33話 炉の国へ
マリーエルはそわそわと周囲を見回し、ベッロと目を見合わせた。
「どういう顔して戻ったら良いか判んねぇんだろ。その内戻って来るって」
カルヴァスはそう言い、荷積みする船員達を眺める。
陽が陰り始め、船着き場に出て来ていたマリーエルは、落ち着かない気持ちで何度も周囲に目をやった。
「だ、だって……流石に遅すぎない? そろそろ海流が変わるって、言ってたよ」
マリーエルの視線を追うようにしたカルヴァスは、眉根を寄せ、唸ってから立ち上がった。
「仕方ねぇな。ちょっと見てくる。お前達は先に船に乗ってろ――来い、ベッロ」
カルヴァスは、ベッロの嗅覚を頼りに、インターリを探しに駆けて行った。
「どこまで行っちゃったんだろう」
「さぁ……」
カナメが、カルヴァス達が去って行った方を見やりながら、首を傾げた。
カルヴァス達の姿が道の先に見えたのは、船員達にも焦りが見え始めた頃だった。
インターリを背負ったカルヴァスが船に駆けこむと、後ろを振り返り、船着き場のムシカに向かって手を上げる。
「後は頼む。宿の向こうの森に五人だ!」
ムシカは、カルヴァスの背のインターリに目を向け、眉根を寄せてから、カルヴァスに手を振り返した。そうして事情を理解出来ていない、船上のマリーエルに頭を垂れる。
船員が慌ただしく駆け回り、船が動き出す。
「船医を呼んでくれ!」
カルヴァスの声に駆け寄って来た船医が、インターリの様子に戸惑いの表情を浮かべた後、表情を引き締めると医療室へと案内した。
カルヴァスが去った先を追い掛け、医療室に飛び込んだマリーエルは、寝台に横たえられたインターリの姿に悲鳴を上げた。
「何があったの⁉」
インターリの腹部からは大量の血が滲み、額には大粒の汗が浮かんでいる。
船医の処置が始まるとカルヴァスは後ろに退き、手を拭って息を吐いた。
「詳しいことは判んねぇ。アイツの匂いを追って行ったら、あの状態で木陰に丸くなって隠れてたんだ。ベッロの様子を見るに、顔見知りだろうな。悪い方の」
そう言ってマリーエルの頭を撫でようとしたカルヴァスは、自身の手のひらを見つめ、手を引っ込めた。入り口で佇むカナメに声を掛ける。
「お前が駄目になる前に、マリーを外に連れて行ってくれ。ベッロもだ」
そう言いながらベッロの口元を手巾で拭うと、手で部屋の外を示す。
船医は、インターリの傷の止血を終えたところだった。
「カルヴァスはどうするの?」
「折角だから、華発の技術を見学させて貰うぜ」
手で払うようにし、カルヴァスは寝台へと歩み寄った。
医療室には幕が下ろされ、インターリの姿は見えなくなった。
頑なに幕の前を動こうとしないベッロを残し甲板に出ると、既に大渡の町は遠ざかっていた。
船長と挨拶を済ませ、カナメと共に船室に案内されると、マリーエルは椅子に腰を掛けて息を吐いた。
華発の船は実に巧妙な船室造りをしていて、僅かな揺れ以外はまるで陸地の部屋と変わらなかった。しかし、それに感心している余裕がない。
ふいに光が煌めき、アールが姿を現した。
「ここは……船か。まぁ、まだ良いか」
「アール! どこに行っていたの?」
卓の上に座り込んだアールは、辛そうに首を回した。
「精霊界じゃ。精霊国と繋がる箇所だけ澱みが溢れおってな。王自らその対処に追われやっと均衡を保てておる。世界樹さえ祓えが済めばどうとでも、と考えておったが……妙な動きもあると聞くが」
アールは疲れ切ったように長く息を吐き、丸くなった。
「深淵の女王の力も強くなっておる。何故か……恐らくその原因は精霊国にある。姫よ、今は力を蓄えよ。儂もここで少しばかり休ませてもらう」
アールは心底怠そうに溜息を吐き、すぐに寝息を立て始めた。
「精霊界も澱みが溢れているのか」
カナメが椅子に座り、アールを見下ろした。
「そう、みたいだね。世界樹の枝葉を祓ったのに。それでも深淵の女王に対抗出来ないなんて」
口を開きかけたカナメは、その代わりにマリーエルの手に手を重ねた。
「大丈夫だ。君が居れば。俺達もついている」
「そうだね。まずは精霊国に戻って……あれ、カナメ、船酔いは大丈夫なの」
カナメはじっと考えるようにした後、小首を傾げた。
「そう言えば、平気だ。もしかしたら克服したのかもしれない」
マリーエルは、カナメとポツリポツリと言葉を交わしながら、カルヴァスが戻るのを待った。
いつの間にか落ちていたまどろみの中で、近づいて来る足音を耳に捉えた。
顔を上げると、船室に入って来たカルヴァスと目が合い、カルヴァスが失敗したとばかりに口角を下げた。
「起こしちまったか。というか、寝るなら寝台で寝ろよ」
「インターリは?」
窓から差す月光の中で、カルヴァスは武具を外すと寝台のひとつに寝転がった。
「とりあえずは終わったよ。後はアイツの気力次第だな。いやぁ、しかし華発の技術はすげぇのな。ばっちり見て来たから帰ったら報告しねぇとな。――お前はどうだ、カナメ?」
浅い眠りから覚めたカナメが「克服した」とだけ答える。
カルヴァスは怪訝そうな顔をしてから、頭の後ろで腕を組む。
「たった二日で炉の国まで着くんだってのは、行きの行程を考えると馬鹿らしくなってくるよな。もし、精霊国の周りが読みやすい海流だったらと考えると……末恐ろしいぜ」
そう言うとカルヴァスは目を閉じ「寝る」と、すぐに寝息を立て始めた。
船は華発の誇る技術で滑るように進んで行く。月光に照らされる海はただ静かだった。
そういえば、とカナメが、窓際に立つマリーエルに歩み寄った。
「長の残した書には茶の淹れ方も記されていたんだ。お前は精霊国で生きることになるだろうから、私が淹れる物よりもっと良い茶を淹れることが出来る、とも。ここから読んでいれば、あのようなこと……いや、今言っても仕方ないな。市で良い茶葉を見つけたんだ。国に着き、色々と落ち着いたら君に振舞いたいと思っている。集落では叶わなかったから」
カナメは窓の外に目を向けてから、窺うような目でマリーエルを見つめた。
「うん、楽しみにしているね」
マリーエルはカナメの瞳の奥に灯る優しさに、笑みを零した。
底に不安を秘めた夜は、今はただ静かに更けていく。
炉の国の輪郭が遠くに見え始めた頃、インターリが目を覚ました。
ベッロが顔を舐めますのを押し返しながら、インターリが顔を顰める。
「コイツをどうにかしてよ……」
ゆっくりと身を起こしたインターリは、カルヴァスの差し出した器を受け取り、喉を潤した。器の影からジトリとマリーエルを見つめる。
「こうなったのはアンタの責任でもあるんだからね」
「んな訳ねぇだろ」
カルヴァスが呆れた顔で言う。
船医が出て行くと、カルヴァスが真剣な顔でインターリに訊いた。
「で、何があった? まぁ大体のことは想像出来るけどな」
インターリは枕に身を預けながら、ふうと息を吐いて瞳を閉じる。
「アレは僕の過去。昔、所属していた組織の奴等。華発の国で僕の話を耳にして探してたらしい」
「それで、何でそんなことになったんだよ」
カルヴァスが傷を指さす。
インターリは片目を開けて、マリーエルを伺い見る。
「だから、これは暫く片腕だったから両腕の感覚が掴めなくて」
「んな訳ねぇだろ。どんな下っ端だよ!」
インターリは鬱陶しそうに黙り込んでいる。カルヴァスは、鋭い視線を投げた。
「その組織とやらは、今後問題ないんだろうな?」
インターリは、カルヴァスの鋭い視線を平然と受け、鼻で笑った。
「組織自体は僕にもう興味ないよ。もげた手足は拾わないから。僕を襲って来た奴等が僕に固執してただけ。その結果はお前が目にしただろ。組織は無駄なことは絶対にしない。アイツ等を消してやったんだ。感謝して欲しいくらいだね。ちなみに、アンタらに手を出すこともないと思う。何者かに依頼されない限りはね。アンタ等は大陸の者からしたら得体の知れない存在なんだよ」
インターリの言葉に思案していたカルヴァスは、顎を引き、息を吐いた。
「まぁ、その組織とやらのやり方を知ってる奴ってのは、役に立つか」
「見限られないように、精々役に立ってみせるよ」
そう言うと、インターリは再び横になり、毛布を深く被った。
「炉の国に着く迄、もう少し休ませてもらうよ。アンタらは集まると煩いんだからどっか行っててよね」
ぞんざいに手を振ってみせるインターリに、皆で目を見合わせ、誰からともなく笑い合う。
「早いところ治せよなー。またお前を背負うなんて御免だぜ」
「煩いな、早く出て――痛っ」
大声を上げたインターリは、小さく呻くと「早く出てけよ」と繰り返した。
甲板に出て海の先を見やると、いよいよ焚火山が迫ってきていた。