終章・世界樹に還るまで
深淵の女王は地の底へと堕ち、世界を絶望に染めようと影に潜んでいる。
精霊の力は、命世界に損なわれた気の流れを正し、満たしていった。
それでも、失われた多くのモノの命を取り戻すことは出来ない。
マリーエルはクッザール隊と各地を巡り、皆の魂が世界樹へと還るよう、そして再び戻って来られるよう祈りを捧げた。
「はぁー、流石に疲れたぁ」
そう言って伸びたマリーエルを、カルヴァスが呆れた目で見やった。
「見舞いに来たんじゃないのかよ」
「来たよ。お見舞いの品も持ってきたし、心配もしてるよ。でもずっと気を張ってたんだもん」
マリーエルが長い息を吐きながら再び体を伸ばすと、カルヴァスが小さく笑ってから呻いた。
「まだ痛む?」
カルヴァスの体には、全身に火傷のような痕が残っていた。
火の精霊の力は実際に体を焼いた訳ではなかったが、到底受け止めきれない大きさの力を扱うのは、器である身が耐えられなかった。まだかすれる声で、まぁな、とカルヴァスが答える。
「もっと鍛えねぇとな」
「ちゃんと治ってからね」
「判ってるよ。流石のオレでも動けねぇ」
そう言って、カルヴァスは卓の上に置いた菓子に視線を向けた。
マリーエルは包みを取ると、そのひとつをカルヴァスの口に運んだ。味わいながら「旨い」と嬉しそうにするカルヴァスを見ながら、自分の口にもひとつ放り込み、再び雛鳥のように口を開けるカルヴァスの口にもうひとつ放り込む。
「菓子も良いけど、肉にもかじりつきてぇな」
「それはもう少ししたらね」
マリーエルが言うと、ちぇ、とカルヴァスはいじけたような顔をする。
「で、状況はどうだ?」
「今は、クッザールお兄様とヨンムお兄様が出てるよ」
カルヴァスは見舞いに訪れる度、警備の状況を訊ねた。
一度は減った影憑きが、再び民の生活を脅かすようになっていた。クッザール隊を中心に各地へ赴き、影憑きへの対処と、場合によってはマリーエルが祓えを行うことがある。
フリドレードとの戦は終結したが、未だ気の抜けない状況が続き、グランディウス王はその対応に追われている。
カルヴァスは焦燥感を誤魔化すように、状況を聞き出しては、隊へ戻った時に備えている。
その時、呼び鈴が鳴ると、アントニオが姿を現した。
「あぁ、やはりこちらに居ましたね」
「何だ、見舞いか?」
カルヴァスが言うと、アントニオは眉間に皺を寄せ、「あぁ、お元気そうで」と投げやりに言った。そうしてすぐに、マリーエルに向き直る。
「姫様、この後少々お時間を頂いても?」
アントニオは今、マリーエルの教育役に変わり、インターリとベッロの教育、ヨンムの許で研究の支援を。知の者としてあらゆる相談事に乗っていたが、任を解かれてもマリーエルの世話を焼くことを忘れていなかった。
「この後はレティシアお姉様とアンジュのお見舞い。その後は、ジャンナお姉様の婚姻のことでジョイエルス王と鏡話をする予定だから、道すがらでよければ」
「構いません。儀式の日取りの調整と、各所へのお返事のご相談です」
「判った。――じゃあ、また来るね、カルヴァス」
マリーエルが言うと、カルヴァスは身を横たえた。
「おう、オレは少し寝るわ。アントニオ、懐の焼き菓子を置いてっても良いぜ」
「……本当に鼻が利きますね。ですが、これは姫様の分です!」
アントニオは包みをマリーエルに渡すと、その背を押し、廊へと急かした。
研究室の前でアントニオと分かれ、レティシアの部屋に向かっていたマリーエルは、深く考え込んだ。
レティシアは心神喪失状態となり伏せていたが、マリーエルが訪れ、話すうちに小さな衝突を出来るまでに回復していた。父王の死の原因を作ったこと。深淵の女王へ身を委ね、未曽有の惨事を引き起こしたこと。それらは瞬く間に民の間へ広まってしまった。未だ、城の外へ出ることは叶わない。そのせいか、レティシアの心は不安定で、細心の注意が必要だ。再び影につけ入られることになってしまう。
アンジュはその小さな身に受けるにはあまりに過酷な体験をした為、暫くは赤ん坊のように母に引っ付いていたが、少しずつ庭に出て遊べるようになっていた。それでも、時折瞳に恐怖を宿し、ただの影を見つめる姿は痛ましい。
「またアイツの所に行ってたの?」
廊の途中、インターリが顔を覗かせた。
「あっ、また部屋抜け出したの? まだ安静にしてないとでしょう?」
深淵の女王との戦いを終えた後、その場で倒れたインターリは、重症度でいえばカルヴァスとほぼ同程度であるのに、頻繁に部屋を抜け出しては医術師の手を焼いている。
マリーエルが眉を寄せると、インターリはへらへらと笑い、ふと笑顔を引っ込めた。
「医術師からまた貴方が部屋を抜け出したと報せが来ましたよ。姫様の許に居るだろうと思いました。読むようにと渡した書物は読んだんでしょうね?」
廊を引き返して来たアントニオが、厳めしくインターリを見下ろした。
「あー、あれはベッロが持って行ったから、それを取り返そうとしてたんだよね」
「嘘おっしゃい!」
アントニオが言うと、インターリは素早く廊の先に走り去った。「そんなに走ったらまた傷が開きますよ!」というアントニオの声が遠ざかっていく。
その光景に、マリーエルはどこか穏やかな気持ちになり、一人笑みを浮かべた。
マリーエルは全ての用事を済ませると、カナメの姿を探した。
城の中で警護は必要ない。カナメは周辺警備に加わったり、鍛錬をしたりして過ごしている。遠出をする時は律儀に知らせに来るから、それがないとなれば思いつく場所はひとつしかない。
マリーエルは近くの丘に向かった。カナメがよく訪れている場所だ。空を見上げると陽が陰り始めていた。
丘に着くと、木にもたれて眠るカナメの姿を見つけた。
「カナメ!」
遠くから声を掛けると、カナメがパッと顔を上げた。驚いたように、立ち上がる。
「すまない。何か用事か?」
「ううん、今日は一緒に夕餉が食べられそうだなと思って。起こさない方が良かったかな」
「いや、眠るつもりはなかったから、起こしてくれて良かった」
カナメが鞄を拾い上げる様子を見ていたマリーエルは、あっと声を上げた。
「ねぇ、この先にこの時間にしか咲かない花があるんだよ。知ってる?」
「え? いや。確かに、甘い香りがするとは思っていたが」
「見に行こうよ、こっちだよ」
マリーエルはカナメの手を引っ張ると丘を登り切り、その向こうに広がる景色を指さした。陽は遠くに沈み、滲んでいる。空の半分は夜の色をして、星々を抱き始めた。
空の色を宿した花々は、風に揺れ、甘い香りを放っている。
「わぁ……久し振りに見たけど綺麗。ね、カナメ?」
振り返ると、少しだけ下の方で手を引かれたままのカナメが、繋いだ手とマリーエルの顔を、驚いたように見つめていた。
「どうしたの?」
マリーエルの問いに、カナメはゆるりと首を振った。
「世界樹は、これを視せたかったんだな」
丘を登り切ったカナメは花畑を見渡し、改めてマリーエルを見つめ、言った。
「綺麗だ」
世界は少しずつ変わってしまった。
いや、目に見えていないだけで、遥か昔から世界は変化し続けている。どんなことが何に影響を及ぼすかは判らない。
その中で、生きていくしかないのだ。いつの日か世界樹に還るまで。
ここまでお読み頂き、有難うございました。
精霊国物語はここで一旦終了……となりますが、実は続きを執筆中です。
第二部はただいま推敲作業中となり、よりブラッシュアップした作品をお届けできれば、と思います。
投稿開始は2025年9月を予定しております。
また、第二部投稿開始までに【番外編】として幾つか短編を投稿予定です。
楽しみにお待ち頂ける方がいらっしゃいましたら、幸いです。
今後とも、よろしくお願いいたします。
2025年7月17日
夢野かなめ