23話 いざこざ
「そういえば、カナメのことですが、自分に何かあった際に一族の記録を失ってしまうからと、長の書を私に」
アントニオが思い出したように言った。
「あぁ、そうなんだ。随分悩んでたみたいだけど。書いてあることは判るけど、自分にはそれを活かす法が判らないって」
長が残した書にはカナメの出生の真実や、一族の掟、卜占による予言や長の私的な想いまでが綴られていた。それらは、カナメに知識を授ける為というよりは、一族の行く末と終焉の為に纏められたものだった。集落を離れ生きていくカナメを後押しすることを目的としたそれは、カナメが読み終え、想いを受け取った時点で役目を終えている。
カナメは長いこと、手元に残すか、処分するか、アントニオの許に預けるか悩んでいた。
「書を受け取った時、一族の最後の生き残りといって良いのか判らないが、と零していました」
「そんな……。カナメの生まれのことを考えるとそう考えちゃうのかもしれないけど、でも──」
「ええ、書から読み取るに、長や他の一族の者達がカナメを一族の仲間だと認めていなかったという風には取れませんね」
じっと話に耳を傾けていたカルヴァスが、手に持っていた焼き菓子を置き、言った。
「集落でのことが余程効いたんじゃねぇかな」
「集落でのこと?」
アントニオが首を傾げると、カルヴァスは一瞬だけ深刻な顔をしてから集落での一件を語った。
「正直、オレがあいつの立場だったらかなりキツい」
カルヴァスの言葉に、アントニオは眉根を寄せ、小さく息を吐いた。
「そのようなことがあったとは。確かに、彼は随分と素直に受け取ったようですが、そう簡単に飲み込める筈のことではありませんからね」
「アイツは言葉は少ないけど、あれで結構色々と考えてるからな。考えているのに自分で気が付いてない節もあるけど。それに最近は──」
カルヴァスはちらとマリーエルを見ると、軽く鼻で笑ってからマリーエルの口の前に焼き菓子を差し出した。カルヴァスの手からぱくりと焼き菓子を食べるマリーエルにアントニオは咎めるような視線を向けたが、何も言わなかった。
「随分とアイツのことを気にかけてるみたいじゃねぇか。散々アイツの動向を疑ってたくせに」
カルヴァスの悪戯っぽい顔に、アントニオはゆっくりと茶を飲んでから、口角を上げた。
「彼は勉強熱心ですからね。貴方のように必要な知識のみを効率よく得ようとするのではなく、今は必要なくともただ知りたい、という想いで知識を得ることを良しとしているのです。近く、一族に伝わる言葉の研究もしようと話し合っている所です。あぁ、楽しみで仕方ない」
「はっ、オレだって必要な知識を得る以外にも書物くらい読むっての」
「知識とは、兵法や武具に関するものだけではないのですよ」
「ちょ、ちょっと二人とも喧嘩しないでよ……!」
マリーエルが割って入ると、二人はむっとした顔をして「喧嘩などしていない」と口を揃えた。
二人は昔から些細なことをきっかけに言い合うことがあった。二人とも本気で相手を傷つけようとしている訳ではないことは判っているが、見ているだけでひやひやとすることがある。誰かが止めなければその勢いは加熱していくが、止めてしまえば何事もなかったかのように話を続けているのが二人の関係だった。
今までであれば二人を制止するのはアメリアの役目だった。にこやかに制されると、二人は気まずげに視線を逸らし、カルヴァスは小さく文句でも呟いてから一度話を止め、次の瞬間には何事もなかったかのように話し出していた。
「姫様、よろしいですか?」
その時、部屋の入り口からアーチェが困惑したように覗き込んだ。世話役の会合に参加していたアーチェは、手にした包みを見るに楽しいひと時を過ごしたように思えるのだが、問題が発生したようだ。
「どうしたの?」
マリーエルの言葉に、茶器を傾けているアントニオに目をやってから、自身の背後に一瞬目を向ける。そして、何故か言いにくそうに来客を告げた。
「ヨンム様がお越しです。アントニオ殿をお探しとのことで」
アントニオに視線が集まった。当の本人は、眉間に深い皺を寄せている。
「お通しして」
マリーエルが言うと、アーチェは廊に引っ込んでいき、動揺した顔で戻って来た。彼女がそのようになった原因は、すぐに判った。
姿を現わしたヨンムは、夜を徹したのか酷い色の顔の中で、瞳を鋭く光らせていた。乱れた髪は無造作に結われている。
ひた、とアントニオを見据えたまま言う。
「マリーエル。悪いけど、この場を借りるよ」
「いいですけど……」
「その話なら昨夜した通りです。私は意見を変えるつもりはありません。そして、わざわざ姫様の前でする必要もありません」
アントニオは不快そうに目を細めたまま、静かに立ち上がった。
「いいや、マリーエルにも関係することだ。この際、意見を聞こうじゃないか」
「意見……?」
話が見えず、助けを求めるようにカルヴァスに目を向けたが、しかし彼も訝しげな顔で成り行きを見守っていた。
「アントニオは、研究や役目を放って、次に君がこの地を離れる際にはついて行くと言うんだ」
「え……はい?」
戸惑うマリーエルの前で、ヨンムは鋭い視線をアントニオに向ける。部屋を出て行こうとしたアントニオの肩をヨンムが押し返した。
「今行っている研究はアントニオの知識があったからこそ成せたものなんだ。それなのに、この段階まできて手を引くと言っている」
「何をおっしゃいます。現段階で既に私の知識は必要ありません。研究の成果が出るのも、ヨンム様の才能によるものではないですか。何故、私が関わることに拘るのです? 貴方の周りには優秀な者達が多くいる。勿論、私にお手伝い出来ることなら喜んでしましょう。知識を活かし、国に貢献するのも本望ですから。ですが、今、私の知識が必要だとは思えません」
アントニオの言葉に、ヨンムはぐっと呻いて俯いた。
「それなら……それなら今までは──」
ヨンムはそれ以上言葉を継がず、奥歯を噛んだ。その様子に、アントニオは畳み掛けるように言う。
「確かに私は今、姫様の教育役を離れています。相談役や、他国とのやり取り、そして研究に携わること、どれも興味深いものばかりです。しかし、私が知を授かり、この城へと馳せ参じたのはマリーエル様のお役に立つ為。貴方も呼び掛けを受けた者として、その想いは判るでしょう? 私は、深淵の女王が現れたあの日、そして姫様が大陸へと旅立つ際に、ただ見送るしか出来なかったことを悔いていました。ジュリアスの件でも私の力が及ばず、同行が叶いませんでした。ですが──」
「いいじゃねぇか。お前の知識は皆が必要としている。マリーの役に立つって言っても、やり方はいくらでもある。お前がこの地で知識を使い、それが巡り巡ってマリーの役に立つこともあるんじぇねぇのか」
カルヴァスが口を挟むと、アントニオが鋭い視線を向けた。
「貴方は精霊隊隊長という座を手にしたのだからいいでしょう。私は……私は──」
アントニオが思いつめたように唇を噛み、顔を背けた。ヨンムが顔を上げ、口を開こうとするのに、一歩後退って拒絶の姿勢を取っている。
シン、と部屋に沈黙が落ちた。
カルヴァスとアントニオの喧嘩とは比べ物にならない程の重苦しさが部屋を支配する。
あまりのことに、マリーエルはおろおろと争う二人を見比べた。
アントニオもヨンムも、このようなことで言い争うのは珍しい。特にヨンムは、殆ど部屋に籠りきりなのと、常に研究のことで頭がいっぱいで、他人と言い合うことすら無駄だと切り捨てている所がある。
マリーエルはアントニオに呼び掛けた。
「あのね、今でも十分アントニオには助けて貰ってるよ。私の為に尽くそうとしてくれるのは勿論嬉しいけど、でもアントニオを必要としているのは私だけじゃない。それに、私だってまだ頼りないかもしれないけど、少しずつ役目を果たす為に頑張ってるから、そんなに心配しなくても大丈夫だよ。研究だって必要なことだよ」
ですが、と言い淀んだアントニオは、縋るようにマリーエルの前に跪いた。
「何の為に私は姫様の許に馳せ参じたのか。貴女が精霊姫としての役目に奔走するのに、私はお側に居ることも出来ない。これでは……私は自分の存在価値を計り兼ねています」
マリーエルはどう答えたら良いのか迷い、アントニオを見下ろした。
何処か面白がっていた節のあるカルヴァスも、首を傾げて何かを考え込んでいる。ちらとヨンムを見やってから口を開いた。
「精霊隊隊長として、次フリドレードが動きを見せた際に、お前を隊に同行させるよう話を出すことは出来る。多分、フリドレードとのやり取りは、お前の力も十分に使えるだろうからな。ただ、こればっかりはオレと、そしてマリーが提案した所で実現する訳じゃない、ってことはお前も判ってるよな?」
「はい」
「どうしても、マリーの側に居たいんだもんな、お前は」
「はい、勿論です」
アントニオの言葉に、ヨンムが小さく呻いた。
「もういい」
ヨンムはそう言い残すと、挨拶もせずに部屋を出て行った。
怪訝そうに振り返るアントニオに、マリーエルは言った。
「あのね、私の役目にアントニオの力を借りること、ついて来て貰うこと、それは十分にあると思う。何も事情を考えなくていいならお願いしたいよ。でも、私はヨンムお兄様と仲良くして欲しいな、って思う。お兄様がここまで他人のことで意見を言う所って初めて見たし、きっと研究にアントニオのことが必要なんじゃないかな。それに、ヨンムお兄様と一緒に部屋に籠れる人ってアントニオ以外に見たことないもの。お母様も凄く驚いてたし、喜んでた。だから、仲良くして欲しいな。それで、皆が納得出来るように調整しよう。勿論……全部上手く調整出来るかは判らないけど……私は、そうしたいな」
アントニオは暫し押し黙ると、目を伏せてから「判りました」と答えた。
「ヨンム様の許に居たくないとは思っていません。ただ、ヨンム様の許にだけ居る訳にもいかないということです。ここの所は特に部屋に籠って研究に追われてばかりいましたから」
マリーエルは、困ったように笑ってから「よろしくね」と念を押した。




