23話 疑惑
ただ自身の顔を映し返す鏡を前に、アントニオは溜息を吐いた。
吐き出したい文句は山ほどあるが、そのようなことを言っている暇はない。
卓に置いた地図と、そこに書きこまれた内容に、眉間の皺を深くする。
「どうにも、妙な……」
マリーエルが旅立って以来、アントニオの中で刻々と知識が塗り替えられていく。大陸では鬼と考えられていた影は、同じようで別種のものだということ。穢れが澱みとなり、影となること。それらが広く知れ渡っている証だ。
精霊国とは異なる方法で、大陸の者達は影に対抗していく。大陸の影は、マリーエルが祓った世界樹の枝葉を中心にして減少している。しかし、一方で精霊国の影は増加傾向にあった。精霊山周辺での影の出現は確認されていないが、大陸での減少傾向と照らし合わせると不可解だった。
「あぁ、ここに居たか」
その時、クッザールが部屋に入って来ると、卓の上に包みを置いた。
現在、広間は対影用の本部として、ヨンムの自室は対影用研究室として利用されている。アントニオは主に研究室に詰めているが、呼び出しが掛かれば広間に留まることもある。
グラウス城では自室を除き呼び鈴は撤廃され、広間では特に頻繁に人の出入りがあり、慌ただしい。
「何をお調べですか?」
アントニオが訊くと、クッザールは思わずといった風に笑う。
「これを届けに来た。ヨンムもお前も没頭すると食事をしないから」
クッザールは包みを広げ、肉に揚げ物に果実にと、卓の上に出して見せる。本来であれば就寝する時であることを考慮すると、実に負担の大きそうな料理だが、ふと空腹を思い出したアントニオは、感謝を述べてから料理に手を伸ばした。
「私も少し頂くとしよう。流石に今回の影との戦闘は堪えた。影が増加している原因を突き止められればいいんだが、対処するのに手一杯でな」
クッザールは肉にかぶりつきながら、地図に目を落とし、考え込む。
「妙だと、思われませんか?」
かじっていた果物を置き、アントニオが訊いた。クッザールは視線で先を促す。
「クッザール隊が全土の情報を管理し、国王隊、カオル隊がその地の鎮静に向かっている。ヨンム隊は武具、武器の製作と、対影用の装置の研究を行い実戦に取り込んでいる。精霊山はご存知の通り祓えを終え静謐を保っている。それなのに、影は減ることなく増加する一方です。精霊国は精霊の力を最も強く受ける地。だからこそかと思ったのですが、それにしては――」
「人為的に感じる、か?」
クッザールが眉間に皺を寄せ、言った。
「ええ。影の出現をある程度予測出来る。それが不自然だと私は考えます。勿論、深淵の女王がそれを狙っている……いえ、それも考えにくいかと思います。そもそもかの女王の真の目的は未だ判りませんが、〝絶望に染める〟というのは、我々をただ疲弊させることを指す訳ではないと思います。そのような思考なら、正直な所、既に討ち倒せているかと思います」
アントニオの言葉に、クッザールは、ふぅんと唸った。
「確かに、影そのものは実に簡単に散らすことが出来る。精霊達も精霊王の指示のもと影を祓い……これは、マリーエルのようにはいかないのが実情だが、儀を執り行い、影を祓うことに成功している。だがしかし、確かに妙ではある、とは私も感じていた。何処か人為的で、稚拙だ」
部屋に沈黙が落ちた。二人は、ぼんやりと地図に目を落とし、暫くの間、ただ食べることに専念した。咀嚼音だけが部屋に聞こえる。
「もしかしたら――」
ふいに言いかけたクッザールは、頭を振った。
「――内部に、深淵の女王の協力者がいるかもしれない」
クッザールの言葉を継ぐようにアントニオが言った。
「深淵の女王は、精霊山にて精霊王に影を及ばせ姿を消しました。果たしてその理由は、と考えれば、あの時点で女王の力なり、存在なりが安定しておらず、あの場で更にことを起こすには不十分だった。と考えられます」
「そうだな。ただ暴れまわりたかっただけ、とは考えにくいだろう。ある程度の勝算をもって挑む筈だ。それ程精霊王、精霊姫の力が強大だったということだ。しかし、今、影はその勢力を広げている。それは、協力者がいるから……」
「その可能性も捨てきれません」
アントニオの言葉に、クッザールは深く考え込むようにした。難しい顔をして、息を吐く。
「今後は、その点も重視し任務にあたることにしよう。共に戦う者達を疑うことはしたくないが……」
「ええ。私ももう一度、影の動向を洗い直してみます」
その時、駆けこんできた足音を耳にし、クッザールは肩越しに振り向いた。ヨンムが一瞬立ち止まり、むすっとした顔で卓へ歩み寄る。
「クッザール兄さん、どうしたの、こんな夜更けに」
「食事を届けにきたついでに、今後の方針をな。お前もちゃんと食べろよ。心身が弱まると影に付け入る隙を与える」
クッザールが包みを寄越すと、ヨンムは暫く包みの中身を見下ろしてから果物を取り上げた。
「研究は進んでいるか?」
「まぁ、ね。今は精霊石を利用した対影用防御膜を構想してる所」
詳しい理論を聞いても理解しきれないことを知っているクッザールは、そうか、と相槌を打った。ヨンムが抱えていた紙束をアントニオに押し付けるようにするのを見やってから、クッザールは立ち上がった。
「私は休むとしよう。明朝フリドレードとの境に向かう。あちらも雲行きが怪しくなってきたからな。場合によっては暫く戻れないかもしれない」
「何とも厄介な。未だヴルーナ火山に籠りっぱなしで兵力の提供もありませんからね」
クッザールは渋い顔をしてから、ヨンムに向き直った。
「私は出発前にアンジュの所へ顔を出すことにする。お前も気にかけてやってくれ。今は母上やジャンナ達が面倒を見てくれているが、不安でたまらない筈だ。父上も気になされている。レティシアのこともだ。頼む」
ヨンムはじっと黙ってから、「まぁ、暇を見つけて」とだけ答え、颯爽と去って行くクッザールを見送った。