1話 精霊姫教育役の苦悩
アントニオは眉間に深い皺を寄せ、目の前の少女──マリーエル・グラウス・ディウスを見下ろしていた。
精霊の祝福の輝きが精霊国を舞い包んで十八年の時を経ようとする今、マリーエルは直に成人の儀を迎えようとしている。
──それなのに。
「貴女が精霊姫としてその名に恥じぬよう教育することが私の役目であると信じ尽くしてきたつもりですが、恥じ入るべきは私の方かもしれません」
思わず小さな溜め息を漏らすと、マリーエルがビクリと肩を震わせた。その拍子に柔らかく波打つ髪が光を受けて色を変える。花咲く瞳が気まずげに、そして何処か哀れみを誘うようにアントニオを窺っている。
グラウス城――別名〈精霊城〉の一室である。
精霊姫であるマリーエルは、グランディウスの子孫として民を導く立場にもある。それには、精霊と対話する力だけではいけない。姫としての態度、使命、進むべき道。知の精霊の呼び掛けを受けた器たるアントニオには、持てるだけの知識を授けるという役目があった。
「そんな目で見ても無駄ですよ。全く貴女は……そういう態度を取れば許して貰えると思っているのかもしれませんが、私はそうはいきません。いい加減学ばれては如何ですか」
冷たく突き放すと、マリーエルは拗ねたように頬を膨らませた。
「いじわる」
「意地悪ではありません。今後の貴女の人生に関わってくることをお教えしているのです。精霊国は島国とはいえ、大陸と一切の関りがない訳ではありません。その時の為に、他国の慣習や歴史を学び──聞いているのですか⁉」
不満を紛らわせるように筆を揺らしていたマリーエルの手を、アントニオはぴしゃりと叩いた。マリーエルは小さく悲鳴を上げると恨みがましく睨み上げた。勿論、力の限り叩いた訳ではない。──そんなことをする筈がない。
「人の話を聞く時は、背筋を伸ばし相手の顔を見ること」
「……むぅ」
マリーエルは背筋を伸ばしながらも、何かを期待するように窓の外に目を向けた。歌い出しそうに唇が開くのを、咳払いをして止めると、マリーエルは卓の上に置かれた書物に目を落とした。
──全く。今日はとことん集中力が続かない。精霊が歌の誘いに来ないのはまだ良いですが。
アントニオが床に積まれた書物から何冊かを選び取っていくと、一冊取る度にマリーエルの顔が怯えたように歪む。
それを視界の端に捉えながら、アントニオは内心で溜め息を吐いた。
マリーエルが生を受けてすぐに精霊城へと馳せ参じ、知の精霊の呼び掛けを受けたことを明かしたアントニオは、グランディウス王より教育役に任命され、それ以来一心にマリーエルに尽くしてきた。それは〈知の者〉となったアントニオにとって、生を受けた意味ともなった。
しかし近頃、あらゆる選択肢を間違えたのではないかと思うことが度々あった。
勿論、〈知の者〉として精霊姫の側に居ること自体に少しの後悔も何もない。生を受けた意味なのだから。
アントニオは、大量の知識を持っていることと、それを与えることは全く別なのだと痛感していた。
卓の上の書物を開いて見せながら、アントニオは小さく笑みを浮かべた。
「貴女でも読めるよう、絵がふんだんに使用されている書物を選んでみましたよ。これなら絵を楽しみながら学ぶことが出来るでしょう。如何です?」
アントニオが示す書物に目を移したマリーエルは、訝しげに眉を寄せた。
「これ、アンジュが読んでいたものじゃないの」
アンジュとは彼女の十も下の妹である。確かに、この書物はアンジュへと貸し出し、返却されたものである。
「ご不満なら、こちらにしますか? 何度もお勧めしたものですが」
取り出した一冊を開いて見せると、絵は彩り程度で文字がびっしりと書いてある紙面で視線を彷徨わせ、マリーエルは再び頬を膨らませた。
「アントニオの意地悪!」
「ですから、意地悪ではありません。貴女は、理解力がない訳ではないのに……どうして、こうも書物を前にそのような態度を取られるのか。──ほら、そのような仕草も、もうじき成人なされる女性のするものではありませんよ」
その言葉に、マリーエルは改めて拗ねた表情を作った。
──全く。どうしてこうも……。私の教育はやはり間違っていたのでしょうか。いやいや……。
アントニオは眉間を押さえながら、緩く頭を振った。
マリーエルがいつも以上に勉学に身が入っていない理由はひとつ。間近に迫った彼女自身の成人の儀のことだ。
精霊姫は、器としてまたひとつ成熟した証として、精霊王に舞を奉じることになっている。それが楽しみで仕方ないのだ。書物を前にしている時と、舞の稽古の時では表情の明るさが全く異なっている。
精霊は歌や舞を好み、それをもって力を揮うことが多い。
実際、精霊達はよくマリーエルの前に現れては、歌や舞に誘い、その力をマリーエルという器の中に流し、この世界へと満たしている。
精霊姫が生まれる前までは、一年(精霊国においては最初の種蒔から開花、収穫を繰り返し、その後ひと時大地が眠る期間)の終わりと始まりに顕現するのみであった精霊王も、精霊姫の器としての成熟を確認するかのように折に触れてマリーエルの許へと訪れていた。精霊王の気を身の内に巡らせることで、マリーエルの精霊姫としての気の力もより強く育まれていく。
精霊国史をたどれば、前の精霊姫が存在したのは二代前の王の治世だ。強大な力のせいで早逝した者も少なくないが、マリーエルは平然と精霊達と戯れ、その力を巡らせ導いている。
アントニオは、ふとマリーエルの瞳に映る世界の在り様を想像しようとして、すぐに諦めた。
知の精霊の呼び掛けを受けたからといって、マリーエルのように多くの精霊の力を導ける訳ではない。どのような精霊がどのような力を司っているのかを知っているだけだ。
そんな自分にどうして精霊姫の視る世界を想像出来る?
知識とは多くの者に共有されてこそ〝知識〟となるのだ。
マリーエルはその知識を書き記した書物を前に、難しい顔を浮かべている。
──どうしたら、知識を得ることの喜びをお教え出来るのか。
器として半ば強制的に知識を得ることとなったアントニオには、〝知識を得ることの喜びを知る切っ掛け〟というものが理解出来ていない。
まさに、知識があることと、それを教えることは別なのである。
やるせなさに、ふと窓に目をやると、マリーエルが期待に不安を滲ませた表情を浮かべてアントニオを見上げた。長く息を吐いたアントニオは、言った。
「ここまでにしましょう」
その言葉を聞いた途端、マリーエルの表情がぱっと輝いた。
見計らったように部屋の呼び鈴が鳴った。
「食事の支度が出来たけれど、そろそろ終わったかしら?」
マリーエルの世話役であるアメリアが、柔らかな笑顔を浮かべながら部屋に入ってくると首を傾げた。
露に濡れるすみれ色の瞳が興味深そうに二人を行き来し、問うように瞬く。明け方の陽の色の髪を耳に掛けてから、もう一度訊ねるように首を傾げた。
口を開きかけたアントニオを遮るように、マリーエルが立ち上がり声を上げる。
「終わったよ! 昼餉はなぁに、アメリア?」
すぐさまアメリアの許へ駆け出して行きそうになるマリーエルを、アントニオは鋭く呼び止めた。
「こちらの書物は課題としてお渡しします。読んでおくように」
絵の多い方の書物も重ねて渡すと、マリーエルの表情が引き攣った。
「貴女の予定を考慮してこの量です。貴女なら読める筈です。そう信じましょう。良いですか。成人の儀が終わり、それで学びも終わる訳ではありません。貴女がどのように身を振るとしても知識があって困るということはありません。無くて困ることは大いにあると思いますが。それは貴女も理解している筈でしょう? 貴女が打てば響くような方であったなら……そのような事は申しません。私にも責任はある。しかし多様な工夫を凝らし、貴女に真の知識を授けようと思っていても、貴女がその調子ではどうしようもありません。貴女が興味ないと投げ捨ててしまう事柄をどうやって学んでいただけるのか、これもまた私の学びと――」
「うん、学びには書物を読むことから! 有難う、アントニオ!」
妙に明るい声で言ってから、マリーエルは書物を手に部屋を飛び出した。
「……良かったの?」
アントニオは、アメリアの問いに「行って良い」と手で示してから、再び溜め息を吐いた。
知の精霊の呼び掛けを受けた者として、大変不名誉なことではあるが、マリーエルに知識を与えるということは、知識だけでどうにかなるものではないのだった。
これまで、知識を駆使し、あらゆる手を使ってきた。しかしどうにもマリーエルは感覚的なこと以外には意識が向きにくく、気もそぞろになってしまう。感覚的に伝えようとすれば面白がるだけで学びには繋がらない。
そして何より、いけないとは思いつつも最終的につい甘やかしてしまう結果となってしまっていることが十分にあることを、アントニオは理解していた。
──精霊の祝福を受けた姫。私の、生きる意味。
アントニオはまたひとつ息を吐くと、マリーエルの教育について、あらゆる知識を駆使して頭を悩ませ始めた。




