38話 器と王の書
部屋の入口にレティシアが立っていた。呼び鈴は鳴っていない。二人の視線を受けながら歩み寄ったレティシアは、卓の横に立つとマリーエルを見下ろした。
「お姉様、体は大丈夫なの?」
言い終わる前に、マリーエルはカオルの手によって横に付き飛ばされていた。
息の塊を飲み、痛みに耐えながら目を開けると、すぐ目の前でレティシアがカオルの首に手をかけ、軽々とその体を持ち上げていた。その体からは禍々しい影が溢れている。
「カオルお兄様!」
咄嗟に気の流れでカオルを包み込むと、レティシアが手を放し、後ろに跳び退いた。
カオルが激しく咳き込みながら、レティシアの姿を捉える。
「すまない。まさか、レティシアまでも……」
レティシアは、彼女が嫌うだろう下品な笑みを浮かべ、ケタケタと嗤い始めた。
「愉快。愉快だわ! ついにお前達が苦しむ姿を見ることが出来るのね」
「貴女は……!」
マリーエルは驚愕に目を見開いた。
カオルが躊躇いながらも剣を抜く。しかし、それを揮うことは出来なかった。
レティシアの声と重なった禍々しい声が、引き裂くように嗤い続ける。
「この体はとても良い器だわ。この世界と貴女への憎しみで溢れている。あの舞台ですぐに判ったもの」
レティシアが軽く手を振ると、影が溢れ出した。マリーエルは気を集めて影を祓い抵抗したが、レティシアは戯れるように歪んだ笑みを浮かべるだけだった。
「無事か、マリー⁉」
カナメが目の前に転がり出て剣を構えた。影を斬り伏せ、一息にレティシアへ踏み込む。
「待って、カナメ! その人は私のお姉様なの!」
「何⁉」
カナメはすんでの所で剣を止め、後退した。
「お姉様の中に深淵の女王が居る……。どうにかして引き剥がさないと」
兄王も手を出せずに唸った。深淵の女王を引き剥がし祓うと言っても、女王の発する澱みや穢れの気配は、マリーエル達を圧倒していた。
ふと、深淵の女王はカナメを見下ろすと、鼻で笑った。
「あら、影の出来損ない。私が有意義に遣ってあげましょうか」
女王は口端を歪めて見下ろしたが、カナメはマリーエルの前に立ち塞がったまま静かに見つめ返すだけだった。女王はつまらなそうに舌打ちした。
「まぁ、いいわ。これからとびきり楽しいことが起きるんだもの。ねぇ、精霊姫。貴女がこの地へ帰って来たんだもの。盛大に迎え入れなくてはね」
女王は、部屋に飛び込んできた兵達に目をやり、嗤った。
「では、始めましょう。精霊国の終焉を」
女王が手を伸ばすと、レティシアの姿に戸惑い立ち尽くした兵達の姿が、一瞬にして影に吸い込まれた。
「そんなっ……⁉」
「姫よ、儂の力を導くのじゃ!」
宙が煌めき、姿を現したアールが膨れ上がった。マリーエルはアールの力を導き、その力はレティシアの体を掴み上げた。
「この性悪め!」
「放せ、ネズミが!」
「栗鼠じゃ!」
アールの力がレティシアに及び、姿がぶれて見え始める。しかし、それと同時にアールの体も影に浸されていく。
ふと、うずくまっていた兄王が、王の書を手に立ちあがった。紙面から目を外し、アールと組み合う女王を見上げる。
「深淵の女王……いや、モイーラ!」
ケタケタと笑っていた女王は途端に顔を歪め、忌々しげに兄王を睨み付けると、無作為に影を放った。影は王の間を駆け、兵を打ち、柱や床を割る。カナメが、兄王が、兵が、影を斬り伏せ、怒号を上げる。
マリーエルは違和感に眉を顰めた。深淵の女王の存在が、意識の内に滑り込んでくる。まるでこの地に流れる気のように、容易く捉えることが出来る。
「おねえさま!」
突如王の間に響いた張り裂けそうな声に、皆の視線が集まった。アンジュがふらつく体でレティシアを見上げていた。レティシアはニヤリと笑みを作った。
「あぁ、私のかわいい妹。今度はどんな絶望を見せてあげようかしら」
慌てた様子で追いついたシャリールがアンジュを守るように抱き締め、愕然とレティシアを見上げた。
強く抱き守られるアンジュの姿を、レティシアの冷たい瞳が見下ろす。
「そう、絶望よ。絶望を見せてあげる」
レティシアが腕を振ると、影がシャリールの体を弾き飛ばした。追いすがるアンジュの体を影が包み込む。
「アンジュ!」
マリーエルは周囲の気を集め、アンジュを包む影に向かって解き放った。しかし、それは虚しく宙で弾け、霧散する。
アンジュの姿は、レティシアと共に影の中へと消えていた。
「そんな……」
愕然と呟いたマリーエルは、背後で巻き起こった力のうねりに振り返った。今まさに精霊王が顕現しようとしていた。飲み込まれそうな大きな力が、マリーエルの内を駆けていく。
母を助け起こしていた兄王が、宙を見上げ、表情を引き締めた。
マリーエルは息の塊を吐き、地に手を突いた。駆け寄って来たカナメが体を支える。
アールが精霊王に頭を垂れた。
「深淵の女王の存在を捉えることが出来た。姫か?」
「いいえ」
精霊王は悩むような視線で辺りを見回した。兄王が立ち上がり、頭を垂れる。
「精霊王よ。我が妹の一人が深淵の女王の干渉を強く受けているようです。そして、末の妹が影に囚われました。その行方を捜したく思います」
兄王が言うのを、精霊王は悠然と制した。
「待て。存在を捉えることが出来たと申しただろう。闇雲に駆け回っても徒労に終わるだけだ。まずは、何故、奴の存在を捉えることが出来たのか知らねばならん」
「ひとつ思い当たるものが……」
アールが王の書のことを伝えると、精霊王は思案顔になった。
「遠い昔のことよ。我とグランディウスとでそれを造った。盟約であり、秘されしもの。そこに名が記してあり、その名を呼んだと?」
グランディウス王が頷くと、成る程、と精霊王は可笑しそうに笑んだ。
「深淵の女王とやらは魂を穢し、堕とす法をもって理を外れた。しかし、その名を呼ばれたことでこの世界の環に引き戻された、か」
「王の書に、グランディウスの子モイーラ、マリーピアの心の臓を抜き取りし。と現れたのです。心の臓は古来より呪法に使われます。モイーラがその法を知っていたのだとしたら、と。王の書は、王たる選択を求めるもの」
精霊王は、あぁ、と声を漏らした。
「マリーピア。我が姫として初めて祝福を与えた者。そうだったな……。王の書に記されたことは、我とグランディウスの間で分かち合う。真の王として認められ、真実を知り、その力を使うよう我等で定めた」
王達の話に耳を傾けていたマリーエルは、聞くうちにある可能性に気が付いた。
「深淵の女王が元は命在るモノだというのなら、魂を穢し、堕ちた後に、世界樹に溜まる滓のようなものと結びついた……ということでしょうか。大陸には、鬼と呼ばれる澱みから生まれたモノが居ます。永い時の中で寄り集まった滓が穢れを生じ澱みとなり、影と成った。それらは私達の理の外にいます」
肩を支えていたカナメの手がピクリ、と動いた。安心させるように手を重ねる。
「滓それ自体は、命が世界樹を巡る度生み出されるものであり、そこから別の命が成ることもあるでしょう。ですが、女王はそれを歪め、増幅し、利用している。そして、世界樹の枝葉から伸びる世界を飲み込もうとしている。あるいは、世界を世界樹から離し、落とそうとしている。そう考えられませんか」
二人の王は深く考え込み、視線を合わせた。
「そう考えれば得心がいく。我等は世界樹の根を視ることは叶わない。滓が溜まり、そこに呪が加えられ、歪められたか」
「では、我等に出来ることは……澱みを祓い続け、巡る力を強固にすること。そして、深淵の女王の力を削ぐこと」
「まずは、姫に精霊界の祓えを願おう。さすれば我がこの世界に力を流そう」
「待ってください」
マリーエルの声に、精霊王は視線を向けた。
「祓えは、為します。ですが、その前にアンジュを」
精霊王は、マリーエルに微笑みかけた。
「判っている。命在るモノが他者を想う気持ち、というものを我は理解しているつもりだ。しかし、それは、祓えと共に為せる。存在を捉えた、と申しただろう」
マリーエルは、兄王と目を見合わせ、頷き合った。




