17話 刺客
炉の国は、港町を出てしまえば、旅人向けの宿が点在するだけの路が華発の国まで続く。
宿ではどこも影の話でもちきりで、流れの剣士のいい稼ぎ口となっているようだった。しかし、炉の国の港町周辺ではめっきり影の出現が減り、華発の国へと引き返すという。
宿などで得た情報を書き加えた地図を見つめ、カルヴァスは難しい顔をした。
「やっぱりこの先から山を登っていくしかねぇな。馬はここで預けていく」
「え、連れて行けないの⁉」
「オレ達ですら通れるか確かじゃない場所だぜ。馬には無理だ。怪我でもさせたらお前だって嫌だろ」
カルヴァスはそう言うと、宿の店主に話をつけに行った。大陸に渡ってからというもの、カナメに相談をしつつ器用に通貨の価値を覚えていった彼は交渉までこなすようになっていた。その腕は既にカナメを越えていた。
マリーエルは卓の上に残された地図に目を落とした。
アントニオによって緻密に描かれた地図は、都市や主要な道を網羅している。そこに、炉の国に二か所、華発の国の先にある霜夜の国に二か所印が付けられている。しかし、そこに至る路が不明瞭な箇所があった。初代グランディウスの時代には認識されていた路も、長い時を経て忘れ去られ、訪れる者もなくなった今、それは失われてしまった。実際に聞き込みをして、辛うじて路といえるものを繋ぎ合わせ、進むしか手段はない。
マリーエルは宿の厩に繋がれ、草を食む馬に目を移し、息を吐いた。
大陸では霊鹿ではなく馬が主な移動手段だ。世界の分布で見ると、霊鹿は精霊石が多く露出する精霊国を除いて殆ど確認されていない。霊鹿の方が特殊な例なのだった。
しかし、実物の馬を初めて見たマリーエルは、実に触り心地良く、愛らしい顔の馬という生き物をえらく気に入っていた。
「寂しくなるわね……」
ぽつりと呟かれたアメリアの言葉に、マリーエルは目一杯の共感をもって頷いた。
滅多に足を踏み入れる者などない、という宿の主人の言う通り、路は険しく厳しいものだった。山崩れに行き当たって路を戻り、辛うじて進めそうな場所を、少しの手掛かりを頼りにへばりつくようにして進む。
時折、僅かに路の跡があったが、全ては草木に覆い隠されていた。
「いったぁ!」
ぬかるんだ土に足を取られ、派手に転んだマリーエルは声を上げた。何度も後ろから支えていたアメリアも険しい路に足を取られ間に合わなかった。疲労が濃く出始めている。
「そろそろ休むか」
マリーエルを助け起こしながら空を見上げたカルヴァスが言った。
近くの梢がガサガサと音を立て、アールが顔を覗かせた。マリーエルに飛び移ろうとして顔を顰め、カルヴァスの肩に着地する。
「何故、そのように泥だらけなんじゃ、姫よ」
「転んだんだよ。それで、見つかったのか?」
カルヴァスが訊くと、アールはむんっと胸を張る。
「この儂が世界樹の枝葉へ至る道を見つけてやったぞ! まだちと登るが明朝には着けよう」
「いや、今日はもう休む」
アールは耳をピンと立て、マリーエルの様子を見てから小さく頷いた。
「ならばこの先暫し登った先に水場があったのう。そこで休めば良いじゃろう」
アールの言葉通り、清らかな水が流れ込む水場があった。そのすぐ横にへたり込んだマリーエルは長い息を吐いた。
「お前達は先に水浴したいだろ。オレ達は野営の支度をするから行って来いよ」
カルヴァスはアールが木の上に上ったのを確認してから、カナメを伴って茂みの向こうに姿を消した。何やら言葉を交わしつつ野営を組んでいるのが聞こえてくる。
マリーエルは外套や中着を脱ぐと、泉に入った。下着が体に張り付いて、水の流れを感じる。手早くマリーエルの衣を洗ったアメリアが、自身も中着を脱いで泉に入り、マリーエルの髪を洗い始める。
それに身を任せながら、マリーエルは体を伸ばした。
「たっくさん歩いたねぇ。こんなに歩いたり、こんなに厳しい路を行くなんて初めて」
そうねぇ、とアメリアが相槌を打つ。
「そう言えば炉の国の温泉って気持ち良かったけど、こんなに匂いが残るんだね。フリドレードの温泉にそんな記憶ないから、驚いちゃった」
マリーエルの言葉にアメリアが小さく笑う。マリーエルの髪に丁寧に櫛を通していく。
「私も色々なことに驚いているわ。何処も同じだろうと思っていたけれど、精霊国とは違うものなのね。グラウスを発つまでは全然考えられていなかったわ」
アメリアがふぅ、と息を吐き、誤魔化すように笑う。
マリーエルは振り返り、アメリアの手から櫛を取ると、後ろを向くように手振りする。明け方の陽の色の髪を洗い、櫛を通す。
「あのね、何か悩んでるなら聞くからね?」
マリーエルが言うと、アメリアは肩越しに振り返り、笑みを作った。
「悩んでなんて――」
そこで言葉を止めたアメリアが、はっとして茂みに目を向ける。茂みが不自然に揺れた余韻を残している……気がした。アールの姿を探したが、何処に隠れたのか見つからなかった。
アメリアはマリーエルを泉から引き揚げると、素早く中着を纏わせた。
「カルヴァス!」
マリーエルの声に、すぐにカルヴァスが茂みの向こうから駆けて来た。
「どうした」
「なんかそこの茂みに……」
マリーエルの指さす方へ、剣を構えたカルヴァスが歩み寄る。
その時、「のわぁ」という声と共に茂みから毛玉が飛び出して来た。
「アール⁉」
アールはべちゃりと地に落ち、身を震わせる。それに意識をむけていたマリーエルの頭上で金属のぶつかる高い音が響いた。
「お前らは下がって――いや、そこの端に居ろ!」
カルヴァスは元来た茂みの向こうに耳を澄まし、受け止めた剣を弾き返した。茂みの向こうからは、カナメが何者かと争う音が聞こえてくる。
月色の髪をした男が、身軽に後ろへ飛び退き、目を細めた。しかし、次の瞬間には剣を振り上げ、カルヴァスへと飛び掛かった。素早い動きで、細かな剣戟を繰り返し、カルヴァスを圧倒していく。
剣を弾き返し、僅かな隙で踏み込んだカルヴァスは炎剣で男を薙ぎ払った。月色の男は驚いたように目を見開いて後退すると、ニヤリと口端を上げた。
「お前か、炉の国からオレ達をつけてたのは?」
ニヤニヤと笑う月色の男は呼吸の合間に、カルヴァスからふっと視線を外し、マリーエルに狙いを定めた。地を蹴り飛び出した先に、カルヴァスは先回りする。
「させねぇよ」
炎剣を揮い、男が躱したその先にもう一閃を叩きつける。
男は肩口に燃え移った火を消す為に地を転がり、突然自由の利かなくなった体に、驚愕の表情を浮かべた。
マリーエルが呼び掛けた木の精霊の力により、生え出た蔓木が男の体を捕らえていた。蔓木の中で暴れまわる男の顔の上に、アールが襲い掛かる。
「よくも儂を握りつぶそうとしてくれおったな!」
ヂヂヂッという声を上げ、アールは男の頬に前歯を立てた。男はくぐもった声を上げ、乱暴に蔓木の間から手を潜り込ませると、アールの体を掴み、引きはがした。
「火の小僧! とっとと斬らんか!」
「判ってるって」
カルヴァスが剣を振り上げた瞬間、茂みの向こうから慟哭が響いた。
月色の男は強引に体を捻り、歯で蔓木を食い破って抜け出すと、カルヴァスに目もくれず茂みの向こうへ駆け出した。すれ違いざま、カルヴァスの炎剣は易々と男の肩口を抉り取る。切り離された腕は、随分と軽い音を立てて地に落ちた。
「な……あ?」
呆然と呻いたカルヴァスは、すぐに男を追った。
しかし、男は茂みを越えてすぐの場所で、頭を抱えていた。