26話 鬼
森は深く、木々が重く空を覆っているせいで、陽の光はあまり届かない。
「あ、これって……」
マリーエルは、僅かに開いた木々の隙間から、振り落ちた小さな冷たい欠片に手を伸ばした。
「雪だ! 雪だよね?」
精霊国で雪は降らない。勿論精霊の力で結晶を生み出すことは出来るが、それを空から降らすことはない。
マリーエルがはしゃいでいると、カルヴァスだけは渋い顔をした。
「装備はあるが、オレ達は雪に慣れてない。本格的に降る前に先を急ぐぞ」
ムシカが用意した馬は、丈夫な太い脚を持つ毛深い馬だった。早くも地に積もり始めた雪を掻き分けるようにして進む。
「カナメの集落の辺りは雪って降るの?」
カナメの集落は、華発の国と霜夜の国の境にある。今向かっている世界樹の枝葉からは一度道を戻り、真反対の境を進むことになる。
「あぁ。深い雪が降る時期は洞穴に籠るから、俺もあまり雪が得意な訳ではないが」
「そっかぁ。じゃあインターリ達は?」
狼姿のままのベッロは、キュンと鼻を鳴らして背に乗るインターリに顔を向けた。
「僕達が一緒に居るようになってからは雪国で仕事をしてないね。面倒なだけだもん。身を隠すには良いかもしれないけど、人出が少ないしね。コイツは生き物として感覚が違うから雪に対する考えが違うよ」
インターリの言う通り、ベッロは嬉しそうに尻尾を振る。
「さっさと祓えを済ませるに越したことはねぇな」
カルヴァスが言った時、ベッロがピタリと足を止め、唸り声を上げた。インターリがベッロから飛び降り、剣を抜く。
ざわざわと場が沸き立ち騒ぐ中、なんとか馬を降りたマリーエルは、酷い耳鳴りに襲われた。視界を揺らし、足元をふらつかせていると、アメリアがそっと体を支え、寄り添った。
カルヴァスとカナメが剣を抜き、辺りを警戒する。
馬達が怯え、脚をバタバタとさせた。
ギギギと何かを強くこするような音が聞こえて来た。木々の間にゆらゆらと揺れる影が見え隠れする。その姿を捉えるよりも先に衝撃音が響いた。すぐ目の前の木の幹が粉々に爆散する。そこでやっとその音を生み出したものの姿を捉えることが出来た。
鋭く伸びた牙が、汚らしく鈍い光を返す。暗い瞳はマリーエル達を虚ろに見下ろしている。穢れが凝り固まったかのような肌は波打ち、触れればこちらの肌が裂けてしまいそうだ。胸の内から不快感がじくじくと広がっていく。
それはおもむろに腕を上げると、唸り声を上げていたベッロ目掛けて振り下ろした。素早く退いたベッロがその腕に牙を立てる。
「鬼か⁉」
「あぁ、そうだよ!」
インターリが答えながら剣を揮った。鋭い一閃が鬼の腕を斬り落とす。ギギギと呻き声のようなものを上げた鬼は、インターリを捕まえようと反対の腕を伸ばし、掴み損ねると、足元に食らいついていたベッロを蹴り上げた。その脚をカルヴァスの炎剣が薙ぎ払う。素早く脚を引いた鬼は、カルヴァスの肩を掴み引き寄せた。肩が裂け、血が滲む。
マリーエルは杖を頼りに精霊の力を集め、解き放った。鋭い風が鬼の体に纏わりつき、切り裂き吹く。鬼は仰け反りながらギィイと吠えた。
「お前は下がってろ!」
鬼の手を逃れ、再び踏み込んだカルヴァスが、鬼の胴体を斬り上げた。深く、重く斬り上げた傷口からはおびただしい泥のようなものが流れ出る。
ふと頭を巡らせた鬼は、残された腕を、立ちすくんでいたカナメに伸ばした。
「カナメ!」
カルヴァスの声に、ハッと我に返ったカナメが鋭く剣を薙いだ。鬼の首がぐらりと揺れ、地に落ちる。泥のようなものを垂れ流しながら、それきり鬼が動き出すことはなかった。
マリーエルは静かに横たわる鬼に向けて力を導き、その穢れを祓った。ふっと大気が軽くなり、耳鳴りが収まる。
「コイツだけ、か?」
カルヴァスが辺りを警戒しながら言った。
「……そうみたいだね」
インターリがベッロの様子を見ながら答えた。辺りを駆けていたベッロは、今は宥めるために馬達の周りをぐるぐると歩き回っている。
カルヴァスは、まだ呆然としているカナメの肩を掴み、顔を覗き込んだ。
「お前、どうした。穢れにあたったか」
カナメは、目を瞬いてからゆるく首を振った。
「いや、すまない。鬼の姿を目にした途端、頭の奥がぼんやりとしてしまって……。それよりもカルヴァス、君の傷の方が穢れを受けているだろう」
カルヴァスはじっとカナメを観察してから、マリーエルを振り返った。
「悪い、オレの傷見てくれねぇか」
「うん、見せて」
カルヴァスは手早く外套を脱ぎ、片腕だけ出して見せる。
「さみぃから早くな」
寒さに肩をすくめたカルヴァスは、これだけ厚い衣じゃなかったら腕が危なかったぜ、とふざけて笑って見せる。
マリーエルは傷口に手を当て、目を瞑った。すぐにいつも通りの彼の気の流れを感じることが出来た。ほぅ、と息を吐いてからアメリアに場所を譲る。
「穢れは受けてない……。でも、気を付けてね」
「あぁ、有難うな」
アメリアの手当てを受けて礼を言ってから、カルヴァスは手早く外套を着こんだ。
その様子を見つめながら何事かを考えていたインターリが、カルヴァスに地図を出すように言い、眉間に皺を寄せた。
「やっぱり変だ。この辺りで鬼が出るなんて聞いたことがないよ。まぁ、特別出来が悪い奴がはぐれてきただけかもしれないけど。世界樹の枝葉が穢されて、鬼も増えてるのかも。もしくは、霜夜の国の戦が影響してるのかもね」
「進路を変えるか……いや、この雪道でそれは悪手だな。どうする――おい、お前は休んでろ」
カルヴァスは話に加わろうとしたカナメを押しとどめた。
「あ、あぁ……。そうする」
よろよろと座り込み、項垂れたように見えるカナメに、マリーエルは歩み寄った。
「まだぼーっとする?」
カナメはゆるく首を振り、もどかしそうな視線でカルヴァスの背中を見つめた。
ベッロが駆け寄って来ると、その頬を舐め始める。少し身を引いたカナメが、思わずといった風に笑みを浮かべた。
「くすぐったい」
ベッロはくぅと鳴き、嬉々として舐めまわす。その内に、マリーエルとアメリアの頬も舐め始めた。
「ちょっと、僕らが話し合ってるってのに、何騒いでるんだよ」
インターリが声を上げると、ベッロは駆けて行き、のしかかるようにしてインターリの顔を舐め始めた。「止めろよ!」とインターリが呻く。
その様子に笑いあっていたマリーエルは、再び表情を曇らせたカナメの手に触れた。彼の気は少しの乱れがあるものの、繋いだ手からマリーエルの気に絡むようにして静かに巡っていく。
「手が冷たくなっている」
マリーエルの手を取り、カナメは優しく擦った。彼の手も随分と冷たくなっていたが、擦る内温かくなってくる。ムシカが用意した手覆は、精霊の力を扱うのに妨げとなるから、首から下げたままとなっていた。
「やっぱりこの寒さが堪えるのかなぁ。こういう時はお茶を淹れられたらいいんだけど、今は難しいね」
マリーエルがしょんぼりとして言うと、カナメが微かに笑った。
「俺の集落では、こういう時に飲む茶があるんだ」
「どんなお茶なの?」
「蜜や乳を使ったもので、凄く甘くて美味い。長が淹れたものが特に美味いんだ。集落に行ったら飲ませて貰おう」
「わぁ、楽しみ!」
その時、ベッロが戻って来ると、カルヴァスを振り向き示した。カルヴァスは馬を宥め、荷を確認しながら、マリーエル達を見やった。
「お前達、行けそうか?」
「うん、大丈夫」
マリーエルはアメリアとカナメの顔を交互に見てから答えた。「行こう」と二人に手を差し出して引っ張り上げる。
「よーし、あまーいお茶を楽しみにして、頑張ろう!」
マリーエルは雪に埋まった路の先を見つめてから、馬の背に乗った。




