16話 火山洞窟
次の朝、マリーエルはまだポカポカとした感覚の中で目を覚ました。
温かい湯に浸かったというのに、炉の国の熱さがどこか心地よく感じる気がする。体の芯に溜まった疲労がすっかりなくなり、体が軽い。
ぐっと体を伸ばしていると、アメリアが続きの間から顔を覗かせた。
「起きたのね。朝餉の支度が出来てるわよ」
「うん、お腹空いたぁ」
マリーエルは朝餉を食べながら、鍛錬を終えて体を拭っているカルヴァスを見やり、それから隣に座るカナメに目を移した。
「そう言えば、カナメが鍛錬してる所って見たことないね。強いのに」
マリーエルのふとした疑問に目を瞬いたカナメは、顎に手を当て考え込むと、カルヴァスに目を向けた。
「俺の剣は単純に筋肉が要る訳じゃないからな」
「おい、それじゃあオレが馬鹿みたいに筋肉を鍛えてるだけみたいじゃないかよ」
「そんなことは言ってないだろ」
カナメは、機嫌を損ねたカルヴァスに怪訝そうな顔を向ける。
手巾を置いて、卓に歩いて来たカルヴァスが、片眉を上げ、カナメを見下ろした。
「剣を揮うのに必要ないとしても、体は鍛えたいって思わねーもん? オレはグランディウス王やカオル隊長みたいな屈強な体に憧れるけどな。と言っても、やっぱりオレの適性はクッザール隊だし、オレはクッザール隊長を尊敬してるよ。隊長も細身に見えるけど脱いだら凄いんだぜ。つまり、扱う武器によって筋肉が要らないとかそういうことはない」
「もう、何それ」
マリーエルが思わず笑うと、カルヴァスは腕に力を込め、筋肉を見せつけるようにする。熱く語るカルヴァスを無視して、カナメはマリーエルに言った。
「君も精霊の力を導くのに筋肉は必要ないだろう? そういうことだと思う」
「なる、ほど……?」
不服そうなカルヴァスは、ちらとカナメの剣に目を向けた。
「お前の剣ってここらじゃ見ないよな。お前の部族に伝わるものなのか?」
剣に目を落としたカナメは、柄をなぞるように触れてから首を横に振った。
「これは長から授かったものだが、そのようなものじゃない。その昔、流れの職人に造らせたものとは聞いているが……。特殊な鉱石で造られているらしい。使い手の気と精神に大きく影響を受けるらしいが、今の所手によく馴染んだ剣という印象しかないな」
「ふぅん。そう言えば子供の頃に聞いたことあるな。主人を選ぶ剣というものがあるって」
カルヴァスは興味深げにカナメの剣を観察している。カナメはふと思いついたように、剣の柄をカルヴァスの手に押し付けた。怪訝そうなカルヴァスを見つめ、首を傾げる。
「何も起こらないな」
「おい、オレで試すなよ。何か起こったらどうするんだよ」
「もし何か起きたとしても、君なら大丈夫だろうと思ってな」
カルヴァスは苛立たしげに小さく唸った。はぁ、と長く息を吐く。
「まぁ、いいや。折角だし、色々見させて貰うぜ」
どこかウキウキした様子で、カルヴァスは細身の剣を矯めつ眇めつ振ってみせた。暫く弄ってからうーんと首を傾げる。
「手ごたえは訓練で使うものと同じだな。使えるっちゃ使えるけど、正直これでああも戦える気がしないぜ」
「何かを剣から感じないか?」
「何かって何だよ? 気の流れみたいなもんか?」
「いや……こう強い力というか、言の葉のような……頭の中で響くような」
「全然何にも感じねーな。というか、お前説明下手くそか」
マリーエルは思わず飲んでいたお茶を吹き出しかけた。変に飲み込んでしまって激しく咳き込んだのを、アメリアが背中をさすって宥める。
「ご、ごめん、二人のやり取りが面白くて……」
「面白いってなぁ」
カルヴァスが意地悪そうに笑うと、髪をクシャクシャに撫で回そうとする。それから逃れつつ、カナメに目を向けると、彼は口をむっと曲げながらも瞳の奥では笑っていた……気がした。
「姫さん等、大丈夫かい?」
火山洞窟への道は、よく手入れがされていたし、影憑きの襲撃も予想より少なかったが、何よりもマリーエル達を困らせたのは暑さだった。精霊国にも開花収穫期に暑くなる時があるが、それが比にならない程暑く、それは最早烈々たる熱さだった。
カルヴァスだけは足取り軽く、火の精霊の力を受けた地に居るからかと思われたが、よく考えれば海上でもすこぶる元気だったのだから、単純に体力の違いでしかなかった。マリーエルの肩口で伸びるアールがつまらなそうに鼻を鳴らす。もこもこの体では、より暑さは堪える。
棟梁を始め、付き従う炉の民は汗ひとつ掻いていない。
その様子を見つめてから、マリーエルは水筒の水を飲み、立ち上がった。
「もう大丈夫です。行きましょう」
洞窟内は風が弱まり、じわじわと蒸すような暑さに変わった。汗なのか、湿気なのか判らないまま、額を拭い進む。
枝分かれした洞窟を、光を灯した精霊石を手に、慣れた足取りで進む棟梁に続く。
進むにつれて気が澱み、影の気配が濃くなってくる。
無意識にマリーエルが杖を握りしめると、アールがぺちりと頬を叩く。暑さのせいで口数が減っているが、そう気張るなということらしい。マリーエルは小さく頷いて応えた。
ゾクリ、と寒気を覚えたのはその瞬間だった。
「来る……!」
その言葉とほぼ同時に、暗がりが意思を持ったように蠢くと、影が溢れ出した。そう広くはない洞窟の中で影が縦横無尽に暴れまわる。マリーエルは風の精霊に呼び掛け、その力を導いた。強い風が吹き抜け影を吹き飛ばす。散った影をカナメの細剣が貫いた。
影は散ったそばから次々に溢れ出る。棟梁が短剣を揮い、溢れ出る影を斬りつけていくが、勢いを削ぐことは出来なかった。
「キリがねぇ。それ程までに世界樹に澱みが溜まってるってことか?」
カルヴァスは奥歯を噛みながら、周囲に目を走らせた。全員の位置と、影の数を確認し、突破口を探す。
「カナメ!」
マリーエルの切迫した声にカルヴァスが振り向くと、後方にいた筈のカナメの姿が、影に包み込まれ見えなくなった。周囲の影が集まり岩壁にじわりと滲むと、カナメを抱えたまま岩壁の向こうに消えた。ガラン、と音を立てたカナメの細剣だけが残される。
「は……? アイツ影の影響を受けないんじゃねぇのか⁉」
「カルヴァス、どうしよう、カナメが……!」
「落ち着け! 棟梁、あっちに続く道は⁉」
棟梁がカナメの消えた方角に目を向け、洞窟の先を示す。
「この先だ! あのまま進んだのなら世界樹の枝葉がある空間だろう。急ごう」
棟梁がぱっと駆け出した。
「くそっ、何がどうなってるんだ。影はマリーを狙ってるんじゃないのか?」
まるでその言葉を聞いていたとでも言うように、新たに出現した影が襲い掛かる。
「狙って良いとは言ってねぇよ」
影を斬り裂いたカルヴァスは、その足で、地に転がる細剣を拾い上げた。細剣に目を落としたマリーエルは、驚きの声を上げた。
「剣が……⁉」
冷たく光を返していた細剣は、鈍り、今にも崩れ落ちそうに震えている。
「何なんだ……。おい、アール。祓えに関してはお前に任せるぞ」
カルヴァスはアールの返事を待つことなく、マリーエルとアメリアに目配せすると走り出した。それを追い掛けるマリーエルの肩口で、アールがむぅ、と呻いた。
洞窟の先から淡い光が差し、すぐに開けた空間に出た。露出した世界樹の枝葉に影が絡みつき、その下に、影に包まれたカナメの姿がある。
カナメは影の中で必死に地に爪を立て、引きずられまいとしている。カナメを包んだ影は、徐々に世界樹の枝葉まで後退していく。
「こっちの影は私等に任せて、姫さん達は兄さんの方を!」
棟梁が声を上げた。次々に溢れる影を斬り伏せ、叩き潰していく。
「お願いします!」
駆け出そうとしたカルヴァスは、ぼんやりと佇むマリーエルに眉根を寄せた。
「マリー、どうした。しっかりしろ」
「違う」
「違う?」
マリーエルはカナメを包むものを見つめた。あれは影じゃない。澱みだ。
「火の小僧。あやつを包む澱みと世界樹の枝葉の繋がりを断つのじゃ。あとは姫が成す」
言い返そうとしたカルヴァスは、口を引き結ぶと、地を蹴った。
襲い掛かる影を斬り上げ、燃やし、斬り進む。既に世界樹の枝葉に一部を滲ませ始めていた澱みを、カルヴァスの炎剣が断ち斬った。
「よく分かんねぇけど……これで良いか⁉」
おもむろに剣を置き、澱みごとカナメを掴み上げたカルヴァスは、マリーエルに向けてその体を投げ上げた。
すぐに剣を取り、襲い掛かる影を迎え討ったカルヴァスは、再びマリーエルへの許へと斬り戻った。
マリーエルは澱みの中で体を丸めているカナメを見下ろした。
「判るな、姫よ」
「うん」
地に跪いたマリーエルは、杖を構えると精霊の力を導いた。
マリーエルは引き込まれるような感覚に襲われた。世界樹の枝葉の気配は濃く強い。それに自身の気を混ぜ合わせ、溶け込ませ、澱みを包み、祓う。それに応えるように世界樹の枝葉が震え始める。強い風が吹き上げ、澱みの気配が薄れていく。
澱みから這い出たカナメが、激しく咳き込んだ。海灰色の瞳がマリーエルを見上げる。
「マリー……」
――ふと、意識が遠くなる。
瞬きの内に現れた暗がりの中に、うずくまるものが見えた。それは頭をもたげ、ゆっくりと這うと、求めるように手を伸ばす。それは、光に触れた――。
「マリー!」
肩を強く揺さぶられ、マリーエルは意識を取り戻した。
アメリアがマリーエルの髪をかき分け、心配そうに瞳を覗き込む。
「急に二人して黙り込むから驚いたわよ。どうしたの?」
「……二人?」
マリーエルはアメリアの肩越しに、カナメを抱き起すカルヴァスの姿を捉えた。カナメが意識を取り戻し、目を瞬かせる。
「お前ら何があった?」
カルヴァスの問いに、マリーエルはカナメを見つめ、そこに答えを探すように考え込み、口を開いた。
「判らない……。急に暗がりが、見えて……」
「暗がり?」
「うん……。その中に影が、ううん、澱み……だったと思う。それが光に触れていて……そこまで」
アメリアの肩口からアールがむぅ、と声を上げる。
「恐らく、世界樹が視せたんじゃろう。そこの小僧のせいか……。小僧。お主は何か視んかったか?」
アールが訊くと、カナメは額を手のひらで押しながら、答えた。
「俺は、マリー、君が見えた」
「えっ、私?」
カナメは考え込むようにしてから続けた。
「あれは……君が、立っていて。こちらに手を、伸ばしていた。あの場所は……どこだろう。とにかく俺が見たのは君だ」
二人ともまだ混乱が残っていて、上手く言葉に出来ない。
「これがカナメの世界樹の声を聴く力、なのか?」
カルヴァスの問いにカナメは眉根を寄せる。
「判らない。長は道具を用いて世界樹の声を聴いていたが、声を聴く方法は様々なんだ。全ては世界樹の意思次第だと……」
難しい顔を突き合わせていると、棟梁が歩み寄ってきて皆の顔を見回した。
「姫さん、祓えは終わったってことで良いんだよな? それならひとまずここを出んかね。私等は平気だが、姫さんらの体には堪える筈だぜ」
棟梁の言葉に、マリーエルは体を蝕む熱さを思い出した。
世界樹の枝葉は輝きを取り戻し、静謐な空気を湛えている。澱みは消え、影は欠片も居ない。
「はい、祓えは済みました。出ましょう」
マリーエル達は、出来うる限り急いで火山洞窟を後にした。
翌朝、マリーエル達は、棟梁の用意した馬にまたがった。
「すまねぇな。直せないうえに、何も判らなくて」
棟梁が悔しそうにカナメを見上げた。
火山洞窟から戻った後、カナメは細剣の修繕を頼んだのだが、誰にもそれは成せなかった。打ち方も素材も判らず、炉の民を酷く悩ませた。
「いえ。こちらこそ、このように見事な剣を頂いてしまって、申し訳ない」
カナメが腰に差した剣の柄を擦りながら言った。
「兄さんもこの先武器を持っていないと困るだろう? こっちとしても武器職人として何も出来ねぇってのは悔しいからな。気にせず使ってくれや。そんで、またここに戻って来たら使い心地なんてのを聞かせてくりゃあいい」
カナメが頭を下げると、棟梁はニッと笑みを浮かべた。
「よし、そろそろ出発するぞ」
カナメの新たな剣を、羨ましそうに見やっていたカルヴァスが、道の先に目を向け、言った。