7話 ジュリアスへ
木々の波を抉り取るように、ぽっかりと開いた穴は、ジュリアスへと続いている。
既に物資などが運び込まれ始め、多くの兵が行き来している。木々の波に巻き込まれた者達が運び出され、手当てを受けていた。
木々の隙間から小さな毛玉が飛び出すと、前を歩くカルヴァスの頭に着地した。
「アール!」
マリーエルの声に、アールはふんぞり返ったが、さっと伸びたカルヴァスの手に肩まで引き下ろされた。
「乗るなとは言わねぇけど、せめて肩にしろ。お前が暴れ回ると視界がぐらつくんだよ」
なんじゃと、と反論しかけたアールは鼻をひくつかせ、妙な顔でマリーエルを見つめた。
「姫よ、何故木の奴をその身に宿しておるのじゃ」
マリーエルが事情を説明すると、アールはふぅんと唸り、小さな手を組んだ。
「精霊界でも奴の力を捉えることが成ったのは、姫の力と混じったのが理由か。ようやった。しかし、早いところ別の依り代に移した方がいいじゃろうな。姫は木の精霊の為だけに在る訳ではない。他の精霊が騒ぎだす前にな」
マリーエルが頷くと、アールは満足そうにヂッと鳴いた。
「で、この木々の波は実際どんな感じなんだ? 力の凝りさえどうにかすれば済むのかと思ってたけど、凝り以外は消えそうにないだろ」
カルヴァスが訊くと、アールは難しい顔を浮かべて肩に座り込んだ。
「此度のこの力は、全て命世界でのみ結びつき広がっておる。木の精霊の力が必要以上に溢れた結果、この歪な木々もある意味で森であるのじゃ。とはいえ、森の作り手である儂等にとってもこれは到底森と呼ぶべきものではない。少しずつではあるが、木々を手折っていくしかあるまいな。グランディウスは耕す手間が省けたと、土の精霊と共に力を揮っておったが、儂等としては過不足なく森を作るつもりなのじゃがなぁ。まぁ、こちらは儂等に任せるがよい。姫は、木の精霊の力を移す先を見つけ、その地で力を安定させた木の精霊自らに、命世界での力の流れを正させればよい。姫にとっても儂等の力を扱う修練になるじゃろう。ほれ、気を緩めたな、咲いたぞ」
アールが小さな指でマリーエルの頭上を指さす。
「わっ、本当だ」
慌てるマリーエルの横を歩いていたカナメが、そっと花を抜き、懐に仕舞った。
「有難う。本当、ちょっとでも気を緩めると咲いちゃうねぇ」
苦々しく笑うマリーエルに、カナメは気遣うような、それでいて柔らかい笑みを向けた。
「それにしても──」
ふと顔を巡らせたアールがインターリに目を止め、ニヤリと笑った。
「おぉ、お主は何故ここにおるんじゃ? 姫の許に集うことを拒絶しておいて」
インターリが鼻で笑い飛ばした。
「別に、わざわざ『姫の許に』なんて言わなくたって僕がやることに変わりは無いからね。ねぇ、他の精霊に言われない? 古臭い考えの石頭だって。あれ、アンタって石の精霊だったっけ?」
「ほう、よく口が回るようになったようじゃな。ついこの間まで腹に穴を開けておったくせに」
アールとインターリは無言で睨み付け合い、今にも飛び掛かりそうだ。しかし、カルヴァスの手が伸び、アールの首根っこを掴み上げた。
「なに遊んでんだよ。お前はお前でやることあるんだろ。しっかり栗鼠の精霊として役目を果たして貰わないと困るぜ」
反論しかけたアールは、むぅ、と唸った。
深淵の女王との対決以来、アールとカルヴァスの関係は少しだけ変わっていた。それは、カルヴァスがより大きな火の精霊の力を扱えるようになったからでもあるし、インターリという新たなおもちゃを見つけたせいでもあった。
「まあ、よい。お主も器として役目を果たし、姫の役に立て」
「判ってるよ」
カルヴァスがアールを肩へ戻すと、アールはマリーエルへと向き直り、ひと声鳴いてから木々の波の中へと姿を消した。
「そろそろ途切れるぜ」
カルヴァスが道の先を見据え言った。篝火が焚かれ、ぼんやりと照らされている道の先は、それでも尚薄暗い。
ジュリアスを覆った木々の波は、陽の光を地上へ届けず、上空高くで固く結んでいる。グラウスよりずっと少ない精霊石が仄かに光るのが、暗く沈む木々の輪郭の合間に見え隠れする。
歩いて来た道を振り返ると、ずっと後方に陽の光が差しているのが判った。
「陽の光を、取り戻そう」
マリーエルが言うと、カルヴァスが振り向き、頷いた。
「まずはクッザール隊の陣へ向かう。そこで態勢を整えて豊熟城へ向かおう」
「うん」
マリーエルは篝火で照らされて尚、辛うじて判別出来るだけの路を歩きながら考え込んだ。
果たして、ただ力を求めただけでこのような事態になるだろうか。木々の波はグラウス城からも視認出来た。あの時、あの瞬間まで、マリーエルは異常な力を感じることはなかった。影の存在による歪みや澱みが発生しているとはいえ、精霊姫が精霊の力を感じ取ることが出来ないなど在り得ない筈だ。それは精霊王も同じことで、木々の波が押し寄せてから、強大な力の迷いを感じ取ったことは、本来有り得ないことだった。
「どこ行くんだよ」
くい、と腕を引かれてマリーエルは顔を上げた。カルヴァスの後ろを歩いていたつもりだったが、考え込む内に路を外れていた。目前に森が迫っていた。
「姫様、灯りを点け直すからお待ちを、と言ったじゃありませんか!」
アーチェの慌てた声が、灯りと共に迫って来る。
「あ、ごめんね。ちょっと考え事してて」
「判ってます。だから、敢えて荷をお願いしたのに、荷を持ったまま歩いて行ってしまうなんて。これからは紐でくくるしかなくなりますよ」
アーチェはマリーエルの腕から荷を取り上げると、はぁと息を吐いた。その横をベッロが歩み出て、森に視線を向けた。耳をピンと立て、音を聴く。その様子を見たカルヴァスが剣を抜いた。
「構えろ。周囲を警戒」
カルヴァスの声に皆がマリーエルを囲むようにして構えた。間もなく、森の奥から下生えを踏みしめる音が聞こえてくると、ドサリと重い音がして、下生えの間から、傷つき汚れた手が覗いた。
「人だ!」
ベッロは声を上げ駆け寄ると、下生えを掻き分けその体を引き出した。木の精霊の力を強く受けた気を持つ女が、泥で汚れた顔を苦しげに歪め、呻いている。背に傷を受け、そこから影を滲ませていた。
「大変……早く影を祓わないと!」
駆け出しそうになったマリーエルは、足を止め、体を引いた。森の奥に視線をやったベッロが女の体を抱え上げ、マリーエルの許まで後退る。
次の瞬間、森の暗闇の中から影の塊が飛び出して来た。びちゃびちゃと影を滴らせたそれは、辺りを覆い、塗り潰すようにマリーエル達へと襲い掛かった。
「影憑きか……!」
カナメが揮った細剣を易々と避け、影憑きはそのかぎ爪を振るう。カルヴァスの炎剣が影憑きの腕を焼き斬った。
「お前達はマリーを守れ! マリーは祓えを!」
カルヴァスは、インターリ、ベッロ、アーチェに手で合図すると、再び炎剣を揮った。影憑きを見やり、眉を寄せる。
「何だ、コイツ。元がどんなモノだったのか判別出来ねぇ」
カルヴァスが炎剣を揮い、それを補うようにカナメが細剣で斬り裂いていく。
「蝕む影を──斬れはするが──弱ったようには、見えない……!」
「また──新種か⁉ 面倒く、せぇ!」
カルヴァスとカナメが影憑きと戦うのを横目に見ながら、マリーエルは女の傷の具合を確かめ、気を探った。身の内に木の精霊が居るお陰か、力なくベッロに抱えられている女の気に潜るのは簡単だった。溶けるように気が絡み合う。マリーエルは影を祓った。
アーチェの手当てが終わると、女は薄く目を開けた。覗き込むマリーエルとベッロの顔を戸惑いながら見つめ返す。
「大丈夫?」
ベッロの問いに、女は小さく頷いた後、顔を顰めた。
「痛い? よしよし」
ベッロは優しい手つきで女の肩を撫でた。最初こそ戸惑っていた女は、ふっと表情を緩め、薄く笑った。
「怪我をすると、師匠がこうしてくれる。よしよし、ベッロ、嬉しい」
ベッロの笑顔に、マリーエルが思わずなごんでいると、インターリが地を蹴った。カナメが斬り上げた影憑きの腕が、地を滑り目前まで迫っていた。それに剣を突き立て地に縫い留めると、インターリは嬉々とした色を滲ませながら、不機嫌な声を上げた。
「あのさぁ、こっちはぼんやりした奴等ばっかりなんだからさぁ、ちゃんと考えて戦ってよね。精霊隊の隊長と副隊長でしょ」
インターリが、剣を引き抜き地に転がる腕を蹴り飛ばすと、崩れ始めていたそれは霧散した。
カルヴァスは地に崩れ落ちた影憑きに目を落としながら、インターリにひらひらと手を振って応えた。
「あぁ、悪かったよ。──マリー、こっちも頼む」
「うん」
マリーエルがカルヴァスに呼ばれるのと入れ替わりにカナメがインターリに歩み寄ると、インターリの肩口に視線を縫い留め、剣を抜いた。
文句を言ってやろうかとニヤつきながら口を開いていたインターリは、眉を寄せ動きを止めた。
「は、お前もしかして怒っ──」
「動くな」
そう言うと、カナメはインターリの肩口に向けて細剣を揮った。剣の柄を僅かに握っていたインターリは、ゆっくりとカナメの剣筋を辿ってから、顔を歪めた。
細剣が素早く影の残り滓を斬り裂き、霧散させていた。
「この小ささになっても残るとはな。やはり、影の存在が確かなモノになってきているのか……」
考え込み始めたカナメを、インターリは不機嫌そうに睨み付けた。
「お前のそういう感じ、どうにかならないの。うっかり剣を構えそうになったんだけど」
「え、あぁ……すまない。逃がす訳にはいかないと思って、慎重になっていた」
インターリが深い溜息を吐いてから文句を続けようと口を開いた時、影憑きの祓えを見守ったカルヴァスがマリーエルと共に戻って来て、インターリの頭を軽く小突いた。
「はいはい、インターリはカナメお兄さんに助けて貰ったお礼は言ったのかな?」
「はぁ? というか、年齢で言えば僕の方がアンタ等より上なんだけど!」
どうだかな、と鼻で笑ったカルヴァスは、不安そうに一同を見回す女にいくつか問いかけ、立ち上がらせた。
「この状況なら他にも森の中に怪我人が居てもおかしくない。この暗さじゃ救助も難航しているだろうし……。陣に急ごう」
そう言ったカルヴァスの視線の先で、霊鹿が駆けてくるのが見えた。カルヴァスが灯りを掲げると、用心深く霊鹿を止めたクッザール隊の兵がほっと息を吐いた。ちら、と女を見やる。
「カルヴァス精霊隊長、お戻りだったんですね。姫様も……鹿上から申し訳ございません。想定より状況が悪いもので、その旨国王へ報告にと。──そちらの者はこの先の陣へとご案内下さい。他の者達と共に我等で保護します」
「クッザール隊長は豊熟城か?」
カルヴァスが訊くと、兵が頷いた。
「判った。怪我人を送り届けたら、オレ達も豊熟城へと向かう」
兵を見送り歩き出そうとすると、女が「あの」と引き止めた。
「助けて頂き有難うございました。影に襲われ飲まれた時には終わりを覚悟しましたが、精霊姫様御自ら祓えをして頂き、言葉になりません」
女はマリーエルに深々と頭を下げた。次いで、皆の顔を見回し、もう一度頭を下げる。
「皆様も、影憑きへの応戦お疲れ様でございました。術師としてお役に立てず、恥ずかしいばかりです」
頭を下げたまま恐縮する女の許に、マリーエルは歩み寄って顔を上げさせた。
「貴女が無事でよかった。共にこの困難に立ち向かいましょう。勿論、貴女は傷を癒してから。痛むようなら言って下さいね」
マリーエルが女の手を手で包むと、女は感激したように瞳を潤ませ、感謝の言葉を繰り返した。
その様子を眺めていたカルヴァスが、ふいにインターリへ意味ありげにニヤリとした笑顔を向けた。インターリは小さく呻き、ちらりとカナメを見やってから、顔を背け歩き出す。
「ほら、早く行かないの、お姫様」
「あ、そうだね。行こうか」
我が物顔でマリーエルを引き連れていくその背を見つめたまま、カルヴァスが溜息を吐いた。
「アイツのアレ、どうにかならねぇもんかね」
カナメがインターリに視線を向け、小さく首を傾げた。
「俺は気にしていない。それにインターリは色々と口が回るが、実際剣を構えることはなかった。彼なりの信頼の表れだと思う」
カルヴァスがいたずらっぽくそれに応える。
「それ、本人の前で言ったらまた要らねぇ文句が始まるから言うなよ。それに、お前の説明下手ぶりも相変わらずだしな」
「……すまない」
気まずそうに小さく笑うカナメに、カルヴァスは「行こうぜ」と背を叩いた。
「ちょっとアンタら何ぼーっとしてるの? 急いでるんでしょ」
インターリの声が飛んでくる。ベッロが駆けてくると、カルヴァスとカナメの手を取った。
「たいちょー、ふくたいちょー、急ぐ。早く。マリー待ってる」
「あぁ、悪ぃ」
そう答えてから、遠く見える篝火の焚かれた陣へと急いだ。




