2話 すみれの精霊
マリーエルが溜息を吐くと、面白がるようにアメリアは小さく笑った。
「お疲れ様」
「もう、すっごく疲れたよ。最近益々厳しいんだもん。小言も増えたし……」
マリーエルは書物をパラパラと捲っては中身を流し見た。読めないことはないが、アントニオの求める水準まで学び取れる自信がない。絵付きは絵だけ眺めて終わりそうだ。
「別に興味がないって訳じゃないもん。でももっと興味があることがあるとそっちの方が気になっちゃうの」
マリーエルは、書物を胸に抱くようにしてから口を尖らせた。その様子を見やったアメリアは、さらりと横顔に垂れた髪を耳に掛け直して、覗き込むようにする。
「精霊姫は常人より感覚が鋭く、それは精霊達のものに近いというわ。精霊と対話するだけの力が殆どない私には気持ちを理解してあげることは出来ないけれど……。でもアントニオが貴女に厳しくするのは意地悪する為じゃないって貴女も判っているでしょう? 知識の精霊の呼び掛けを受けた彼が考えうる限り最善の優しさだわ。少し不器用だけれどね」
そう言って微笑まれると、マリーエルは頷くしかなかった。勿論、理解している。彼はこの世界に生を受けたその日から側で見守ってくれていた。ほんのりと蘇った優しい思い出の中に小言が混ざり始めたので、頭を振ってそれを追い出した。
「でも出来るだけ分かりやすい優しさの方が良いな」
マリーエルが言うと、アメリアは窘めるようにしてから、「仕方ない子ね」と小さく笑った。
アメリアはアントニオと同じくマリーエルが生まれた時から世話役として側に仕えていた。マリーエルより七つ年上で面倒見と気立てが良く、聡明で健康な娘だからという理由で選ばれた。最初こそ遊び相手としての側面もあったのだが、随分と早い時期からアメリアにとっても大切な役目となっていた。
マリーエルには二人の姉が居るが、グランディウスの子孫としてそれぞれ奮闘する彼女達よりもアメリアの方が共にする時間はずっと長い。何の気兼ねなく甘えられる相手であったが、アメリアは厳しさも持ち合わせていた。アメリアを怒らせてはいけないし、彼女が怒った時はすぐにでも態度を改めなければ、後が怖いのだ。
自室の卓に着き待っていると、アメリアが厨から昼餉を運んできて卓に並べた。そのまま部屋の隅に行こうとするのを呼び止める。
「ねぇ、一緒に食べようよ」
アメリアは部屋の外に目をやってから、「そうしましょうか」と微笑んだ。
世話役は食事中の世話や訪問者の応対をする為、椅子に腰掛けることはしても食事を共にすることは殆どない。しかし、マリーエルはよくアメリアを誘った。その為に食事の世話が掛からないように意識しているし、アメリアも訪問者が来ればそつなくこなし、問題になったことはない。アメリアはマリーエルが絶対にそう言い出すと判っていても彼女からの誘いを待ち、世話役としてあるべき姿を自ら崩すことはなかった。マリーエルにとってそれは少しの寂しさを感じさせたが、だからこそアメリアが周囲から評価されているということも理解していた。
食後の茶を飲みながら外を見つめていたマリーエルは、風に乗る花弁に目を留めて微笑んだ。甘い香りが香ばしい茶の香りと混じり合う。
窓辺に落ちた花弁が集まり、くるくると舞い輝くと青年の姿を形作った。背から生えた翅を通った陽が、色を変えて部屋に注ぐ。
「我等の精霊姫よ。――おや?」
窓辺に腰掛けたままマリーエルの顔を覗き込んだ青年は、形の良い眉を寄せた。
「気が少し乱れているね」
透けるような手がそっとマリーエルの頬を包み込んだ。すみれの咲く瞳が心配そうに細められると、顔の中心から放射状に伸びた飾り模様が形を変えた。髪からすみれの花が涙のように零れ落ちる。
彼はすみれの精霊だ。精霊国では格別にすみれの花を大切に扱っている。大切にしたからか、それともよく姿を現していたからかどちらが先かはもう判らないが、彼は呼び掛けを受けたかには関係なくよく人々の前に姿を現し、愛されている。
「ここの所忙しくしてるからかなぁ。それともアントニオの小言のせいかな」
マリーエルが冗談めかして言うと、すみれの精霊は、納得いったように笑った。
「彼等は知識を与えずには居られないのだろう。特に姫には」
すみれの精霊はマリーエルの額に口づけをすると身を離した。甘い香りが鼻をくすぐり、身の内をふわりと抜けると、体が少しだけ軽くなった気がする。
「さぁ、これで整った。やはり君の気の流れは心地が良いね」
精霊の力を導く時、自身の内に取り込むことで成される。意識的、無意識的に行われ、特に気に満ち溢れる精霊姫の内を流れるのは、精霊にとって心地の良いものだった。しかし、あまりに強大な力を一度に取り込むのは精霊姫の器を壊すことにもなりかねず、今は彼女の器としての成熟が待たれている。
精霊人とはいえ、精霊の呼び掛けを受けるのは稀であり、多くの場合修養を積んでやっと一霊に認められ力を授かることが出来る。その為、一霊を深く探求する者が殆どだ。精霊の力を使うにしても煩雑な儀式を執り行うか、力を宿した道具を用いて精霊の力を発現させることとなる。
精霊姫は、それら全てを必要とせず、精霊の声を聴き、力を導くことが出来た。
「今日は君に贈り物をしようと思うんだ」
そう言って卓の上に手を伸ばしたすみれの精霊は、糖壷から一掴み取ったものを、手のひらに湧き出たすみれの花に吹きかけた。糖の粒を纏ったすみれの花を優雅な手つきでマリーエルの口元に差し出した。
「さぁ、お食べ」
マリーエルは促されるままに口に含むと、目を瞬いた。華やかな香りと瑞々しい食感が口いっぱいに広がっていく。柔らかな甘みが身の内に溶けていく。
「美味しい……!」
「それは良かった。私の力を受けたモノも愛でるだけでなくて身に取り込んで欲しかったんだ。他のものとはまた違った味わい……というものだろう?」
すみれの精霊はそう言ってからアメリアに目を向けて微笑んだ。
「君のお陰だ」
「お役に立てて良かった」
アメリアには、生まれつき精霊との対話に必要な霊力が備わっていない。ただ、この国で愛されるすみれの精霊だけは彼女でも視ることが出来た。
「彼女に人並みの霊力があれば」。それはアメリアが幼い頃より繰り返し耳にした言葉だったが、今彼女にそのようなことを口にする者は居なかった。それだけ精霊姫の世話役というものは誉れある役なのだが、精霊人と呼ばれる人々が暮らす国でアメリアが冷たい視線を受けることがないのは、彼女の人柄も大きな所以となっていた。
ふと、すみれの精霊が外に目を向け、不快そうに細めた。すぐに笑みを取り戻すと、手のひらに零れ咲いたすみれの花々を卓の上に置いてから、「また来る」と言い残し、現れた時のように輝いて消えた。
「あ、まだお礼を言ってなかったのに……。アメリアが一緒に考えてくれたんだよね。有難う」
「ええ。彼にはまた次に伝えたら良いわ」
アメリアはすみれの花を取り上げ花瓶に生けながら、愛おしそうにすみれの花を見つめていた。