1話 すみれ色の余韻
すみれ色の瞳が笑っている。
透けるような明け方の陽の色をした髪が、指の動きに合わせて流れていく。まろやかな声が、名前を呼ぶ──。
「マリー様、お目覚めですか?」
ぼんやりとした頭で、機敏に部屋を歩き回る夜空色の後ろ姿を追う。こんな気持ちで目覚めるのは、一体何度目だろう。
目の端の涙を拭ってから、マリーエル・グラウス・ディウスは体を起こした。
「うん、良い朝だね。アーチェ」
マリーエルが伸びをすると、アーチェは水を張った盥を置いてから、マリーエルの顔を覗き込んだ。マリーエルの頬にうっすらと残る傷跡を目で辿り、笑顔を浮かべる。次姉であるレティシアによってつけられたその傷は、少しずつではあるが目立たなくなってきていた。
「良い朝ですが……今日も予定が詰まっています。大丈夫そうですか?」
続けて何かを言いかけたアーチェは、手巾を盥に浸ける間考え込むと、そのまま言葉を飲み込んだ。さぁ、どうぞ。とマリーエルへと手巾を差し出す。
アメリアの後任となったアーチェは、実に働き者だった。どんなことも手際よくこなし、特に縫い物の腕前は見事だ。
マリーエルの自室にある窓幕や手巾、下着から外套にかけて、布で作られたものには、収穫期の間に、彼女の手によって彩りを加えられていた。
「わぁ、これもアーチェが作ったの? 可愛い!」
衣装室に置かれた花飾りのついた衣を掲げ持ち、声を上げたマリーエルは、首を傾げた。意匠はとても素晴らしいが、着方が判らない。
マリーエルの様子を見たアーチェが、薄く笑った。
「マリー様はお着替えの手伝いをさせて下さらないので、ひと工夫加えてみました。私が居ないと着脱不可能ですよ、それ。ですが、マリー様の可憐さがより際立つように仕立てましたのでご安心下さい」
アーチェはそう言いながら、流れるような手つきでマリーエルを着替えさせた。手順を覚えようと見下ろしていたマリーエルの試みは、失敗に終わった。
「着替えくらい一人で出来るよ」
「駄目です。ご自分の立場を理解して下さい、姫様。世話役の仕事を奪わないで下さいな。──うん、とてもお似合いです」
アーチェは、満足そうにマリーエルを見つめて微笑んだ。マリーエルは微笑み返しながら、胸の奥底が小さく痛むのを感じていた。アーチェはこんな時にふと、アメリアのような顔をする。顔立ちは全く似ていないというのに、あの優しげに細められるすみれ色の瞳を思い出してしまうのだ。
呼び鈴が鳴り、迎えに出たアーチェの「どうぞ」という少し気の抜けた声に、来客が誰なのか判ってしまう。
衣装室から出ると、カナメが卓の前で佇んでいた。
良い朝だね、と笑顔を向けるマリーエルの姿にカナメがハッと目を見張った。その視線が顔と衣とに交互に向けられているのに気が付き、マリーエルはその場でくるりと回ってみせる。
「これもアーチェが作ったの。凄く可愛いよね」
黙り込んだまま見つめ続けるカナメの脇腹を、アーチェはマリーエルに見えないように小突いた。我に返ったカナメが、手にしていた花を差し出しながら微笑んだ。
「君は本当に花が似合うな。こう、ふわふわしてて……良いと思う」
カナメの評に、アーチェは眉を寄せてから、呆れたように首を振った。
「今朝の花も綺麗だね。いつも有難う」
マリーエルが花の中に鼻をうずめるようにして香りを嗅ぐと、幼精達が現れ舞い、マリーエルの髪を彩った。
「君達のお陰だ」
カナメが言うと、幼精の一片がおずおずとカナメに近付き、彼の帯に身を滑り込ませた。瑞々しい花が、カナメの衣に彩りを加える。
「花の精霊達と、本当に仲良くなったねぇ」
「そう、なのだろうか」
カナメは実感なく小首を傾げてから、帯の花を見下ろし、指で優しく突いた。
「さぁ、お二人とも。朝餉の支度をしますから卓についてください」
「はーい」
マリーエルから受け取った花束を卓の花瓶に生けたアーチェは、厨から運んできた朝餉を卓の上に並べ始めた。ちら、と卓に着いたカナメを見やり、静かに言う。
「副隊長殿も、精霊の呼び掛けを受けられるのではないですか」
僅かに個人的な願いも込められたアーチェの言葉に、カナメは考え込んでから首を振った。
「いや、それはないと思う。俺の本質は澱みであり、鬼だ。今のように姿を視せてくれたり、力を貸してくれるだけで、俺は十分だ」
アーチェは何かを言いたそうに口を曲げ、しかし「そうですか」とだけ返した。二人分の朝餉の支度を終え、部屋の隅に歩いて行こうとする。
「アーチェも一緒に食べよう」
マリーエルの言葉に足を止め、振り返る。
「有難うございます。では」
アーチェは取り分けておいた自身の分の皿を持ってくると、卓に腰掛けた。
アーチェは何かとアメリアの手法を真似た。本来の彼女は実に潔い性格なのだが、それを曲げてでもアメリアのやり方を参考にしたいのだ、と世話役に任命されてすぐにマリーエルへと語った。それでも、時折滲み出る本来の彼女の潔さが、見ていて微笑ましい。
マリーエルは食事を進めながら、カナメの耳飾りに目を向けた。精霊石で作られたそれには、精霊王の角と、精霊姫の瞳の花模様が彫られている。マリーエルの為に編成された〈精霊隊〉の者である証だ。クッザール隊の副隊長だったカルヴァスが隊長を、カナメが副隊長を務めている。
副隊長となったカナメとは、忙しさの中でも食事を共にする機会が増えていた。カナメは警備の依頼がある時以外は、予定を調整してマリーエルの許を訪れている。
「花の精霊といえば、近頃あまり姿を見ないんだ。今朝は久方ぶりに会うことが出来た。やはり、ジュリアスのことが影響しているんだろうか」
麦餅を飲み込んでから、カナメが言った。
深淵の女王の生みだした影や、フリドレード地方との戦の被害が深刻なジュリアス地方は、木の精霊の力を強く受けている。精霊国一広大な土地に、木の精霊は自身の力を広く満たし土地の回復を図っていた。その影響が他地方でも僅かながらに見られている。木の精霊に連なる花の精霊も同様だった。
「この辺りの気は一応整っているけど、どうしても今みたいな時は局所的により多くの力が必要になるからね」
「二候──十日の後、ジュリアスでの調律をするんだったな」
深淵の女王が地の底に堕ち潜んだ後、一度は減少していた影の被害は、徐々に増加していた。それらは気が滞り、澱みの溜まる地へと湧く。影は命在るモノの魂と器を歪めてしまう。大陸にある霜夜の国鬼湧谷だけでなく、精霊国内でも鬼のような存在が現れ始め、それらは人々の生活を脅かし、生態系を崩しかねない脅威となっている。
影に侵されたモノは、正式に〈影憑き〉と周知された。
精霊姫の役目は、各地での気の調律や澱みの酷い地での祓えだ。近頃では、大陸を巡った縁から他国とのやり取りも増えていた。
マリーエルは日々、自身の役目と出来ることを考え、国の為尽くしている。
「その前に、ジャンナ様の婚礼の儀があります」
アーチェは嬉々とした様子で言った。
以前より、華発の国明色の町の領主子息との婚礼の話が上がっていたジャンナが、長い話合いの末に嫁ぐこととなった。精霊国では、大陸に嫁ぐ者は多くなく、深淵の女王の件を理由に破談になるかと思われたが、華発国国王ジョイエルスの手引きと、当人同士の想いを汲み成就した。二人は長い時を使い、密かに愛を育んでいた。
「婚礼の儀かぁ、楽しみだな」
「マリー様が婚礼の儀に参列するのは、これが初めてですものね」
「うん、カオルお兄様の婚礼の儀の時は、祓えの旅に出ていたから」
カオルがグランディウスの名を継ぐ際に、婚約者であったメーテとの婚儀も同時に行われたが、父王の乱心、国内の騒乱の中であった為、略式で行われた。その後、ひとまずの平穏が訪れた際に再度婚儀を行う話が持ち上がったが、メーテの懐妊が判明し、取りやめになったのだった。メーテは気丈な女で、不憫に思う周囲を笑い飛ばし、それよりも健康な子供が生まれてくるのを願って欲しい、とマリーエルに舞をねだった。
特別に設えられた場で、マリーエルが舞うのを、眩しそうにメーテは見つめ、笑顔を浮かべた。
「ジャンナお姉様の婚礼服作りにアーチェも加わったんでしょう?」
マリーエルが言うと、アーチェは照れたように笑みを浮かべた。
「私は先輩のお手伝いをしただけですが、まぁ少しは」
「わぁ、楽しみ」
「姫様の衣は私が全て手掛けていますので、そちらも楽しみにしていて下さい」
話に花が開きそうになった時、ふいに窓の外から悲鳴が上がった。
軽い足音が近づいてくると、窓から布を巻きつけた大きな毛玉が飛び込んできた。それはマリーエル達の前で姿を変えると、満面の笑みで皆を見下ろした。
「会いに来た、ベッロ!」
半裸の状態でニコニコと笑うベッロから慣れたように顔を背けたカナメが、何事もなかったかのように食事を進めていく。
アーチェが、布を正しくベッロの体に纏わせ、顔を顰める。
「ベッロ。何度も言ってるけど、姿を変える時は服装に気を付けることと言っているでしょう。あと、窓は入り口じゃないの」
しゅん、と尾を垂らしたベッロは、マリーエルを窺うように見つめる。
マリーエルは、アーチェをちらと見やってから、頷いて見せる。
「そうだよ。ここで暮らすには、守らなくてはいけない規則もあるんだよ。それは、皆で善く暮らすために必要なことなの」
ベッロは項垂れたままマリーエルに抱き着くようにすると、くぅと鳴いた。
「知ってる。でも、嬉しくて、忘れる時、ある」
「嬉しくて?」
ベッロはマリーエルをぎゅうと抱き締めた。
「会いに来た。ベッロ、マリーエルに会えない……かったから。鍛錬、頑張る。会いに、来た。寂しい、でしょ?」
目を瞬いたマリーエルは、ベッロの体をぎゅうと抱き締め返した。ベッロがくぅくぅ鳴き、頭を擦り付けながら、尾を振る。
「そうだよね、会えたら嬉しいもんね」
そうマリーエルが言うのに、アーチェは呆れたように首を振った。
深淵の女王の件が落ち着いてからというもの、ベッロはインターリと共に、アントニオの許で教育を受けている。特にベッロはアントニオに「それこそ打てば響く、ですよ。理解力が高く、学ぶ姿勢が素晴らしい。習性が異なる部分は、おいおい収まりどころを探っていけばよいのです」と言わしめた。奇妙な癖の付いた話し方は、ベッロなりにインターリが話すのを聞き、学んだせいだった。インターリは言葉を教えるということをしていなかったのだ。
「以前より、ベッロの変身癖が気になっていたんですよね。周りの目もありますが、単純にベッロ自身も生活がしづらいかと思って」
そう言いながらアーチェは衣装室から鮮やかな色の布を持ってくると、ベッロへと差し出した。首を傾げるベッロの前で、ひとつひとつを開いて見せる。
「ベッロは体術も扱いますし、変身もする。上背もあります。私なりに考え、作り出したのが、こちらの衣です」
アーチェが掲げ見せた衣を目にしたベッロは、ぴょんと飛び跳ね、おもむろに衣を脱ぎ始めた。
「アーチェ、すごい! ベッロ着替える」
衣を手にしたまま、アーチェはうっすらと笑みを浮かべたが、その目は全く笑っていなかった。カナメに至っては、窓の外に目を向けたまま茶をすすっている。
着替えを終えたベッロは、拳を突き出し、足技を披露してからアーチェに歩み寄ると、その手を取って甲に額を擦り付けた。
アーチェが表情を硬くする。
「親愛の証。親しい相手にする。マリーともやった。アーチェも一緒。有難う、アーチェ」
アーチェはベッロの手を外し、包むようにしてから言った。
「これは気軽に行うことではないの。勿論、姫様なら各地に赴いた際に親愛を示されることもあるでしょう。でも、それは既に関係が築かれている相手だからこそ。私のような者に行うものじゃないの」
ベッロが首を傾げるのと、マリーエルも同じようにする。
「親愛の証って、相手のことを大切に想ったら示したいことだと思うんだけど……」
その言葉に、アーチェは深い溜め息を吐いた。
「判っております。グラウス家の皆様がそのような想いをお持ちだということは。ですが──」
アーチェの言葉に耳を傾けていたベッロが突然「あっ」と声を上げた。我関せずと茶をすすっていたカナメを見やり、得心いったように頷く。
「なんだ……?」
ベッロの視線に気が付いたカナメが怪訝そうにするのを、ベッロは満面の笑みで受けた。
「ベッロ判った。親愛は本当に大切な時に表すもの。でも、今、アーチェに有難う伝えたい。──これはベッロ達のやり方」
そう言うと、ベッロはアーチェの体を抱きしめ、頭を擦り付け始めた。アーチェの体がミシミシという音を立てる。呻き声を上げたアーチェがマリーエルに視線を送った。
「マリー様! どうにかして下さい!」
苦悶の声に、マリーエルは慌てて立ち上がった。
「そうだよね。ベッロ強く締めたら──わぁっ」
「マリー大好き! これもベッロ達のやり方」
ベッロはマリーエルをも抱き込んで、嬉しそうに頭を擦り付ける。
その様子を見守っていたカナメが、思わずといった風に小さく笑うと、アーチェの鋭い視線が刺さった。
「副隊長殿! 笑ってないでどうにかして下さい!」
背筋を伸ばしたカナメは、あたふたと茶器を置くと、ベッロの肩を優しく引いた。
「ベッロ、アントニオから教えられただろう。何かを行う時は、相手が嫌がっていないか見てからにするんだ」
アーチェとマリーエルの苦しそうな顔を見下ろしたベッロが「ごめんなさい」と手を離し項垂れる。マリーエルと自身の衣についた皺を伸ばしたアーチェが、マリーエルを卓に戻してからベッロを振り返った。
「時と場合を考えること。特に姫様が相手の時は十分に注意すること。それならば、骨が軋むほどでなければ構わないから」
その言葉に嬉しそうに顔を上げたベッロは、思わず両手を広げ抱き締めようとしたのを思いとどまり、するりと頬に頬を擦り付けるに止まった。アーチェは、ベッロの頭を優しく撫でてから微笑む。
「少しずつ学んでいきましょう。ベッロなら大丈夫」
ベッロは、くぅと鳴き答える。
見守っていたカナメは、マリーエルに視線を移した。
「俺はそろそろ出る。今日は影憑きの討伐に行ってくる。君は婚礼の儀の支度だったな」
「うん、気を付けて行って来てね」
カナメを見送り、アントニオの授業を受けるベッロを見送り、マリーエルは舞の稽古へと向かった。話し合いに参加し、慌ただしく過ごすうち、すみれ色の瞳の余韻は薄れていく。
マリーエルは、ふと吐き出しそうになる息を飲み込み、窓から見える空を見上げた。
その後ろ姿を、アーチェの夜空色の瞳が見つめていた。