28話 喪失の痛み
霜夜の国雄志城は、見た目や質素な造りの調度とは反して、温かく整えられていた。
鎧を身に着けたまま王座に着いた女王テネレイドは、逞しい右腕に頭を預け、珍品でも前にしたようにマリーエル一行を見下ろした。
「お前がその精霊姫だと?」
「はい。今は精霊姫の使命の為、大陸を巡っています」
傷の手当てを受けながら、マリーエルは妙に静かな気持ちで答えた。体のあちこちが痛み、頭の奥底でも重い塊がゆっくりと移動しているように強く痛む。しかし、それらの全てがどこか遠くの出来事に感じていた。
ふと投げやりな気持ちになり、会話を切り上げようと口を開くと、テネレイドはそれを手で制し、鼻で笑った。
「尋問するつもりはない。お前の兄マルケスから聞いた通りだし、その指輪も、華発の手巾も、余程の者でなければ手に出来ないからな。この国で何事かを成すつもりなら、事前に伝えて然るべきかとは思うが、しかし、我が国にそのような暇もないのでな。どうせ華発の入れ知恵だろうが、不問としよう」
予期せぬ名にマリーエルは話の殆どを聞き逃し、返す言葉を失った。次兄のマルケスはマリーエルが七つの時に大陸で命を落としている。
ふと遠い顔をしたテネレイドは、物知り顔でニンマリと口端を上げた。
「この話を続けるつもりはない。しかし、お前の言い分は信じよう。我が国としても長く続く鬼との戦に、僅かでも休息を得られたことに感謝をしている。臣下の傷が癒えるまでこの城への滞在を許そう」
それよりも、とテネレイドは脚を組み直した。
「あの力の奔出はなんだ? 精霊姫のなせる技か?」
テネレイドは、否、であると確信していながらも訊いた。
言葉に詰まったマリーエルの代わりに口を開こうとしたカルヴァスを手で制すると、価値を見極めるようにマリーエルへ鋭い視線を向ける。
マリーエルは、ひとつ息を吐き、口を開いた。
「あれは精霊の力ではありません」
テネレイドは右手に預けた頭を僅かに傾け、何事かを考え込んでから言った。
「女神信仰を知っているな? あぁ、精霊国では原初神というのだったか。ともかくこの辺りでは精霊だけでなく、女神を信仰する者が居る。女神は自身の体を使ってこの世界の大地、川、山、海などを造った。古来より、女神は命在るモノの願いを聞き届け叶える、と大陸では伝わっている。精霊国の者にこのようなことを信じよというのは無情かもしれないが、あれはまさにそういったものではなかったか?」
「女神の……」
原初神信仰とは、精霊界との争いを生んだ思想である。
古来より、精霊信仰と原初神信仰は二立していた。精霊は力ある者にその姿を見せ、力を授け、力のない者でも自然やあらゆる現象の中にその威光を感じることが出来る。対して原初神は逸話を残すのみだが、奇跡とも思える出来事で命在るモノを救うと信じられていた。全ての始まりだと拝す者も居る。
精霊姫の立場から言えば、精霊は確かに存在し、命世界に影響を及ぼしている。そしてその力を導くために姫は生まれてくる。
「それで、あの地はどうするつもりだ?」
テネレイドが、ひたとマリーエルを見つめながら訊いた。
「精霊姫であるお前はあの地の祓えに来たのだろう? あの地は長く禁足地としてきた。何か特別なことが必要なら精霊姫に頼みたい。術師が要るなら用意しよう」
マリーエルは視線を受け止めながら、小さく息を吸った。
「もう一度詳しく見てみないことには判りませんが、あの地の世界樹の枝葉は隆起した地と樹々によって地中深くに隠されました。それによって影響は出るでしょう。ですが、あの地には今、すみれの精霊の力も流れています。それをきっかけに他の気を呼び、流れを変えるかもしれません。女神の力というのは……私には判りません」
何かを言いかけたテネレイドは、一瞬だけ暗い瞳をしてから脚を組み替え、薄い笑みを作った。
「鬼とは、凝りし澱みより生まれるモノ。我等は長き時を鬼との戦に費やしてきた。だが、何が起きたにせよ今回の事は我等の力も及ばなかったと見る。我等に出来ることは戦と寒さに耐えることばかりだが、何かあれば力を貸そう。ひとまず我が国の術師と話をつけてくれ」
テネレイドは鎧を重く鳴らして立ち上がると、控える臣下に簡潔な指示を与え、マリーエルを見下ろした。
「今夜は休むと良い」
一度は閉じた口を再び開いたテネレイドは、ただ「感謝する」とだけ言い、王の間を出て行った。
冷たく靴音を響かせる廊は、しかし念入りに温められていた。
木窓を開けると、遠くに雪に染まった山々が見え、冷たい風が入り込む。後ろに付いていた補佐役レヴンがヒュッと寒そうに息をしたのに小さく笑う。この男は益々老いを深めたが、こういう所は変わっていない。
幼き日を思い出したテネレイドは、それを仕舞い込むように木窓を閉めた。
「似ていたな。いや、似ていないか」
レヴンがじっと耳を傾けているのが判る。霜夜の国の男達がそうであるように、レヴンも多くを語らない。
「強いて言うなら話し方が似ていたか。真剣に話している筈なのにどこか間の抜けた感じがあって……」
チクリと痛んだ胸に、テネレイドは奥歯を噛み締めた。顎を上げる。
「休息を得られたとはいえ、これは好機だ。体勢を整え、奴らの根城を叩く。我等に戦意まで緩める暇はない」
言ってから、目蓋の裏に残った花の色を、瞬きの内に追い払った。
霜夜の国では、寒さに耐え生き抜くことが魂に刻まれる。生きなくては。花の香りに酔いしれる時は必要ない。
テネレイドは、再び靴音を重く響かせて歩き出した。
部屋に通され、椅子に腰掛けたまま暫くの間ぼんやりとしていたマリーエルは、ふとこの部屋にただ一人で居ることに気が付いて息を呑んだ。
ぎこちなく息を吐き出すと、途端に息苦しくなってくる。息を吸った拍子に、引きつるような声が漏れた。感情が溢れ出し、視界を滲ませる。全てが体の内から零れてしまいそうだった。叫び出しそうな、それでいてもう何も口にしたくないような感覚の中、歯の間からすり潰したような声が漏れる。
「マリー?」
その声に、マリーエルは肩を震わせ、息を吸った。目元をこすり、灯りが十分に点いていない部屋に、ぼんやりとした灯りが近づいてくるのを捉える。
「君の部屋に灯りが足りないかと思ってこれを……」
灯りを手にしたカナメは、その光に照らされたマリーエルの顔から視線を逸らし、卓の上に灯りを置いた。
マリーエルは笑みを作ろうとしたが、唇が震えて上手く出来なかった。
「必要なら灯りをもっと持ってこようか」
そう訊く声に、ゆるく首を横に振る。息を吸い、慎重に声を出す。
「カナメも今は休んで」
「いや、酷い怪我もしていないし、その……」
カナメの声は至っていつも通りだ。しかし、言葉を探してまごまごとして、言葉を飲み込み、その暗く沈んだ瞳が、気遣うようにマリーエルを伺い見る。
マリーエルの視界が再び滲んだ。カナメの手が躊躇いがちに頬を滑り、涙を拭う。
その時、廊を急ぎ足で駆ける音が近づいて来た。
「わりぃ、マリーの着替えを手伝って貰えるよう頼んで――」
部屋の入り口で足を止めたカルヴァスが、マリーエルとカナメの顔を見比べ、後ろに視線を移して何やら小声で伝えてから部屋に入って来た。
「ごめんな。いつもこういう時はアメリアに頼りきりだったからさ。ずっと」
「うん」
「オレ達、長いこと……一緒だったもんな」
「……うんっ」
マリーエルは耐え切れず、カルヴァスに寄り縋った。
佇み、マリーエルの頭を撫でていたカルヴァスは、身を屈めて何かを言おうとし、ぐっと眉間に皺を寄せてから、マリーエルの肩を強く抱き寄せた。
マリーエルの耳元で、詰まったような息が漏れる。
「ちゃんと……送ってやろう」
「うん……」
視線を合わせると、カルヴァスの瞳の奥が戸惑いで揺れているのが判った。気が付いているのだ。アメリアの魂が巡ることを止め、大地と一体となったことを。しかし、それに気が付かない振りをする。
「ねぇ、今夜は一緒に寝ようよ。昔みたいに」
「うん……は?」
目を大きく見開いたカルヴァスが、その拍子にポロリと零れた涙を軽く拭い、苦悩するようにガリガリと頭を掻く。
「ほーんと、まだまだお子様なのな! おい、お前も寝具持って来いよ、カナメ」
急に話を振られたカナメが、気まずそうに頭を振った。
「いや、俺はいつものようにそこに居る」
カルヴァスは部屋の入口に向かおうとするカナメの肩を掴み、引き留めた。
「待てって! 流石にオレでもこれは色々マズいだろ! 野営の時と同じだって隣で寝るだけ!」
慌てるカルヴァスからマリーエルに視線を移したカナメは、ふぅと溜息を吐いた。
「判った」
着替えを終えたマリーエルは、二人の準備を待つ間、包みや毛布を抱え中庭に向かった。
渋る世話人を説き伏せ、洗濯や着替えを学び、これからはどんなことも一人で出来るようにならなければ、と決意を新たに、廊を歩く。
中庭にはインターリとベッロが居る。雄志城に着いてすぐ、手当ての為に行動を別にしていた。
「ベッロの様子はどう?」
声を掛けると、焚火に小枝を放り込んだインターリが、ゆるりと振り返った。
「まだ、どうにも。――お、気が利くじゃん」
インターリは、毛布と温かい茶を受け取ると暖を取った。
地に敷いた厚い布の上にベッロの体は横たえられている。空は晴れ、月光がベッロの体に降り注いでいた。獣族の内、特にベッロの一族は月光から癒しの力を得るのだという。
僕達からしたら意味わかんないよね、とベッロを見下ろしながらインターリが言った。
「あのね、これ返すね」
マリーエルはもう一つの包みを開き、インターリに差し出した。月光に照らされた義手に目を落としたインターリが、唇の端を上げる。
「後悔してる?」
その言葉にマリーエルは苦しさを覚え、目を閉じた。しかし、後悔したとして全てが過ぎたことだった。
何とか口を開こうとすると、笑みを引っ込めたインターリが、今度は自嘲気味に笑った。
「この腕があったって、あの大軍を僕達だけでどうにかするのは無理だったよ。アメリアが何の力だか知らないけど、使わなければ全滅してた。そうやって自分を責めるだけ――」
そこで言葉を切ったインターリは、ゆるく頭を振り、ベッロの横顔をひと撫でした。
「こいつを精霊国に連れて行って貰わないとなんだから、アンタにはしっかりして貰わないと困るんだよね」
インターリは小枝を掴んで焚火に放り込んでから、義手を取り上げた。具合を確かめるように弄ってから肩口に取り付ける。キンッという音がして、自由に動くようになった手のひらを開いたり閉じたりする。
おもむろに剣を取り上げたインターリは、刀身をマリーエルの首筋に押し当てた。
「本当にさぁ、油断しすぎだよ」
偽悪的に言うインターリに、マリーエルは笑みを返した。
「私はもう何も失いたくない。私に出来ることは、本当に少ししかないけど。でも、それでも……。だから、インターリもベッロのことも、守りたい」
「……あのさ、剣突きつけられてる状況で言うことじゃないでしょ」
「インターリが私のことを傷つける訳ないもん」
インターリは目一杯眉間に皺を寄せてから、呆れたように目を閉じた。
「僕、そうやって知ったような口を利かれるの嫌いなんだよね。というかアイツらはどこに居んの? 城の中だからってお姫様を一人にすんなよ」
インターリはぼんやりと灯りの漏れる窓に目を向け、剣を仕舞った。
「今夜は皆で寝ようって話になったんだけど……ベッロは外に居た方が良いんだよね」
「は、何それ? ……あぁ」
インターリは意味ありげに笑うと、ベッロに視線を向けた。
「僕は遠慮しておくよ。少しでも早くベッロを回復させたいからね。これだけで十分。ちなみに煩いのは嫌だから皆でこっちに来るとかもやめてよね」
そう言ってぞんざいに手を振ると、毛布をきつく体に巻き付けた。
マリーエルが部屋に戻ると、カルヴァスは頭の後ろで腕を組んで、既に寝台に横になっていた。
「アイツらは……来ねぇだろうな」
「うん、その方がベッロに良いって」
カナメは窓際の壁に背を預けて、中庭に居る間も見張っていたようだが、マリーエルの姿を認めると剣を置き、手招かれるまま寝台に歩み寄った。
「寝ようか」
童心に帰って勢いよく寝台に倒れ込むと、カルヴァスがクツクツと笑う。幼い頃はこうして三人で――と考えた瞬間、目頭が熱くなり、マリーエルは誤魔化すように枕に顔を押し付けた。
ふっと灯りを消す気配がして、カナメが寝台に横たわる感覚があった。
「こういう時は寝るに限るぜ。あー、姫様用の寝台は上等だなぁ。なぁ、カナメ?」
カルヴァスの声がして、髪をくしゃくしゃと弄ばれる。
「それは二人が兵だからとか見張りをするからって遠慮するからでしょう?」
抗議のつもりで顔を上げると、カルヴァスは目を閉じ、寝た振りをしていた。カナメに目を向けると、慌てて目を閉じ同じように寝た振りをする。
「もう……おやすみ!」
マリーエルは目を閉じると、寝具から伝わって来る二人の体温にほっと息を吐いた。その熱に思考を溶かすようにして、眠りに落ちた。