5話 成人の儀の朝
成人の儀の当日。グラウス城城内は慌ただしく人々が行き交っていた。いや、グラウス城だけではない。国中が浮つき、盛り上がりを見せていた。
精霊国は、グラウス地方の他に三つの地域に分けられ、それぞれを初代グランディウスの子孫が治めている。
この日は各地で祈りが捧げられ、中には精霊姫の姿を一目見ようとグラウスまで足を運ぶ者や、大陸から海を渡って訪れる者もあった。朝早くから町では祭りの雰囲気一色で、食事や歌や踊りで賑わっていた。
「ああ、良かった。起きていますね。今日の予定は全て頭に入っていますか?」
部屋に入ってくるなり、アントニオがそう言い放った。
「……もっと先に言うことがあるんじゃないの?」
マリーエルは食べようとしていた麦餅を置いて、不満を露わにアントニオを見上げた。
アントニオは口を噤んだまま、見る見る血の気を失い絶句している。何かを言おうと口を開くが、すぐに閉じてしまう。
アメリアが優雅な手つきで茶を茶器に注ぐ音だけが聞こえる。その間アントニオの視線はマリーエルとアメリアの間を行ったり来たりした。
アメリアが手を止め、アントニオに目を向ける。
「貴方がこの日の為、尽くしてきたのは知っているわ。その気持ちも判る。でも一番大切なことを忘れていないかしら」
視線を彷徨わせていたアントニオは項垂れた。
「申し訳ございません」
それだけ絞り出すと、再び口を噤む。よく見れば血の気の失せた顔の中で、目の下にうっすらと隈を作っている。
主役より緊張してどうするのだ。
少しの間、額に汗を浮かべる彼の様子を見つめてから、マリーエルは苦笑した。息を吐いてから、アントニオ、と呼ぶ。
「この日を、きっと私よりずっと自分のことのように、大切に想ってくれているんだよね?」
「勿論です……!」
アントニオが張り切ってヘマをするのは過去に何度もあった。その全てがマリーエルに関することで、その根源にあるのは愛情なのだとマリーエルには痛い程伝わっている。
自分以上に力んでいる者が居るということに、緊張が和らいだ。
「まだ今日は始まったばかりだもの。素敵な始まりにしてくれる?」
顔を上げたアントニオは出かかった詫びの言葉を飲み込み、居住まいを正した。マリーエルの前に跪き、そっと手を取ると真摯な瞳で見上げた。
「貴女がこの世界に生を受けてから、一生を捧げる覚悟でお仕えして参りました。今日この日を迎えらえましたこと、心より嬉しく思います。成人おめでとうございます、マリーエル様」
マリーエルの手を掲げてから、アントニオは甲に額を付けた。
まるで祈りのような時の中で、彼と過ごした時を思い返した。様々なことを教わり、経験をしてきた。その殆どが厳しい表情を浮かべている記憶ばかりだったが……。
「私も成人になったことだし、これからは叱ったりするのを控えて欲しいな」
「それは貴女次第です」
立ち上がったアントニオはこめかみを押さえながら腕を組んで、いつもの声色で言った。この日の為に立ち直った彼はやる気を取り戻し、激しく燃やし始める。
「さぁ、朝餉を取りながら予定の確認をしますよ。今しっかり食事をしておかなければ……という助言は貴女には不要ですね」
既に半分近く平らげている皿を見下ろし、アントニオは静かに言った。
朝餉と着替えを終え広間に移動すると、既に兄弟姉妹の何人かが集まっていた。
一番上の兄カオルがぱっと立ち上がると笑顔で歩み寄って来た。
「我が妹よ。マリーエル、成人おめでとう」
「有難うございます、カオルお兄様」
カオルはマリーエルの肩を寄せ、抱き締めた。たくましい腕の力強さと温もりが伝わって来る。
次期国王として幼い頃より期待され、グランディウスの意志を継ぎ、善く国を治める為教育を受けていたカオルは、年の離れた弟妹との直接的な関りは少なかったが、家族というものに対しての愛情は誰よりも深かった。
マリーエルは幼い頃に、精霊国での主な移動手段である霊鹿の乗り方を教わったことがある。カルヴァスと遠乗り出来るのも、カオルが器用に教え込んでくれたのが大きい。
「良い朝を迎えられたかな」
その深い声にマリーエルは振り向いた。グランディウス王だ。
伸ばした髭を弄りながら、温厚さを隠せない瞳が嬉しそうにマリーエルを見つめている。
座っていたレティシアや四番目の兄ヨンムも立ち上がり会釈をする。それに応えながら父王はマリーエルの許まで歩いてくると、彼女の式典服姿に目を細めた。
「実にめでたく喜ばしい日だ」
肩に置かれた温かい手に手を重ね、マリーエルは成人らしく見えるよう微笑んだ。
「有難うございます、お父様」
途端、父王はウッと言葉を詰まらせ眉を下げた。
「あんなにお転婆でどうなることかと思っていたが、こんなに立派になるなんて……」
「父上。今からその調子では成人の儀どころか、祝賀行進までもちませんよ」
カオルは腕を組み呆れたように言ったが、声には嬉しそうな響きを滲ませていた。
「おぉ、そうか、そうだな。あぁ、実に喜ばしい」
しみじみとした声にマリーエルが応えようとしていると、父王の後ろから木漏れ日色の影が飛び出してきて、腰の辺りにしがみ付いた。驚いて視線を下げると、末妹のアンジュが丸い瞳で見上げていた。アンジュはハッと身を離し、もじもじしてから口を開く。
「おねえさま、成人おめでとう、ございます」
再びもじもじとしてカオルに視線を向けると、カオルが嬉しそうにアンジュを抱き上げた。急に視界が高くなったアンジュは、カオルの首にしがみついた。
「よく言えたな! アンジュも立派な成人の仲間入りかな?」
アンジュはクスクスと笑い、父王にも頬を撫で褒められると、こそばゆそうに笑みを浮かべた。
「アンジュ、お祝いの言葉を有難う」
マリーエルが彼女の手を取りそっと額をつけると、アンジュは誇らしさを滲ませながらはにかんだ。
「式の準備は整っているかね?」
父王がアンジュを愛でながら、カオルに訊いた。
「はい。クッザール隊からも全て順調に進んでいると報告がありました。クッザールは予定通り行進が始まる前に合流します」
主に警備を担っているクッザール隊は、祝賀行進順路の警備の為駆け回っている。副隊長であるカルヴァスも式が近づくにつれ、その姿を見掛けても物凄い速さで遠ざかる後ろ姿や横顔だけとなった。
「母上とジャンナはいつも通りだよ」
父王の言葉に、カオルは納得したように頷き、笑顔を浮かべた。
シャリールと長姉のジャンナは、容姿だけでなく性格も似ていて、実りの草原色の髪と瞳を見合わせて、あれこれ楽しそうに話し合う姿は、まるで親友同士のようにも見える。
「あらまぁ、とっても素敵だわ、マリーエル」
広間の入り口で声が上がった。遅れたことを詫びながらも、ジャンナの視線はマリーエルの姿に釘付けだった。
「お母様に聞いた通りだわ。精霊姫の成人の儀に相応しい式典服ね。当日の楽しみにとっておいて良かった。おめでとう、マリーエル」
ジャンナは衣装に皺が寄らないようそっとマリーエルを抱きしめると、後から歩いて来たシャリールときゃあきゃあと盛り上がった。
「さて、あとはクラヴァットが呼びに来るのを待つとしよう」
父王が言うと、それぞれ頷き合いマリーエルを褒め、祝いながら席に着いた。
王佐のクラヴァットの許に全ての情報が集まり、式典が進行する。
マリーエルは、皆の話を聞くともなしに聞きながら、この場に居ない次兄のことを想った。次兄はマリーエルが七つの頃、大陸を訪問していた際に命を落としている。幼かったマリーエルは事態が飲み込めず、ただただ戸惑うしか出来なかった。包み込むような柔らかい声が耳の中に蘇る。
「皆様、お揃いですね」
クラヴァットの鋭い声で、マリーエルは意識を引き戻された。