19話 雷の精霊
世界樹の枝葉は、頂上近くに張り出していた。その透ける枝葉は、周りの樹々に巻き取られ、静かに沈んでいくようだ。周辺の穢れは薄く、澱みも影も見当たらない。
マリーエルは世界樹の枝葉の前を行ったり来たりして、祓えに適した場所を探した。
「あの辺りが良いのではないか」
「うん、そうだね」
アールと話すマリーエルの後ろ姿を、インターリが疑わしい目つきで見つめている。
「じゃあ、祓えを――」
言いかけたマリーエルは全身を駆け抜けた感覚に顔を上げた。
辺りに雷鳴が轟き、稲光が走る。青空が広がっているというのに、激しく雷鳴は轟いた。
「何者かと思ったら、姫か。何用だ?」
稲光から、鋭い眼光の精霊が姿を現した。辺りを見回し、納得したように頷いて見せる。
「あぁ、祓えか。早く済ませ。我はこの辺りが気に入った。我の力を授けようと思ってな。祓えが行われれば円滑に進めよう。どれ、その杖は要らぬな」
マリーエルの反応を待たず、雷の精霊は杖を跳ね飛ばした。
「待てい! 主はそうせかせかと勝手に話を進めおって!」
ぷりぷりと怒るアールを一瞥した雷の精霊は、ふむと頷くと、視線を山裾へ向けた。
「そうだな。主の為にも一度この山を焼こう。命を巡らせ、より良いものに――」
「待てと言っておる! まずは此方に下りて話を聞かんか、たわけ!」
雷の精霊は不服そうな顔を浮かべながらもマリーエルの前に降り立った。動く度に、ビリビリと大気が鳴る。
「姫は祓えと器の成熟の為、世界樹の枝葉を巡っているのは知っておるだろう」
アールが語るに耳を傾け、雷の精霊は不機嫌そうに眉根を寄せた。
「だから、我の力を受けるかと申したのだ。この地には世界樹の枝葉がある。祓えを行うのであろう? 海上でもなかなかのものであったぞ。では早速――」
「待たんか! そのようなやり方で、姫を壊すつもりか?」
「我の力ごときで壊れるのならば、精霊王の力など到底受けられんだろう」
雷の精霊は厳かに手を掲げると、呆然と見上げるしか出来ないマリーエルへと力を注ぎこみ始めた。瞬間、全身を駆け巡る鋭い力に息が詰まる。
慌てたアールが、肩口から覗き込んだ。
「こうなったら致し方ない。実に乱暴なやり方じゃが、こやつの力を導くのじゃ。姫よ、今の主なら成せる筈じゃ」
マリーエルは呻き声で答え、奥歯を噛み締めた。
無理やり口に物を詰め込まれるような息苦しさに涙が滲む。じりじりと体の内がひりついて痺れる。
マリーエルは胸を押さえながらふらつく脚で踏ん張り、力に集中した。視界の端で、影が沸いて出たのが判る。それは襲い掛かる為に出現したというより、雷によって炙り出されたものだった。
意識から遠ざかっていく音に、皆の声が反響する。マリーエルを守る為、皆が影に抗戦している。
雷の精霊の力を身の内で巡らせ、導く。
世界樹の枝葉の穢れは祓われ、この地の気が高まる。だんだんと体を駆け巡る痺れが心地の良いものになっていく。手を伸ばしただけであらゆるものに届く。鋭く駆け、痺れ、焼く。あぁ、気持ちがいい――
「そこまでじゃ! 雷の!」
その声に、止まっていた呼吸が蘇る。マリーエルは息苦しさに激しく咳き込んだ。
「だから! 姫を壊すつもりかと言ったんじゃ!」
「器としては申し分ない。姫は壊れぬぞ」
「そうではなくて――」
「雨が降る。奴は我が力を揮うと飛んでくる。姫を濡らしたくなければ早く去ることだ」
マリーエルはカルヴァスに抱え上げられながら、満足そうな笑顔を浮かべる雷の精霊を見上げた。雨雲が湧き起こり、それを目にした雷の精霊が「はよう」と急かす。
残していた野営場に天幕を張ると、すぐに激しい雨が降り始めた。落雷によって燃え始めていた樹々はすっかり濡れそぼり、静かに朽ちている。
カルヴァスの背から降りたマリーエルは、ぼんやりとした意識の端で、ベッロを呼び寄せた。
「お姫様、アンタ酷い顔色だよ。こんな小さな傷の手当なんて僕がするから寝てなよ」
インターリが言うのに首を振り、ベッロの脚の傷に手を当てる。傷は浅く、今はまだ澱みはないが、嫌な気配が纏わりつき始めている。それを捉え、引きずり出す。澱みとも言えない嫌な気配が、マリーエルの手の上で霧散した。
「ほら、もう限界だろ。寝ろ」
カルヴァスの声に、マリーエルは大人しく横になった。
ぼんやりとする視界の中で、ベッロの姿形が徐々に組み変わり狼の姿になった。非常にゆっくりとそのことに驚いていると、ベッロはマリーエルを抱き込むように横に寝そべった。頬を優しく舐め、くすぐる。
「あったかい……」
掠れた声で呟いてから、マリーエルは温もりに包まれ眠りについた。
「獣族ってのは姿を変えるもんなんだよ。アンタも知ってるでしょ」
「あぁ、こうして獣の姿で居る方が、目立たないからな。初めて見た時は驚いたが」
「ベッロも普段は狼の姿、こいつに言わせると〈走る姿〉で居させてるよ。勿論、ベッロの正体に勘付いた奴は皆殺してる」
「……そういう言い方はマリーの前ではやめろ」
「はいはい。で、あそこに精霊がいたって? 僕には見えなかったけど。このちっこいのが喚いてたくらい」
「ちっこいとはなんじゃ! 儂は剛勇なる森の――」
「あー、煩いなぁ。ちっこいネズミのくせに」
「ネズミではない! 栗鼠じゃ!」
「同じようなもんでしょ」
泥のような眠りの後、マリーエルは話し声に目を覚ました。
すぐ近くに座っていたアメリアが顔を覗き込み、起きようとするマリーエルの体を支え、顔色を確認する。
「気分はどう?」
「うん、大丈夫。まだ少し体が重いけど」
マリーエルは差し出された茶を飲むと、一息ついた。寄り添っていたベッロを見やると、まだ深く眠っているようだ。
マリーエルは、焚火の端で火に当たっているカナメに目を向けた。
「カナメは此処では何か視えた? 私は雷の精霊の力を受けるのに精一杯でそれどころじゃなかったんだけど……」
カナメは火の中に答えを求めるように黙りこくってから、ゆるく首を横に振った。
「視た気はするんだが、覚えていない。正直な所、あの時は俺も影に対するのに精一杯だったから」
「そっかぁ。何か判るかと思ったんだけど」
「何かって、アンタらには精霊以外にも何か見えてる訳?」
インターリが胡散臭そうに目を細め、マリーエルとカナメを見比べた。
「うーんと、多分世界樹の意思?」
世界樹の、と繰り返したインターリは鼻で笑った。
「駄目だ。もう僕には判んないや。考えるだけ無駄だね。精霊人ってよく分かんない。あぁ、アンタは違うんだっけ? その体の紋様からしてそうか」
インターリはふとカナメの横に目を移し、木の幹に立てかけられた剣を指さした。
「その剣二本ともアンタのでしょ? 二本って使いづらくない?」
「お前は本当によく喋るな」
呆れたように言うカルヴァスに、インターリはハッと息を吐くように笑った。
「アンタらのことを知ろうとしてるんじゃん。本当について行って良い相手なのか、さ」
「そうかよ」
不服そうなカルヴァスは、組んだ脚の上に頬杖をついて視線を逸らした。
「で、さっきは一本しか使ってなかったみたいだけど?」
話を続けるインターリに、カナメは細剣を鞘から抜き、掲げ見せた。
「え、なにこれ。もう使えないじゃん」
「いや、そうじゃない。まだ微かだが、声……のようなものは聞こえている」
「声のようなもの?」
それきり考え込むように黙りこくり要領を得ないカナメをつまらなそうに見ていたインターリは、木の実を食べ始めていたマリーエルに話の矛先を向け、あれこれと話し出した。




