29話 帰り着いた集落で
ベッロの回復を待ち、禁足地の処遇を術師と相談するうちに数日が過ぎた。
精霊界に戻っていたアールが、新たなすみれの精霊が芽吹いたことを告げた。
城を発つ朝、禁足地を訪れたマリーエルは、すみれの花畑を前に跪き、祈りを捧げていた。
精霊の力と、異質な力が在るその場所に穢れは存在しなかった。そしてアメリアの魂の気配もなかった。少しでもこの地に気が満ちるよう、ただ祈る。
魂を感じなくとも。再び逢うことが叶わぬとも。想いは、いつまでも共にある。
「行くか」
「……うん」
雄志城に戻ると、霜夜の兵が出立の準備を進めていた。
マリーエルが支度を終え兵団に近付くと、ベッロが尾を揺らしながら駆け寄り、鼻面をすり寄せて嬉しそうに小さく鳴いた。未だ姿を変えることは出来ないが、歩く程度のことなら難なく出来る程までに回復していた。
出立の角笛が鳴った。
鬼湧谷に至る路の途中までを霜夜の兵団と進み、その後、路を分かれる。
「お力添えを頂き、有難うございました」
マリーエルが言うと、テネレイドは儀礼的にそれを受けた。
「精霊姫様の旅路に苦難のなきよう、お祈りしております」
そう言って僅かに顎を引くと、彼女は霜夜の兵を率いて鬼湧谷へと進んでいった。
マリーエル達は馬を降り、比較的緩やかな路を選びながら、カナメの集落へと進んだ。比較的緩やかとはいえ、霜夜の国が管理する道は非常に険しいものばかりだった。
「カナメは、こういう道を……よく通っていたの?」
「いや、物を揃えるには華発に近い村の方が都合が良いし、霜夜の奥の方には俺達はあまり来ないんだ。正直、ここまで険しいとは知らなかった」
「険しければ険しい程良いって思ってんだよ、霜夜の奴等はさぁ」
インターリが、無秩序に生える草木を切り落としながら吐き捨てる。
「流石にキツイな、この道」
地図を広げていたカルヴァスが言うと、カナメが地図を覗き込み、指さした。
「この先に行けば華発の路だから歩きやすいだろう。そこから集落まではまた路を外れるが、俺達が使う路だからここまできつくない。マリー、君は大丈夫か?」
マリーエルはただ頷いた。気を紛らわせるのにはいいが、言葉を発するのにも力が要る。
華発の路に出ると、カナメは慣れた足取りで先導した。路を逸れ暫く進むと、「ここが」と言いながら下生えを掻き分け、動きを止めた。
「さっきまでの道とそんな変わんなくない? 僕も流石に疲れてきたんだけど」
インターリが面倒くさそうに、下生えを叩き切る。
「カナメ?」
マリーエルが呼んでも、カナメは何かを探るように樹々に埋もれる路を見つめている。
「行ってみようぜ。――とりあえず、血臭はしねぇ」
カルヴァスが肩を叩くと、カナメは静かに頷いた。
路は確かに踏みしめられ、手入れがされた形跡があったが、それを覆い隠すように草木が伸び放題になっていた。集落の者にしか判らない分かれ路をカナメは迷わず進み、近づくにつれ一歩一歩が警戒に重くなる。
唐突に視界の切れ目が現れた。木材に布地を張った家々が樹々の間に覗く。
足を止めたカルヴァスが剣を抜き、問うようにカナメに目配せする。カナメの頷きを合図に一歩ずつ進む。進むにつれ、マリーエルの中で嫌な予感と抵抗感が膨れ上がった。
先を歩いていたカナメが、一瞬だけ立ち止まってから、弾かれたように走り出した。
「あ、おい!」
カルヴァスの声にも止まらず、カナメは集落の奥へと姿を消す。
マリーエルは、カナメを追い踏み込んだ集落の様子を見渡して、言葉を失った。
並び立つ家々は張り布を裂かれ、柱を折られ、辛うじて形を保っているものばかりだった。
「これって……」
「まずはアイツを追った方が良いんじゃない?」
インターリの言葉に、マリーエル達はカナメの姿を追って奥へと進んだ。
一回り大きい天幕の中にカナメの姿はあった。裂かれた張り布の間から何かを拾い上げているのが見える。
「カナメ?」
マリーエルの声にカナメはゆるゆると顔を上げた。手元には幾つかの紙片を抱えていた。
「悪しきものの襲撃を受けたと……」
カナメはそう言いながら、マリーエルのずっと後ろに視線を止め、再び弾かれたように駆け出した。手にしていた紙片がバラバラと散る。
「シオン!」
いつからそこにいたのか、一人の女が樹々の間から様子を伺っていた。縋り付くように腕を掴んだカナメが、捲し立てる。
「一体何があったんだ⁉ 悪しきものとは――ぐっ⁉」
突如、カナメが呻き声を上げ、身を仰け反らせた。
ゆるりと掲げられた血の気を失ったシオンの手が、カナメの首に回っていた。全身の力を使ってのしかかるシオンに、カナメはよろめいて後ろに倒れ込んだ。
カルヴァスが引き離そうと押さえ込むが、食い込んだ手が執拗にカナメの首を締め上げる。
「よくも……私達をだましたな」
憎しみの籠った瞳が、カナメを射抜く。
マリーエルは静かに杖をシオンに向けた。それだけでカルヴァスは何事かを理解し、苦々しげな表情を浮かべる。
よくも、と繰り返していたシオンは、マリーエルの周りに渦巻き始めた気の流れに顔を上げた。口を大きく開け、獣のような声を上げながら、口や鼻から影を滴らせる。
マリーエルは気を導き、シオンの体を包み込んだ。カルヴァスに押さえ込まれた体がガクガクと揺れ、次の瞬間には脱力した。衣が腹部から染み出た腐った血液で染まっていく。嫌な臭いを放つ臓器が、びしゃびしゃと足元に零れ落ちた。
カルヴァスが静かにその体を横たえると、カナメが咳き込みながら名前を呼び、縋りついた。しかしそれに答える者は既にいない。
カナメは、苛立ちに声を上げ、地面に拳を叩きつけた。
「近くに世界樹の枝葉があるんだよな。そこから影が噴出したか……この辺りはどのくらい穢れが溜まってる?」
カルヴァスが辺りを見渡しながら訊いた。マリーエルは改めて気を探り、首を振った。
「それが、こんなことがあったとは思えないぐらいに穢れはないの」
「恐らく、ここの長の力じゃろうな。悪しきものの襲撃を受け、力を使う、と記しておる」
アールが、天幕に散らばった紙片に目を落としながら言った。
「そんなことが書いてあんの? 僕にはさっぱり判んないけど。というかそんなものを残せるなんて随分余裕があったんだね」
インターリを一瞥してから、アールが鼻で笑う。
「これは読者を限定する言語じゃからお主が読めんのも判らんでもない。それにこれらは筆を使って書かれるものではない。この集落の長は余程の力の持ち主であったんじゃろう。書物も含め、ほぼ同時に書かれておる」
「読者を限定する言語を何でアンタが読める訳?」
インターリの問いに、アールは膨らんで威張った。
「ふん! 儂くらいになれば古代の精霊語を元にした言語ならばこうして――」
アールの毛が逆立つと、辺りの空気が音を立てて弾けた。ふぅむ、と鼻をひくつかせる。
「これによると、この集落はそこの若造を除いて全滅じゃな。皆の気を使うとある。そこの者は丁度この場におらず、後に影にやられたか」
「そんな……」
マリーエルは地にうずくまったままのカナメの背に手を添えた。びくりと背が揺れ、カナメはゆるゆると顔を上げた。
「で、私達をだました、って?」
インターリが突き放すように訊いた。
「今はそんなこと――」
「だって何のことか気にならないの?」
カナメは聞いているのかいないのか、ただ呆然としている。
「そいつ元々怪しいじゃん。何だよ、影の影響を受けないとか、鬼の前でぼーっとしてるとかさ」
「止めろ」
カルヴァスがインターリを諫めると、カナメの前に屈み、顔を覗く。
「オレ達は世界樹の枝葉の祓えに行ってくる。場所だけ教えてくれ」
カナメは苦しそうに瞳を閉じ、唾を飲んだ。
「案内しよう。その前に……シオンを送ってやってくれないか。長が居ない今、俺には送ってやるだけの力がない。君に送って欲しい」
項垂れるように頭を下げるカナメに、マリーエルは頷いた。
世界樹の声を聴くというこの集落での作法を知らない。しかし、いずれ世界を巡り世界樹の許へと還るよう、マリーエルは祈りを捧げ、気の流れに導いた。横たわる体に火が回り、燃やしていく。
「有難う」
カナメは震える口端を僅かに上げ、笑みを作ろうとした。視線は静かにシオンが横たわっていた場所に注がれている。
「案内しよう」
カナメはそれきり黙り込んだまま、天幕の奥へと歩を進めた。樹々の間を進むと、ある地点でカナメは足を止めた。視線の先で、洞窟が暗い口を開いている。
「ここだ。ここは……長のみが訪れるのを許される場所だった。普段は長の力で隠されていたんだ……。本当に、長はもう……」
そう呟くカナメの背中を、マリーエルは気遣うようにそっと触れた。
カナメは小さく何度も頷いてから、マリーエルの手を握った。
「大丈夫だ。ちゃんと受け入れる。長の書には、精霊姫がこの地を訪れ、祓えの儀を行うから案内するように、とあった。ここからは、頼めるだろうか?」
「うん、任せて。でも、本当に大丈夫?」
その問いに、カナメは瞳を閉じ、一言ずつ言葉を吐いた。
「長の書の残りを読まなければならないし、皆の物を整理してやりたい。それに……少し、一人になりたいんだ」
暗く沈む瞳に、マリーエルは言葉を飲み込み、静かに頷いた。
「判った。きちんと祓えは済ませてくるから。待っててね」
洞窟を歩き出し暫く進んでから肩越しに振り返ると、カナメの背中は力なく遠ざかっていった。
真っ直ぐ伸びた岩壁の道が開けると、世界樹の枝葉が広く伸びていた。天井に空いた穴から陽が差している。
「ここも影の気配はないし、殆ど穢れもない。族長さんって本当に凄い人だったんだね」
「しかし、それも亡き今、ここには姫の祓えと気の調律が必要じゃ」
アールの言葉に、マリーエルは祓えの場を整えた。
どこか精霊山のような雰囲気の場所だった。この場の気は滑らかで涼やかだ。気を導き、正しく巡るよう調律する。
くん、と引っ張られる感覚があった。マリーエルは抗わず、それに身を任せた。
――陽の光が溢れる中。温かい腕が、小さく蠢く何かを抱え上げる。それは弱々しい手足を震わせて声を上げていた。腕は、躊躇いながらも愛おしそうに、それを抱きしめた。指先でそれの上を辿り書き、その痕が美しい紋様となっていく。声の限り泣いていたそれは、瞳を開いた――
「あっぶねぇ!」
マリーエルは、突然耳元で聞こえた声に意識を引き戻された。すぐ目の前にカルヴァスの顔がある。
「今回も何か視てるみたいだったから、様子を見てたら急に倒れ込むから焦ったぜ。って、おい。どうした」
怪訝そうにするカルヴァスの視線を追い、マリーエルは自身が涙を流していることに気が付いた。それを軽く拭い、首を横に振る。
「ううん、大丈夫。カナメの所に行こう」
マリーエルは立ち上がると、世界樹の枝葉を振り返った。
何故、視せるのか。何を、求めているのか。判らずとも、自分の中に湧き起こった気持ちは確かだ。




