3話 幼馴染
すみれの精霊が急に姿を消した理由は、すぐに判った。
「おぉ、居た居た」
という声がすると、窓から火色の頭が部屋を覗き込んだ。卓の上の焼き菓子に目を止めると舌なめずりする。
「あっちこっち遣いに出てたから何も食ってねぇんだよ。丁度良かった。ここの所、誰も彼も普段と違う予定で動いてるから無駄足が多いのなんのって。オレだって忙しいんだぜ?」
彼は、身軽に窓をくぐって荒っぽく着地すると、部屋に漂う甘い香りを嗅いで口を曲げた。しかし、すぐに卓上の焼き菓子に目を向け、そうしながらも器に盛られた果実を一粒掴み、口に放り込む。
「カルヴァス! 行儀が悪いよ! それに窓から入って来ないでって、いつも言ってるでしょ」
「なにアントニオみたいなこと言ってるんだよ。オレの行動範囲的にこっちから入る方が早いんだよな。昔からこうだったろ。とにかく忙しいんだよ」
言いながら懐から手紙を取り出すとアメリアに手渡した。それに目を通しながらアメリアが静かな口調で釘を刺す。
「貴方はもう子供ではないでしょう。その内どうなっても知らないわよ」
「じゃあ、次からは気を付けるって」
そう言いながら、カルヴァスはマリーエルの隣に腰掛けると焼き菓子や果物を食べ始めた。力強い陽と草原の香りが濃く香る。
「それにしても、オレも嫌われたもんだよなぁ」
花瓶のすみれの花に目をやったカルヴァスは何てことはない風に呟いた。
カルヴァスは幼い頃、火の精霊の呼び掛けを受けた。その為、木の精霊に連なるすみれの精霊とは相性が悪い。すみれの精霊は火の精霊について「還る為とはいえ彼等のやることは雑なのだ」と言い表し、敬遠している。すみれの精霊にとっては火の精霊の呼び掛けを受けた者も同様だ。しかし、火の精霊もカルヴァスもすみれの精霊のことを悪く思ってはいないから、それがすみれの精霊の言う所の雑さなのだろう。
カルヴァスはマリーエルの三番目の兄であるクッザール・グラウス・ディウス率いる部隊で副隊長を務め、日々火の精霊の力をより上手く扱う為の修練を積んでいる。彼の炎の剣技は国内屈指の腕前だ。
「忙しいんじゃないの?」
マリーエルが言うと、カルヴァスはひょいと焼き菓子を口に放り込み、拗ねたような顔をして見せる。
「オレにだって息抜きは必要なんですけど」
「焼き菓子だって食べて良いよって言ってないもん」
「お前は散々食べた後だろ。オレは朝から訓練に巡回に報告に使い走りに、って飯食う間もなく忙しくしてたの。茶菓子のひとつやふたつ恵んだって咎められたりイテッ!」
勝手に茶まで注ごうとしていたカルヴァスは、アメリアにぴしりと手を叩かれて呻いた。腫れてなどいないのにわざと痛そうに擦ってみせる。
アメリアが薄く笑みを残したまま、問うように小首を傾げた。目が少しも笑っていない。
「だからと言って行儀悪くしてもいいということではないわ」
「……判ってるよ。マリーももうすぐ成人だしな」
冷や汗を流したカルヴァスは、誤魔化すように言ってから卓に頬杖をつくと、まじまじとマリーエルを見つめた。
「な、なぁに……?」
「お前も成人かぁと思ってな。ずっと小さいまま後ろをついて来るもんだと思ってたぜ」
「もう、お年寄りみたいだよ」
「年寄りの気分にもなるぜ。ここの所どこに行ったって「マリーエル様は迷子になってはカルヴァス殿に連れ帰って貰っていましたなぁ。お懐かしい」ってよく聞かされるんだから。お前がよーく城から抜け出すわ、とんでもないことをやらかすわで、ここらだとお前の昔話にはオレの苦労話も込みなの。オレは精霊姫の世話役か? ちなみにアメリアはやれ美しいだ何だってアメリア自身の話が先にくるんだぜ。オレだってクッザール隊の副隊長としてそこそこ名が通ってるのに、お前に関わることは全部苦労話」
「そこまで言わなくてもいいじゃない。それにアメリアのことは本当に綺麗なんだから仕方ないでしょ」
マリーエルが唇を尖らせると、カルヴァスはからかうように笑う。
アメリアに茶をねだるカルヴァスの声を聞くともなしに聞いている内、ふとマリーエルの頭に子供の頃の記憶が蘇った。
城近くの森にある小さな崖に落ちて泣いていた所をカルヴァスに助けられたこと。その後、兵見習いとしての彼の姿を見つけたこと。大抵マリーエルが興味のままに行動してカルヴァスが後始末をする羽目になること。二人してアントニオに叱られたこと。未熟な茶会でマリーエルの決して上手くない茶菓子を「なかなか味がある」と言って涙目になりながらも食べてくれたこと。苦労を掛けているのは確かだ。
近頃は苦労を掛けるのも減ったとマリーエルは思っていた。それは、今では互いの立場や責任からあの頃のようには決して出来ないのだという事情もあった。マリーエル自身の成長も勿論ある筈だが、それだけではない。こうして顔を合わせることも少なくなった。
思わず俯いたマリーエルの頭を、カルヴァスはくしゃくしゃと撫でた。
「嫌だなんて言ってないだろ。まぁ、オレも好きでやってんだから」
「……うん。でも、そうじゃなくて」
そのまま言葉を続けることが出来なくなったマリーエルの様子に、カルヴァスとアメリアは目配せする。
「あぁ、判った。なかなかオレに会えない寂しさで落ち込んでるんだろ?」
ニヤリと笑ったカルヴァスは、黙ったまま少しだけ顔を歪めたマリーエルの頬を指先で擦った。
「何だ、元気出せ。お前らしくない」
マリーエルが頬を膨らませると、カルヴァスは面白そうに頬を突く。
「……寂しくなる時だってあるもん」
マリーエルがポツリと呟くと、目を瞬いたカルヴァスは、ふっと笑みを零してからマリーエルの頭を優しい手つきで撫でた。
「会いに来られなくてごめんな」
マリーエルは俯いていた顔を上げ、じっとカルヴァスを見つめた。
「三人で何処かに遊びに行きたいな。連れてって」
カルヴァスは、ちらとアメリアを見やってから片眉を上げた。
「いいけど。暫くは忙しいだろ。成人の儀が終わっても、お披露目だったりなんだりでお前も国中回らねぇとだし。オレも勿論クッザール隊として帯同するけど遊んでる暇はないしな」
「そう、だけど……」
勿論、理解している。それぞれの役目や使命のことは。今こうして三人で顔を合わせて居られるのも、アメリアやカルヴァスが見えないところで都合をつけてくれて叶っているのだということも。わざわざ確認をすることはないけれど、判っている。
寂しさを口にしてしまったら、どうにも抑えられなくなってしまった。日々の忙しさの中で、先のことを考えることが増えた今は、甘えたくなってしまう。
成人となり選ぶこと、得ること、失うこと。精霊姫としての役目。そうしたことを考えると急に不安になることがあるのだ。
マリーエルは、コツンと頭を小突かれて、知らず俯いていた顔を上げた。
「連れて行かねぇとは言ってないだろ」
カルヴァスがからかうように笑う。マリーエルは、そうだよね、と笑い返した。
「何処に行きたいか考えておけよ。都合がついたら連れてってやるからさ」
「うん、判った。何処にしようかなぁ」
マリーエルが悩み始めると、カルヴァスとアメリアは国内や城内の情報交換をしつつ、安全を守れ、マリーエルが楽しめそうな場所を相談し始めた。
興味のままにふらふらと外に出るな、といくら諫めようと外に出てしまうので、カルヴァスはある時から「どうしても行きたい場所があるならオレが連れて行ってやるから相談すること」と約束を取り付けた。近頃は多忙なせいでその約束を叶えることは出来ていないが、マリーエルも同じように多忙であるのと、成人の儀を前に少しばかりは大人しくなったようで、迷子騒動は起きていない。
「そういえば、なんか新しい甘味を作ったって――」
「一体、いつまで子供みたいなことを続けるつもりなの!」
マリーエルの言葉は不意に遮られた。わくわくしていた気持ちが急速に萎む。
一人の女が、部屋の入り口からマリーエルを睨み付けていた。