39話 決戦の時
マリーエルは身を清めると、精霊山へと向かった。最も世界の境が曖昧な地だ。
「精霊界に行くって言っても、オレには全然想像出来ねぇんだけど」
警護の為呼び出されたカルヴァスが、肩越しに言う。
「想像する必要はありません。貴方の役目はこの場に影を寄せ付けないことなんですから」
アントニオが言うと、カルヴァスが鼻で笑った。
「そんなこと言われなくても判ってるよ。お前だってマリーが心配で仕方ねぇだろ。眉間の皺、いつもより深いぜ」
アントニオは、不機嫌そうに目を細めてから息を吐いた。
「命世界の者が精霊界に行って帰って来るなど前代未聞です。精霊姫だからこそ可能だと精霊王は仰いますけど、何が起こるかなんて私にもさっぱりですから。クッザール様が探索に出られた〈初代精霊姫の心の臓〉。それが、果たして実在するのか。アンジュ様の御身も気掛かりですし、まさかレティシア様が……いえ、そう思うと全てのことに説明がつくような気もしますが。一体、何故、という考えが浮かばずにはいられません」
「うん、そうだよね……」
マリーエルは、王の間に現れたレティシアの様子を思い返した。憎しみを灯した瞳。忌々しげに吐かれる言葉。それは深淵の女王のものなのか。レティシア自身のものなのか。
頭を振ったマリーエルは、瞳を閉じて深く息を吸ってから、顔を上げた。
「私は、私に出来ることを成す。それだけだよ。世界も、アンジュも、レティシアお姉様も助けてみせる」
その言葉に、皆の視線が集まった。
カルヴァスがニッと笑う。
「影のことは安心してオレ達に任せろ。まぁ、アントニオがここに居て何の役に立つのかは判らねぇけど」
「何ですって? 私はヨンム様の――」
言いかけたアントニオは、忍び笑うカナメに気が付き、鋭い視線を向けた。カナメが平然を装い、素知らぬ振りをする。
マリーエルは、その様子に笑いながら、精霊石の舞台へ続く階段を上がった。
舞台上に精霊王とグランディウス王が待ち構えていた。周囲には兵が控え、臨戦態勢を取っている。
「支度が整ったようだね」
「はい」
兄王に答えると、精霊王が手を差し出した。
「では、征こうか」
精霊王はマリーエルの瞳を閉じさせると、向かい合った。
「我の気を受け、それを己の内に循環させるのだ。精霊の力にのみ意識を向け、その気を溶かし、そして、一歩を踏み出せ」
マリーエルは言われるままに、一歩を踏み出した。
「さぁ、視るのだ」
瞳を開ける必要はなかった。命の器はここにはなく、己というものが気の流れの中にただ在るのだと感じ取る。
まるで世界そのものに溶けていくようだった。精霊の力が伸び渡り、まとまり、流れていく。力に満たされている世界。力と想いと歌が響く世界。そこに一片の綻びがある。
「祈り、歌えばよい。我等の祝福を受けし姫は、ただそれだけで成る」
震える筈のない喉が震え、歌が生まれた。それは気に乗り、精霊の力を興す。歌も、熱も、己さえも溶けていく。ただ、巡る。
「成った」
マリーエルは無い息を吐いた。音が、世界が、遠退いていく。
「声を、聴け」
――呼んでいる。
アンジュは、息苦しさに喘いだ。周囲を包む影が、恐ろしい。
最も恐ろしいのは、姉の顔をして姉の声で話し掛ける影だった。
「レティシア、おねぇさま……」
影は、ニタリと笑う。
「貴女は、そうして私を見つめる。私を求める。ねぇ?」
優しく頬を撫でる手は冷たく、ぞわりと肌が粟立つ。
「あなたは、だれ。おねぇさまを、はなして」
言い終わらない内に、影の手がアンジュの頸を締め上げる。アンジュの頭の中で、父の顔が蘇る。恐怖と、衝撃と、悲しみに、もがく。頸が締め付けられる。
「ほら、貴女のお姉様の顔をよくご覧なさい」
やだ、と声が漏れる度に、苦しさは増していく。涙が溢れ、流れ出していく。
「やだ。こわい。たすけて。こわい……」
その時、影の空間を温かい風が吹き抜けた。
「アンジュ!」
マリーエルは手を伸ばした。震える小さな体を抱きとめる。
「マリー、おねぇさま……」
か細い声に、その頸にはっきりとついた影の痕跡に、眉を顰めたマリーエルは、佇む深淵の女王を睨み上げた。
「許さない」
深淵の女王は、唇の端を上げる。
「レティシアお姉様を返して貰う」
ハッと笑った深淵の女王は、ケタケタと嗤い声を上げた。
「返す? 返すですって? 貴女に?」
マリーエルは、周囲の気を集め、女王目掛けて解き放った。影を割って吹いた風の力が、様々な精霊の力を運んでくる。辺りにそそり立つ影に、亀裂が走った。
「無駄なことを」
女王が腕を振るった。噴出した影がマリーエルを捕らえ、締め上げる。精霊の力が影を押し返す。ふたつの力が混じり合う。
次の瞬間、マリーエルの意識は何者かによって急速に引き込まれた。
――瞳を開いた。
違和感のある体を起こし、徐々にはっきりとしてきた意識で、初めに感じたのは怒りだった。
「何故、あの子ばかり……!」
喉が震える。口内に、血の味が広がる。
周囲の大気が震え、幾粒もの輝きが舞うのを、忌々しい気持ちで見上げる。
あの子よりも何事も優れている筈なのに。認めて欲しくて、選ばれたくて、あらゆる手を使ったのに。選ばれるのは、認められるのは、いつも私じゃない。
絶望だった。惨めだった。それを怒りで潰し、より強く燃やした。
許さない。だから還さない。アンタだけは絶対に。絶望で塗りつぶしてやる。
歪んだ嗤い声が、喉を裂いて響いた――
徐々に己という者が定まっていく。目の前の温かい影に触れる。
「……カナメ。どうしてここに?」
精霊の力が伸び広がり満たされた世界で、カナメが形作られている。
「君が消えてしまいそうだったから、手を伸ばしたら、ここに居た」
カナメは、マリーエルを強く抱きしめていた。此処では器がないから互いの区別がなく、くっついている。
「姫は理を外れ、何者かの残滓に触れた。この者が居なければ、姫を探すのに苦労したろうな」
精霊王は興味深げに、カナメを見つめた。
「成る程。其方は世界樹の意志により生まれたか。そうであればこの世界にも馴染めよう」
「世界樹の?」
「そうだ。滓に残されし、命への渇望。であれば――」
精霊王は、おもむろにカナメの胸に手を差し入れると、細剣を引き出した。
カナメの細剣が影色を湛え、今にも崩れ落ちそうだった刀身が、輝きを放っていた。主に触れられるのを待っているように、精霊王の手の中で横たわっている。
「剣が……⁉」
「世界樹は、其方にあの者を滅せよというのだ。我の力と共に、この剣を揮え」
「俺が……?」
カナメが剣を取ると、影色の光は伸縮を繰り返し、手に馴染んだ。
ふと精霊王が顔を上げた。
「あの者は強引にでも世界を壊そうというのか。其方達はあちらへ戻れ」
戸惑うマリーエルとカナメを引き寄せ言った精霊王に、答える間はなかった。
気に流され、意識が遠退いていく。繋いだ手の温もりだけが残った。




