14話 船出
力を使った疲れから深く眠っていたマリーエルは、肩を揺すられて目を覚ました。暗い視界の中で、アメリアが覗き込む。その瞳に少しの焦りが見えた。
「出立の支度をしましょう」
マリーエルは素早く身支度を整えると、入り口で控えていたカナメも連れて部屋を出た。船着き場に続く広間で、セルジオと話し込むカルヴァスと合流する。
「あぁ、来たね」
セルジオはマリーエルの背に手を回し、急かすようにしながら足を速めた。すれ違う兵に指示を出しながら廊を進む。
「すまないね。急に潮が変わったんだ。これを逃すと次はいつ向こうの海流へ出られるか判らない。──全く、また読み直しだよ」
エラン城の船着き場に着くと、既に船員達が出航の為に駆け回っていた。その中で指示を飛ばしていた男が、セルジオの姿に気が付き足早に歩み寄ってくると、頭を下げた。
「お待ちしておりました。大陸までの船旅はお任せ下さい」
「エルベル船長。尊き精霊姫様の船出だ。頼むよ」
セルジオは懐から枝細工を取り出すと、恭しく掲げ、エルベルに手渡した。顔を上げ、皆を見渡す。
「これは古くから船乗り達の間で行われる習慣なんだ。この世界は女神の体から創られた。その女神に航海の無事を願う、いわば願掛けだね。この国では殆ど形骸化してしまったが、船乗りにとって大切な習慣だ。――君達の船旅が順風であるように」
セルジオの笑顔に、マリーエルは頭を垂れた。
「有難うございます。必ず使命を果たして戻ります。セルジオ殿、どうかご無事で」
「あぁ、信じているよ。マリーエル」
マリーエル達は、副船長や船員達と手短に挨拶を交わしながら船に乗り込んだ。甲板から船着き場を振り返ると、セルジオは駆けつけたエラン兵の報告を受けている所だった。振り返り、ついと手を上げ頷くと、セルジオは急ぎ足で城への道を引き返して行った。
船は波に乗り、少しずつ精霊国を離れていく。
アメリアに腕を引かれ、マリーエルは屋形に移った。
上下左右に揺れる感覚に体の内側がふわふわとする。そればかりに気を取られると気分が悪くなってくる気がして、マリーエルは窓幕の端から外を覗き見た。空は陰り、海は夜に沈んでいる。遥か後ろに大きな島の輪郭と、エランの町に点る灯りだけが見えた。
「姫様、改めてご挨拶に来ました」
その明るい声に、マリーエルは振り返った。
乗船の際に挨拶を交わした副船長のカッテが笑顔で立っていた。すっかり焼けた肌と逞しい腕をした彼女は、海色の瞳をギラギラと輝かせている。
「はい、これ窓辺に飾って下さい。――あぁ、違う。こちらを窓辺にお掛け下さい」
恭しく掲げたカッテに言われるまま、受け取った枝細工を窓辺に吊るすと、マリーエルはカッテに問うような視線を向けた。
カッテは満足そうに笑みを浮かべひとつ頷くと、言った。
「それでいいです。これは出航してから船長が祈りを捧げたのを、こうして飾ることになってんだ。船長になりたくば、こうした習慣の意味を知り、真摯にこなすことってジジ……船長がうるさいもんでさぁ。――違うね。うちの船長がうるさいんですよ。姫様、今の言葉遣いのことは誰にも言わないで下さい。何しろ高貴な方をお乗せしたことがないんで、どうするべきか判らないんです。セルジオ様はだいぶ砕けた方なん、なので」
言い終えたカッテは、収まりが悪そうにしながら、様子を窺うように笑みを浮かべた。最初こそ呆気に取られていたマリーエルだったが、すぐに笑みを返した。
「気にしないで。この度はお世話になります」
マリーエルが頭を垂れると、カッテは慌ててぎこちなくそれを真似てから、少しだけホッとしたように笑った。
「じゃあ、多少の無礼は多めに見てくださいね、姫様。さ、今は休んだ方が良いですよ。もうじき陽は出るけど、海では船員でないとやることが殆どないですからね。この狭い部屋じゃ居心地悪いだろうけど、無事に大陸まで送り届けますから」
陽が出て周囲が見えるようになると、船旅はマリーエルの好奇心をくすぐるものばかりだった。マリーエルが、船員たちは何処で寝るの? どうやって船を動かしているの、と訊くとカッテは面白そうに笑ってから船内の案内をした。
「セルジオ様に聞いた通り面白いお姫様だね。私達の宝物に興味を持って貰えて嬉しいよ。ほら、船員はこの下の積み荷の間で順繰りに寝るんだ。端にあるのが漕ぎ場。今は波に乗ったから風や水の精霊の力で進んでいるけど、出航の時とかは自分たちで櫂を使って漕ぐのさ」
マリーエルが自身の手を不安げに見下ろすと、カッテは可笑しそうに笑った。
「まさか、姫様に漕げなんて言わないから安心しな! 船を漕ぐってのは重労働なんだよ。姫様の細っこい腕じゃあ何回か櫂を動かしただけで駄目になっちまうよ。その手は姫様の役目の為にあるんでしょう?」
「私の、役目……」
マリーエルは再び自身の手に目を落とすと、自然と固く握りしめていた。
その時、突然、船尾で歓声が上がり、カッテはニッと口角を上げた。
「やってるねぇ。こう言っちゃあれですけど、アイツの剣技は勉強にもなるし、娯楽にもなってますよ。あのクッザール隊副隊長ですもんねぇ」
カルヴァスが夜明けに剣の鍛錬を始めると、船員達が集まってきて、いつしか合同鍛錬のような状態になっていた。カルヴァスもエランの船員のやり方を学び、楽しそうにやり取りをしている。
「で、あっちのは大丈夫ですか?」
カッテが呆れを滲ませた声で言った。
「うん、アメリアについてて貰ってるし、今は眠ってるみたいだから」
今朝目を覚ますと、元から少ないカナメの口数がより少なくなっていた。それをからかったカルヴァスが軽く背を叩いた時、惨事は起こった。慌てて船縁に駆けて行ったカナメは、胃袋の中身を全て出し切り、それ以来、ぐったりとして屋形に籠っている。抱えた膝に頭を預け、くぐもった声で「精霊国へ向かう船では隅でじっと耐えていた」と項垂れる姿は、あまりにも気の毒だった。
「仕様のない小僧じゃ」
マリーエルの肩口で弱々しい声が言った。
カナメが体調を崩すのと時を同じくして、姿を保つことが困難になったアールが、自身の司る栗鼠の姿を借りてぐったりとしていた。海の上では、アールは精霊の姿を保てず、力を使うことが出来ない。しかし、借りの姿でも保てるのは、アールの力がそれほどに老練であるという証だった。
マリーエルはよりモコモコになった愛らしい姿を気に入っていたので、指先でアールの頭を小さく撫でた。アールは満更でもないというように目を細めている。
「儂は、役に立っておろう」
「うん、とっても」
そのやり取りを見ていたカッテは、納得がいかないという風に顔を顰めたていたが、ふっと笑みを零した。
「これって、何の臭い?」
航海も数日経った頃、マリーエルは鼻を掠めた異臭に眉根を寄せた。隣に座っていたカルヴァスも、訝しげに立ち上がり辺りを見回す。
「あぁ、またか。どうなっちまったんだか」
船縁から海面を見下ろした船員が、苦い顔をした。
「また? 何がだ?」
カルヴァスが釣られたように海面を見下ろし、「何だコレ」と声を漏らす。マリーエルが隣から同じように見下ろすと、海面に千切れた魚が何匹も浮かんでいるのが見えた。
「海の生き物の食べ残し……?」
「いいや、そんなもんじゃないのさ、マリー様」
背後からカッテが言った。海面を見下ろし、難しい顔をする。
「どうにも面倒な生き物が居てね。あんなモノ見たことないよ。でも、陸みたいに影のせいって訳でもない。海は広いからね。まだ正体は掴めていないんだけど――お前達、早い所ここを抜けちまうよ!」
カッテが言うと、船員達が「おう」と声を上げ、慌ただしく駆け回り始める。
「悪いけど、暫くは屋形に籠ってて貰えないかい? 大丈夫。アイツに遭遇するのは初めてじゃないからさ」
カッテの言う通り、屋形に籠ったマリーエルは、徐々に膨れ上がる不安にアメリアと顔を見合わせた。カルヴァスは窓幕を上げた窓から甲板を注意深く見つめている。カナメは血の気の引いた顔で、それでも耳を澄ませて外の様子を探っていた。
「一体、アイツって何なんだろう。セルジオ殿が海の様子が奇妙だって言ってたけど、そのことかな」
マリーエルが言うと、腕を組んだカルヴァスは、不服そうに鼻を鳴らした。
「わかんねぇ。オレ等を屋形に籠らせたってことは、危険があるかもしれないってことだろうけど。それが何なのか判んねぇんじゃ考えようもない」
甲板で声が上がり、ふいに船の速度が上がった。精霊の力に加え、櫂で漕ぎ始めたようだ。
揺蕩う海が背後へ流れていく。その先に、マリーエルは妙なものを捉えた。
「ねぇ、アレ何?」
「どれだ?」
マリーエルの指先を視線で辿ったカルヴァスが、波間から覗くものに目を止めた。
「何だ、あれ。魚……?」
甲板で「出たぞ!」という声が上がる。カッテが鋭い命令を飛ばし、慌ただしさが増していく。
波間から覗くものが徐々に距離を詰めてくると、次第に全体が確認出来るようになった。
それは、見るからに魚の特徴を持っているが、陸の生き物のような手足を有した巨大な生き物だった。
巨大な生き物は、並走しながら見る間に船体に近付き、その巨体を船体に打ち付けた。凄まじい音を立てて船体が揺れる。
「あぁ、何だ、くそっ!」
体制を崩したマリーエルを抱き支えたカルヴァスが、窓の向こうに顔を突き出した。
「おい、カッテ! 何だあれ!」
「判んないって言っただろ! すぐ振り切るから大人しくしてな!」
その言葉の通り、船は更に速度を上げ、巨大な生き物との距離を離していく。しかし、船尾から危険を知らせる笛の音が響いた。
「もう一頭出ました!」
「何だって⁉」
カッテの声が遠ざかっていく。
「本当に任せて大丈夫なんだろうな」
カルヴァスが思わずといった風に剣に触れ、苦虫を噛み潰したような顔を浮かべた。海を泳ぐものに剣技は届かない。
見れば、先程の個体が追いつき、ぐるぐると船体の周りを泳ぎ始めた。
「撃て!」
カッテの声と同時に、大気を裂くような音が響き、雷が海に落ちた。
「雷矢、続け!」
ひゅうと音を立て、矢が巨大な生物目掛けて降り注ぐ。それは、海面に当たると雷を走らせた。雷に触れた巨大生物が、その巨体を震わせ海面に浮かび上がる。そこに再び大気を裂く音が響き、激しい雷が巨大生物の体を撃った。衝撃に吹き飛んだ巨大生物の体は、粉々に砕け散る。
わっと甲板で歓声が上がった。
「気を引き締めな! もう一頭居るよ!」
カッテの声に船員達が応える。それに誘われたように巨大生物が体の向きを変え、勢いよく船目掛けて身をくねらせる。
「副船長、雷撃石が反応しません!」
「何だって⁉ そこ退きな!」
そうしている間に、巨大生物はもう目前まで迫っている。考えている暇はなかった。
「私の役目――」
咄嗟に窓から手を伸ばしたマリーエルは、杖を持たぬままに雷の精霊に呼び掛け、その力を解き放った。
雷に耳が震え、目の前に強い光が落ちた。全身がびりびりと震え、息が詰まる。
窓から飛び出しかけた体を強く後ろに引かれ、マリーエルは仰向けに倒れ込んだ。唖然としたカルヴァスが、マリーエルの顔を覗き込み、長い息を吐くのが逆さまに見える。
「お前なぁ……考えなしに動くなって……まぁ、いい。寝てろ。って、もう寝てるか?」
その声が遠退いていくままに、マリーエルは小さく笑い声を立ててから意識を手放した。
マリーエルが目を覚ますと、船員達が畏れも込めた様子で何度も感謝を述べ、マリーエルの行いを褒め称えた。
マリーエルが呼び掛け導いた雷の精霊の力は、辺り一帯に満ち渡り、巨大生物の体を打ち砕いていた。
巨大生物の襲撃を逃れた船は、大陸への路を順調に進んでいく。
「本当、助かったよ。精霊姫様の力ってのは、凄まじいものだね」
カッテが海の先を見つめながら言った。
「無事に大陸まで送り届けるなんて大口叩いたのに、結局マリー様の手を煩わせちまったね」
カッテは申し訳なさそうに、マリーエルを見つめた。
「ううん、気にしないで。私に出来ることをしただけだから」
マリーエルの言葉に、しかしカッテは気遣うような視線を向ける。問うように首を傾げると、カッテはマリーエルの手に手を重ねた。
「あまり無茶するんじゃないよ」
カッテは心配そうな顔を引っ込めると、あぁそうだ、と懐から組み紐を取り出した。
「マリー様に差し上げます。友好の証に」
カッテは手のひらの上に組み紐を置き、掲げ見せた。括りつけられた鉱石細工が、陽を受けて特有の模様を浮かび上がらせている。
「いいの? 有難う。素敵ね」
カッテは嬉しそうに笑ってからマリーエルの背後に回り込むと、その色を変える髪を弄り始めた。
「これはさ、海の衆が使って破れた網なんかをもう一度編み直して作ったものなんだよ。アタシ達エランの民が作るのは貝や精霊石の欠片なんかを組み合わせたもの。炉の国では金属や鉱石を組み合わせたものでね。アタシはこっちの方が好みなんだ。昔っから集めてるんだよ。これはその内のひとつ。マリー様の髪に合うと思ってね。お詫びもあるけど、楽しかったからさ」
よし、出来た。とカッテはマリーエルの髪を縛った紐の先を弄びながら、照れ臭そうに笑った。
「有難う」
マリーエルが微笑むと、カッテは再び海の先に目を向け、いつもの明るい笑顔を作った。
「さ、じきに大陸へ到着だよ」
その言葉に、マリーエルは知らず唇を噛みしめていた。
国や大陸と隔たれている今、状況を窺い知ることは出来ない。そして、器として成熟することは出来るのか。様々な考えが頭の中を駆け回り、焦りは募っていく。
海の先には、山々の輪郭が近づきつつあった。




