4話 欠損のない影憑き
カルヴァス達が木々の波の伐採に奮闘するのを見るともなしに見つめていたマリーエルは、ふと遠くの気配に意識を取られた。共に影憑きの出現に備えていたカナメと目配せして立ち上がると、控えていた兵達がそれを見て、マリーエルの視線の先を警戒する。
「やはり来おったか」
アールが体を膨れ上がらせ、強靭な腕を鳴らした。
木々の波とは反対の森から、歪んだ気配が近付いて来る。一見すると、それはよく肥えた熊だった。しかし、それは虚ろな瞳で辺りを見つめ、だらしなく開いた口からは、影を滴らせている。
「やはりあの熊も、欠損も傷も見当たらないな」
カナメが警戒をしながら、熊の体を観察し、言った。
近頃、影憑きは欠損のない生者の個体が増えていた。
野生動物においては、影に襲われ傷ついたもの、食料を上手く得られず弱ったもののみ観測されていたが、今目の前で佇む熊は、よく肥え、体格も良く、熊の世界において影に付け込まれる要因があるとは考えられなかった。
だらしなく開いた口以外から、影が滲み出ている様子もない。勿論、人間の生者の影憑きというものが増えているのだから、理屈としてはおかしくはないのだが、野生下でもその数を増やしているのは、影が活発に動いていることを示している。
影はこの世界に内包された。着実に世界を侵食し、その領域を広げている。
あの時に、無理やりにでも世界樹へ還すべきだったのだ。マリーエルは何度も繰り返している後悔を、頭を振って払った。
「行こう、カナメ」
兵達が行動範囲を狭め、追い込んだ熊へと歩み寄る。
カナメが剣を抜くと、兵の一人と目を合わせ、頷き合う。
兵達がパッと道を開けた瞬間、カナメは駆け出し、その勢いのまま熊の体を斬り上げた。
ぶるると震え、戸惑ったように手足をバタバタとさせた熊は、次の瞬間、カナメに手を振り上げた。カナメはそれを軽く躱し、もう一閃斬り上げる。カナメの細剣は熊の体を通り抜け、しかしその身に巣食う影だけを斬り、斬り上げた箇所からは影が溢れ出す。
兵達が暴れ回る熊を威嚇し、熊はぐるぐるとその場で回って、影を飛び散らせた。
「そろそろ大人しくして貰おうかの!」
アールが跳び上がり、熊の体から溢れ出す影を掴み、引き千切った。地に落ちた影を踏みつけ、力を辺りに満たす。熊が咆哮を上げ腕に噛みつこうとするのを、アールは熊の首根っこを掴むことで阻んだ。
「姫よ、今じゃ!」
マリーエルは、周囲の気を集め、アールの腕を振りほどこうとする熊の体に放った。熊の身に巣食う影は暴れ回っていたが、精霊の力を受けてすぐに勢いを失い霧散した。熊の体から力が抜け、重い音を響かせ地に倒れこむ。
アールは再び熊の首根っこを掴み上げて顔を覗き込むと、地に下ろしてから辺りに首を巡らせた。
「くまのよ! おらんのか」
返事はなく、アールは不満げにマリーエルへと視線を送った。
マリーエルが呼び掛けると、鈍い煌めきと共に熊の精霊が姿を現した。緩い動きで欠伸をした後、ぼんやりとマリーエルを見つめ、兵に囲まれる熊に視線を移した。のろのろとした動きで歩み寄り、熊の頭を撫でると、その耳に何事かを語り始める。熊がピクリと体を震わせ、兵達が一歩下がり身構えた。
熊の精霊は、ゆるりとマリーエルを振り返り、首を傾げた。
「姫よ、礼を言う。この肉を喰らっても良いが、この後こやつは芽吹きの時までしばし眠る。その支度も出来ている。このまま行かせても良いか」
マリーエルが頷くと、熊の精霊は、再び熊に何事かを語り掛け、その体を起こした。怯え、戸惑っていた熊は小さく鳴くと、駆け出し森の中へと姿を消した。
ぼんやりとしている熊の精霊が、緩慢な動きでマリーエルの頬に鼻面を擦り付けた。それに応えながら、マリーエルは言った。
「有難う」
「礼を言うのは……こちらの方だ」
今にも閉じてしまいそうな瞳で、熊の精霊はマリーエルを見下している。
「相変わらず、この時期はぼんやりとしておるのぅ、くまのよ」
アールが鼻をひくつかせながら言うと、熊の精霊は僅かに不機嫌さを滲ませてアールを見やった。
「このような時期にも落ち着きなくしている栗鼠とは違うのでね。栗鼠も本来ならこの時期には眠るものの筈なのに」
熊の精霊の言葉に、アールはふんぞり返った。
「儂が一体どれだけ長い時、力を司っていると思っておるんじゃ? 栗鼠の全てが寒さで眠る訳ではあるまい。この地の栗鼠は寒さの中だろうが、森を作り、森の為に戦っておるのじゃ」
熊の精霊はマリーエルを抱きかかえるようにして、すりすりと体を擦り付けながら、アールの言葉を聞くともなしに聞いている。
「わざわざ顕現したその身で影に触れるのもいかがなものかと……」
「この方が手早く済むんじゃ。これは儂が深淵の女王と対峙した時に解したことなんじゃがな。ちんたらやっておったら、先程の奴も森に帰れなかったやもしれん。それはお主も望むことではなかろう?」
そう言いながら、アールは腕をマリーエルの前に差し出した。マリーエルは熊との戦いの中で傷ついた箇所に手を当て、穢れを祓った。アールの体は正しい気を流し修復されていく。
体を縮めたアールは、マリーエルの頭に飛び乗った。熊の精霊が眉間に皺を寄せる。
「姫の力をそのように無造作に粗雑に扱うのも、いかに森の戦士とはいえいかがなものかと。そもそも精霊姫というのは──」
「うるさい奴じゃのぅ! よくもそうぼやけるものじゃ。ぼやいてる暇があったら、自身の司るモノ達の面倒くらい見たらどうじゃ。あやつ等より先に寝ぼけてどうするんじゃ」
熊の精霊が長く息を吐き、マリーエルに額を擦り付けてから、体を離した。
「眠い。私は精霊界へと戻る」
熊の精霊は、マリーエルの鼻先で小さく鳴いてから宙に消えた。
アールが苛々とした手つきで毛繕いをしながら言う。
「全く、ぼんやりとした奴じゃ。儂の働きを見習わんか。なぁ、姫よ」
「いつも有難う、アール」
小さく笑ってから言ったマリーエルの腕を、ぐいと引く手があった。振り返ると、カナメが口を引き結んで見下ろしている。
「どうしたの?」
マリーエルが訊くと、カナメは戸惑うように視線を彷徨わせた。
「あ、いや……その疲れたかと、思って」
「え? ううん、大丈夫だよ。このくらいだったら今まで沢山熟してきたでしょ?」
「そ、うだが……。そうだ、茶でも──」
そう言ったカナメの声は、突然響いた音に遮られた。音のした方に目を向けると、遠くクッザール隊の陣に陽色の旗が掲げられていた。
「マリー、行くぞ」
素早く駆けて来たカルヴァスが、マリーエルの手を取り用意していた霊鹿まで走った。霊鹿に飛び乗り、マリーエルを引き上げると、クッザールの許まで駆ける。
クッザールは汗を拭いながら、深く削り取られた木々の波を見上げていた。
「あぁ、来たか、マリーエル。あの力の凝りはどうだろう。正直、これ以上は私の力では、あれ自体を壊しかねない」
絡み合った木々の間から、明滅する力の凝りが覗いている。それは、弱まっていくようでもあるし、戸惑っているようでもある。
「呼び掛けてみます」
マリーエルは、カルヴァスを伴って力の凝りに歩み寄った。酷く濃い木の精霊の力が辺りに充満している。それは他の精霊の力を退け、むせかえる程だった。流れは滞り、巡っていない。
力の凝りから蔓が伸び出してくると、まるでマリーエルに縋りつくようにして這い上った。カルヴァスが炎剣でそれを焼き斬ると、蔓は斬れた箇所から幾筋にも伸びあがり、地に根付き伸びあがろうとする。
「随分、こんがらがってるみたいだな。力の制御を失った術師や、器の許容範囲を超えた状態を見たことあるし、オレも経験あるけど、精霊自身がそれを起こすとこうなるんだな。お前が──精霊姫が生まれてからこんな規模のものは初めてなんじゃねぇか」
マリーエルは、辺りを見回してから頷いた。マリーエルが精霊姫として生を受けてから、精霊国において大規模な禍は起きていない。それは精霊姫という存在が、精霊の気を導き流すからでもあるが、過度な力を必要としなかったからでもあった。今は、深淵の女王の企みによって、影の浸食を受け、精霊達の力が不安定になりやすい。
それにしても、とマリーエルは生え出る木々に手を滑らせた。源精霊である木の精霊が、導きの儀までに堪えられず、禍を起こしてしまうとは。儀の日取りは慎重に協議され決定された。それでも禍が起こってしまうのは、それだけ均衡が崩れやすくなっているということだろうか。
マリーエルは一番力の濃い箇所を見つけ、カルヴァスを振り返った。カルヴァスは、ひとつ頷いてから、後方で控えているカナメに目配せし、その横に立つクッザールに手を上げて合図した。
「よし、やろうぜ」
「うん」
マリーエルは、慎重に木々に手を当て、力の凝りに触れた。
それは一瞬だった。力の凝りから木々が生え出ると、マリーエルの体を包み込んだ。
「マリー!」
カルヴァスは咄嗟に生え出る木々の間を潜り、小枝を掻き折り、マリーエルの体を引き抱いた。「カルヴァス」と呼ぶ声が木々に阻まれ、くぐもる。
強く引かれる力に、それでもカルヴァスは食い下がり、マリーエルの体を抱き寄せた。
しかし、二人の視界は反転し、大きな力に飲み込まれた。