24話 密かな恋
マリーエルは、ふっと鼻をくすぐった甘い香りに目を覚ました。
ぼんやりとしたまま天井を見つめていると、微かな音を耳が拾った。小さな囁き声と、笑い声。抑えたその声に誘われるようにして寝台を出ると、甘い香りは次第に濃く香る。
続きの間を覗くと、淡く光る後ろ姿が見えた。
「あれ、すみれの……?」
次の瞬間、マリーエルは続きの間に立ち入ったことを後悔した。
月光に照らされた部屋の中、佇むすみれの精霊の向こうに、ハッと顔を上げ、身を固くしたアメリアが立っていたからである。
「あ……えっと……」
上手く頭が回らず、言葉を探して声が漏れる。マリーエルが話し出すよりも先に、アメリアが思いつめた表情で口を開いた。
「マリー……話を聞いて欲しいの」
アメリアが茶を淹れる間、すみれの精霊は普段通りにマリーエルと言葉を交わした。深淵の女王に奪われた幼精のことを悼み、それでもまた咲かせようと微笑む。時折アメリアに向けられる愛おしそうな視線に、マリーエルは落ち着かない気持ちになった。
改めてマリーエルに向き合ったアメリアは、一度目を伏せ、茶から立ち上る湯気をぼんやりと目で追ってから、口を開いた。
「こんな所を見られてしまったから気付いたと思うけれど……私と彼は恋人同士なの」
最後は消え入りそうな声で言ったアメリアの顔が、恥じらいに染まっているのが、月明かりの中でも判る。
マリーエルは言葉を探して口をパクパクとさせながら、二人の顔を見比べた。
「い、いつから⁉」
マリーエルの脳裏にはグラウス城の中庭でのことが蘇る。アメリアに想いを寄せていた兄クッザール。そのアメリアには恋人が居て、その相手は精霊だった。驚くべきことは沢山あるけれど、何よりも今の今まで気が付かなかった自分に一番驚いていた。
「想いを伝え合ったのは少し前なの。でも、それよりも以前から――」
そこで言葉を止めたアメリアは、すみれの精霊を見上げ、彼は優しくそれを受け止めた。見ているマリーエルの鼓動まで跳ね上がる程、愛おしげに微笑みあっていた二人だったが、アメリアはふと表情を曇らせ、マリーエルに深々と頭を下げた。
「私達のことは誰にも言うつもりはなかったの。私達はこうして想いを伝え合えるだけで良かったから。でも、大陸を旅するうちそれも上手くいかなくて……。こうしてマリーを困らせることになってしまって、ごめんなさい」
大陸を旅する間、自由に過ごす時というものは殆どないに等しい。目的地に向けて進むか、体を休めるか。自分の使命についてばかり考えていたマリーエルは、アメリアの様子に関して違和感を抱いていても、それについてじっくり耳を傾けるということが出来ていなかったと気が付いた。
アメリアに言うつもりがないのであれば、少し訊ねるだけでは答えることはなかったかもしれない。
──ううん、言える訳がないのかも。
マリーエルは、僅かな後悔を抱きながら、必死に考えた。
精霊の力を強く受ける精霊国とはいえ、精霊と命世界の者が結ばれたという話は聞いたことがない。
それは、それぞれの成り立ちが異なるからだった。精霊は精霊王より生まれ、手足となり、世界に力を満たすもの。誰か個人に惹かれるなど有り得ない……筈だ。もし惹かれる何かがあれば、自身の司る力を授ければ済むだけのこと。アメリアは器として成り得ない。
しかし、そんな彼女を、すみれの精霊は恋人だと慈しむように見つめている。
マリーエルは、微かに震えるアメリアの手に手を重ねた。
「気が付かなくてごめんね。ずっと、悩んでたんだね」
相談してくれれば良かったのに、と言い掛けたマリーエルはその言葉を飲み込んだ。精霊姫にそんな相談を出来る筈がない。
前例のない想い。そして、精霊姫は精霊の力を導く者。どうして「精霊と恋をした」と伝えることが出来るだろう。
少しの寂しさを感じながら、マリーエルは触れた手をきゅっと握りしめた。
「寂しくて当たり前だよ。私だって皆に会えないって考えたら凄く寂しいから。それが自分にとって一番大切な人ならもっと悲しくて寂しいと思う。だから自分のことを責めないで」
「それで、どうするつもりじゃ?」
突然聞こえた声に、マリーエルはびくりと肩を揺らして、声のした方を振り返った。
「精霊王には何と申し開きするつもりじゃ?」
アールが卓に飛び乗ると、毛繕いをしながら、横目ですみれの精霊を見やった。
すみれの精霊は、長い睫毛をゆっくりと瞬かせてから口を開いた。
「勿論、私の使命に変わりない。王の命には背かない。これまでと同じくこの力を満たす」
アールは冷めた目で話の続きを促した。すみれの精霊は、しなやかな指でアメリアの頬を撫でると、愛おしそうに微笑み、続けた。
「精霊の私には恋や愛というものを本当に理解することは出来ないのかもしれない。だが、姫に対して抱く想いとは異なるのだ。いや、姫だけではない。何者に対しても想わない何か特別な想いが、アメリアの傍にいるだけで湧き起こる。このまま誰の目にも触れさせたくない……私の腕で囲い込んで、この瞳を見つめていたい」
そう語る姿は、月明かりに照らされて幻想的に輝いていた。彼の翅から透けた光が零れて、アメリアの恋情に染まる頬に優しく落ちる。
「かぁ~~……」
妙な声を上げ、カチカチと歯を鳴らしたアールの背を、マリーエルは窺うように指で突いた。
「……絶対に駄目って訳じゃないよね」
「知らん!」
ヂヂヂッと鳴くアールを宥めるようと、その毛並みを撫でると、アールは卓の上を這い回った。
「精霊が恋だなどと! 馬鹿げたことじゃ」
這い回るアールの爪がチャカチャカと音を立てる。
「そんなこと言わないでさ。精霊王に聞いてみるっていうのは――」
「何を言う、姫よ。恋をして、それでどうとなる? 目的を履き違えておる。何をもって恋などとのたまうか」
「二人が一緒に居たいと思えば、それでいいんじゃないの?」
マリーエルの言葉に、アールは不機嫌そうに尻尾で卓を叩いた。探るようにマリーエルを見上げ、ヂッと鳴く。
「勝手にせい! 儂は知らん! 今のこやつ等にはどんな声も届かんじゃろうからな。いいか、お主ら。困難は承知でそのようなことをのたまっているのだな? それならば勝手にせい。儂はどうともせん」
ぷりぷりと怒ったアールは、窓から外へ飛び出すと瞬く間に姿を消した。
シン、と部屋に沈黙が落ちる。
「……勝手にしろっていうのは、アールなりの応援……って思ってもいいのかな」
マリーエルが言うと、不安げに窓の外に目を向けていたアメリアが、曖昧に微笑んだ。
そっとすみれの精霊を見上げ、見つめ合う。その瞳が恋情に潤んだ。
想いは抑えられない。
──二人は、こんなにお互いのことを想っているのに……。
「私は応援してるからね。二人が幸せに居られるように、私も一緒に考えさせてね」
マリーエルの言葉に、アメリアは苦しそうに眉を寄せた。
「有難う、マリー……」
泣き出しそうになったアメリアを、マリーエルは強く抱き締めた。
甘い甘いすみれの香りが漂う中、アメリアの抑えた声が小さく聞こえている。その背中をすみれの精霊が優しく撫でるのを、マリーエルは温かい気持ちで見守っていた。




