルを見上げる。
「姫様のとなり、いいでしょ?」
マリーエルはクスリと笑って頷いた。
クルトロは謙遜したが、十分すぎる程の温かい食事が卓に並べられた。
食事をする間、窓から中の様子を見ようとする者達が訪れたが、それを手で追い払っていきながらも、マリーエルには「どんどん食べて下さいね」とクルトロは笑顔で言った。
食後のひと時を楽しんでいると、思わぬことでカナメとグルニカが茶の話で盛り上がった。
グルニカは父とよく似た涼やかな顔で、楽しそうにカナメと話し合っている。兄の帰郷と、国中から羨望の眼差しを向けられているマリーエルがすぐ近くに居るということにそわそわとしながらも、あれこれと茶について話すカナメを、僅かに熱のこもった瞳で見つめている。
「それなら少し分けよう。茶葉は多めに持って来ているんだ。これは厨役の者達と話し合って作っていて、最近作ったものの中では一番の出来なんだ」
荷から袋を取り出して、端布に包むカナメにグルニカが頬を染め「嬉しい!」と声を上げた。
その様子を何とも言えない表情で見やったカルヴァスが言う。
「いいけど、駄目だからな」
グルニカが小さく笑い、小首を傾げた。
「何言ってるの、兄さん」
カルヴァスは眉根を寄せたが、カナメは何のことだか理解していない様子で「おかしなものは入っていない。君も飲んだことがあるだろう」と当惑して言った。グルニカがクスクスと可笑しそうに笑う。
呆れた顔をするカルヴァスに釣られるようにして、様子を見守っていたアーチェが溜め息を吐いた。
その時、騒がしい声が聞こえてくると、リュビナを背に乗せたベッロが転がるようにして家に入って来た。楽しそうに笑うリュビナを下ろしてから身震いし、変身すると、その様子を見たリュビナが瞳を輝かせる。
「すげー! また女になった!」
「おい、リュビナ。そういう失礼な言い方は止めろ」
カルヴァスが諫めると、ベッロはニコニコとしたままリュビナを抱き上げ、その頬を撫でた。
「大丈夫。子供、守るもの。かわいい」
ベッロがリュビナの体をくすぐり始めると、ベッロの腕の中で身をくねらせながらリュビナがケラケラと笑う。
カルヴァスはふっと表情を和らげると、ベッロに言った。
「遊んでくれて有難うな」
「うん。ベッロも、楽しい」
ベッロの髪に顔を押し付けるようにしていたリュビナが、パッと顔を離し、声を弾ませた。
「そーだ! 朝になったらジュリアスの丘までかけっこしようぜ、ベッロ!」
ベッロは瞬きをしてから、緩く首を振り、マリーエルを見やった。
「駄目。ベッロはマリーと一緒に行く」
少し悩んだリュビナは、マリーエルを見下ろした。
「じゃあ姫様も一緒に行こうよ」
「リュビナ! 姫様になんて失礼な……!」
クルトロが険しい顔で立ち上がると、リュビナは怯えたようにベッロにしがみ付いた。
「大丈夫ですよ」
そう言ってから、マリーエルはちらとアントニオとアーチェの様子を窺った。二人とも特に気にしていなさそうなので、内心ホッとする。姫としての振る舞いは間違っていないか、不安になってしまうことがあった。
マリーエルは改めて笑顔を浮かべると、リュビナの許に歩み寄った。
「ごめんね、リュビナ君。本当は一緒に遊びたいんだけど、私達にはやらなくちゃいけないことがあって、その途中なの」
「……うん」
隣に立ったカルヴァスが、リュビナの頭を撫でる。
「オレもベッロも姫様を守る役目を仰せつかっているんだ。判るよな」
その言葉にリュビナは頷き、しかし残念そうにベッロを見つめた。ベッロは柔らかく笑うと、その頬をペロリと舐める。
「また来る。その時、かけっこ。いい?」
リュビナはパッと瞳を輝かせると、その首筋に抱きついた。
「約束な、ベッロ!」
「うん、約束。ベッロとリュビナの約束」
「姫様も!」
リュビナが満面の笑顔でマリーエルを振り返った。
「うん、約束だよ」
マリーエルの返事に嬉しそうにしたリュビナは、ちらとカルヴァスを見やり、悩むようにしてから付け加えた。
「兄さんも入れてあげても良いよ」
「なんだとー? 生意気な奴だなぁ?」
カルヴァスがリュビナに手を伸ばすと、ベッロがくるりと回ってそれを躱す。リュビナが楽しそうに声を上げた。
「姫様―! 兄さんやっつけてー!」
「よーし、任せてー!」
マリーエルがカルヴァスの背後から羽交い絞めしようと手を伸ばすと、「お前なぁ」と声を上げたカルヴァスは、ニッと笑ってからマリーエルの体を抱きかかえた。首元に抱き着くマリーエルを抱えたまま、カルヴァスはリュビナの許へと歩み寄る。
「ほら、姫様はオレの味方だぜ。なぁ、マリー?」
「え? う、うーん……そう! リュビナ君のことくすぐっちゃうよ!」
マリーエルが手を伸ばすとリュビナが笑いながら体を捩った。
リュビナの楽しそうな声と、それに乗りマリーエルまで巻き込んだカルヴァスにオロオロとしていたクルトロだったが、アントニオが微笑ましげにそれを見つめているのに気が付き、ホッと胸を撫で下ろした。テュルイスも温かい目で盛り上がる四人を眺めている。
アントニオは、子供のようにはしゃぐマリーエルの姿を何処か嬉しく思っていた。本来ならば、姫としての振る舞いをと諫めるべきかもしれないが、それよりも何かに思い悩み眉を曇らせることなく笑い声を上げるマリーエルの姿を見るのは、一体いつぶりだろう、と考える。
深淵の女王の出現と、大陸への旅を経て、元々の天真爛漫さはすっかり鳴りを潜めてしまった。勿論、全く笑わなくなった訳ではない。だが、様々な経験を経て、精霊姫としての自覚が芽生えたからというだけではない何かが、マリーエルの笑顔を曇らせていた。以前よりもずっと、内に燻ぶる想いを押し隠してしまう。
アントニオは、マリーエルが抱える状況を、少しでも軽くする能力が自身にないことを自覚していた。与えられるのは〝知識〟だけ。そして姫としてのふるまいを教え、導き、支えるだけ。アントニオなりの愛情は深く在ったし、マリーエルがそれを理解していることも知っている。しかし、今のマリーエルに必要なことは、きっとアントニオには与えることが出来ない。
僅かに痛んだ胸を意識しながら、アントニオは笑い声を上げるマリーエルを見つめた。マリーエルが失ったものは様々あるが、得たものも確かにある。
マリーエルと共に笑い合う者達の顔を見やる。
アントニオは、一度目を閉じてから、自身の役目を強く意識し、立ち上がった。
「いつまで姫様をそう振り回すつもりです、カルヴァス?」
動きを止めたカルヴァスが、「楽しかったろ?」とマリーエルに訊き、頷きながら笑うマリーエルをそっと下ろした。
アントニオはベッロの許まで歩み寄り、リュビナの顔を覗き込んだ。
「リュビナ、貴方には姫様に対する礼儀を教えて差し上げましょう」
「れいぎ……?」
目をぱちくりとさせるリュビナの目の前で跪いたアントニオは、優雅に礼をしてみせた。
「こうして私達は姫様に対する敬愛の気持ちを表すのです。いきなり手を取ることはしてはいけません。不躾に言葉を投げる等も以ての外です」
「もってのほか……」
アントニオの有無を言わさぬ様子に気圧されたリュビナは、大人しく指導を受け始めた。カルヴァスが口を挟んだりして、和やかに、それでいて真剣に指導は続いた。




