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9.Isola d′Elba

人生には自分ではどうすることもできないことが降りかかる。誰かに言われなくてもこんなことしてちゃいけないことよく分かってる。でも出来ない時ってあるよね。結婚を機に彼の勤務地についていく為、仕事を辞める決意をし最後の出勤を終えた。これから幸せが待っていると思ったら、どん底の現実に直面した彩菜。本当はこんなはずじゃない。こんなことしている場合じゃないし、こんなことしてちゃいけない。どうにもこうにも現実に向き合い切れない彼女が逃げた先はイタリア。偶然の優しい出逢い・不思議な縁によって癒され、新たな一歩を踏み出す物語。

 9.Isola d′Elba


 六月に入ったばかりなのに初夏の気配がした。フェリーで小一時間揺られると、着港を知らせるメロディが流れてきた。ポルトフェッラーイオ港に錨が下ろされる。エルバ島はフィレンツェと同じトスカーナ州にあり地中海に浮かぶイタリアで三番目に大きい島。遠い昔ナポレオンが流されたことでも知られている。南の島特有のヤシの木や大きなサボテンが岩肌のあちこちに群生している。エルバ島に足を踏み入れると、ゆったりした漣と眩しすぎる太陽、陽射が水面に反射しガラスの粉をまき散らしたかのように煌き、海の魚たちが楽しそうに泳ぎ、海底まで透けて見えそうな水天一碧が出迎えてくれた。


「さぁ彩菜、まずは水着を見に行こう」

「え、水着?まだ海水浴はできないんじゃない?こんな綺麗な海、渚を歩くだけで十分満足よ」

「この天気なら、海に入っても大丈夫だ。もしかして、彩菜はヌーディストビーチの方が良かったかな」

「いやそんな、まさか、そんなの絶対無理」

「あはは。そんなに動揺しなくても冗談だよ。じゃあ、別荘に向かう途中で水着を調達するとしよう」

「パオロ、ここに別荘があるの?」

「フィオレンティーノは結構この島に別荘を持ってるかな、近いからね」

「別荘なんて初めて。楽しみ」

「そうだよ、彩菜。今を楽しまないとね。今しか楽しめないんだから」

 港にはたくさんのクルーズ船と土産物屋、バカンスの必需品、サンダルや水着や帽子、サマードレスの店が立ち並んでいた。その中でもちょっとお洒落で小さな店のドアを開け中に入ると、パオロは店のシニョーラと旧友のようだった。

「あら、パオロじゃない?久しぶりね。元気だった?」

とシニョーラはパオロを抱きしめながら再会を喜んでいた。

「あらあら可愛いお嬢さんと一緒なのね、何をお探し?」

こじんまりした店内を見渡すとビキニしかないことに気づき、パオロの耳元でシニョーラに気づかれないよう気をつけ小声で囁いた。

「ねぇ、パオロ、私、水着はワンピースがいいんだけど」

パオロがシニョーラと一緒に選んでいるのは当たり前だけどすべてビキニだ。

「それは水着じゃない。子供用だ」

と一撃却下され、あっさり聞き流されてしまった。

「ねぇ、彩菜はなに色が好き?」

私がビキニを目の前に戸惑いを隠せず恥ずかしがっていると

「彩菜、ここでは日本人じゃなくイタリア人になりきった方がいい。自分が日本人だってことを忘れてしまうくらいね。折角南の島へバカンスに来たんだよ。日本人でいるよりイタリア人になってしまった方が数百倍楽しめる。これは紛れもない事実さ」

横に居るシニョーラもそうそうと深くうなずいていた。意味不明ではあるが妙に説得力が感じられその言葉に後押しされるように、出されていた複数のビキニの中から明るい赤とピンクの花柄を手に取っていた。

「それなら良く似合うわよ。あなたの色白の肌の色だとグリーンやブルーよりこっちの明るい色の方が断然、綺麗よ。サイズもこれでぴったりなはずよ」

とシニョーラはとても得意げに言った。自分がこんなに派手で明るい鮮やかな色彩のビキニを着る日が訪れるなんて夢にも思わなかった。その気恥ずかしさとは裏腹に心躍る私がわずかに顔を覗かせた。

「これも一緒にお願いするよ」

とパオロはレジ近くにあった造花のあしらわれた南国風デザインのサンダルもシニョーラに頼んでくれた。ビキニと同色の明るい鮮やかな色彩のサンダルだ。すかさずシニョーラがセットのパレオもあるのよ、と商品を広げると、

「彩菜、これがあると安心だね」

と、私に軽くウインクすると、そのパレオも一緒に包んでくれるように頼んでくれた。

「ありがとう、パオロ」

「これで完璧だ」

車の後部座席に荷物を置き、私が助手席のシートベルトを締めたのを確認すると、パオロは勢い良くエンジンをかけアクセルを踏む。

「彩菜、エルバ島は初めて?」

「うん。イタリアの島自体が初めて」

「そう。そりゃ良かった。イタリアのバカンスは島で過ごすに限るよ。日常の喧騒から解放され自然に還る時間は、人間のあるべき姿を思い出させてくれるからね」

「パオロ。わたしだんだん、イタリア人になってきたみたい」

「気づいてないのかい、彩菜はもうすっかりイタリア人さ」

「それって、褒め言葉?」

「もちろん。この上ない誉め言葉さ。嬉しいだろ」

「もちろん」

車窓を全開にすると、カラッとした初夏を思わせる爽風が車内をサッーと通り抜けていく。真っ白な雲とどこまでも続くスカイブルーとグランブルーが交差する。地中海の太陽は真夏じゃなくても強烈だ。目が日焼けするという生易しいものじゃない。この美しい景色をただ見ていたいだけなのに、陽射しが目にひりひりと刺ってきて開いている方が辛くなってくるのだ。パオロがそんな目を細める私の様子に気づくと

「彩菜、そこを開けるとサングラスがあるから使うといいよ」

と教えてくれ、私はダッシュボードを開けサングラスを借りた。

「ありがとう」

と隣の彼を見たら、知らぬ間にサングラスをかけ、軽やかにハンドルを握っていた。イタリア人の彼のその姿は何の違和感もなくさまになっていた。サングラスをかけるなんて格好つけるだけかと思っていたけど、これが必要不可欠な意味を初めて実感した。少し大きめのサングラスはこの眩しすぎる世界にそっと静けさを与え、眼下に広がる景色を穏やかにしてくれた。エルバ島は海も山もある。パオロの別荘は森の高台にある古い貴族のお屋敷みたいな建物だった。車から降りると年老いたマダムが出迎えてくれた。

「チャオ。マンマ」

「車の音が聞こえたから出てきたのよ。よく来てくれたわね。いらっしゃい」

と柔らかな物腰でパオロとハグをした。

「僕の母親のアンナだよ」

「はじめまして。彩菜です」

「彩菜、遠いところよく来てくれたわね。さぁ中へどうぞ。皆楽しみにしてたのよ」

と私にも同じように温かいハグで家に招き入れてくれた。

 家に入ると、パオロの妹家族もいた。私を見た途端、小さな可愛い男の子と女の子が賑やかに走り寄って来た。

「チャオ。ねぇ、ピカチュウ知ってる?日本から来たんでしょ」

「わたしはキティが大好きなの。今度、日本に行くの」

「騒がしくてごめんなさいね。パオロの妹のマリアよ。彼はマルコ、私のパートナー。この子たちは、ラーポとラウラよ。双子なの。兄が日本人の女性と一緒に来るって知ったらこの通り。この子たち、日本のアニメが大好きでね。あなたに会えるのを今か今かと待ちわびてたの」

 マリアとマルコとも挨拶を交わす。母親のマリアが離れなさいと私の足元から離れないおチビちゃん達に何度言い聞かせても、ラーポとラウラは私の両足にそれぞれしっかり捕まり離れようとしない。

「僕、早く日本に行きたいんだ。パオロにいくら言っても一緒に連れてってくれないんだ。一緒に連れてって」

「わたしも行く、日本行く」

「今度は連れてってあげるから」

とパオロもこのおチビちゃん達から私に救いの手を差し伸べてくれた。

「そんなに日本が好き?」

と私はしゃがんで可愛い双子ちゃん達に尋ねる。

「大好きだよ。僕はジブリも好き。彩菜、日本に行ったら色んなとこ連れてってくれるよね」

「わたしも全部、一緒に行く!」

「そうね、日本に来たら一緒に色んなところ行きましょう」

「やったー、やったー!日本に行く。今すぐ行く」

と私の足元で離れるどころか、益々テンションがあがり二人はキャッキャッはしゃいでいる。

「もうそろそろ終わりね、アモーレ」

と言いながら、マルコとマリアがそれぞれ双子ちゃんを抱きあげてくれた。嫌だ、嫌だと身体中で駄々をこねまくるが、

「今のうちに二階へ行って。戻ってきたらお昼よ。今日はママの特製ラビオリよ。兄さん好物でしょ」

と促してくれ、荷物を手に取りパオロと階段を上る。

「彩菜、大丈夫だったかい」

「久しぶりに小さい子と遊べると思うとワクワクする」


 大きなダイニングテーブルには真っ白なテーブルクロスが敷かれ、それぞれのナプキンリングが付いたナプキンもセットされていた。

「彩菜もワインでいい?この島にはワイナリーもあるから美味しいのよ」

と私のグラスにもエルバ特産の甘口赤ワインを注いでくれた。

「こんなの久しぶりね、何年ぶりかしら?」

マリアが嬉しそうに皆のグラスにすべて注ぎ終えると、サルーテと乾杯した。

「この後、皆でビーチに行きましょうね」

パンを片手に前菜のタコのマリネを食べながら、マルコが誘ってきた。

「このお天気なら大丈夫だと思って、ここに来る前にアントネッラのところにも寄って来たから、準備は出来てるよ」

「流石、兄さんね。アントネッラも会いたがってたから良かったわ。それじゃ大丈夫ね、食べたらすぐ行きましょう。まだ観光客もいなくて海も砂浜もとってもきれいよ」

マンマのアンナが次の皿へバターとセージのソースのラビオリを盛り付けてくれている。

「このラビオリは世界一美味しんだから」

とラーポはフォークを握りしめ自慢話しながらも、アンナが皆に盛り付ける間お行儀よく待っていた。

「お口に合うかしら?」

アンナが私に尋ねてきたのでオッティモと伝えてた。お世辞じゃなくこんなに美味しいラビオリは初めてだったから。

「あらあら、彩菜はイタリア語もよくできるのね」

と食卓に笑いを誘った。オッティモは昨夜パオロから教えてもらったイタリア語だ。こんな優しいマンマの味こそがこの言葉に一番ふさわしいと思う。パオロも私の言葉に優しく微笑んだ。

「これはね、小さい頃からパオロが大好きなメニューなのよ。中にはリコッタチーズとほうれん草をペーストにしたものが入っているのよ」

その後にはカラッと揚がった白身魚のフリッタータ。美味しい食卓で和気あいあいとした時間が流れていく。双子ちゃんもお行儀よく食べていてフォークやナイフの使い方も上手だ。マンマの味を食べつくすとお腹いっぱいになった。マリアとマルコは双子ちゃんの着替えに手一杯だ。

「ここはいいから、早く海に行って楽しんでらっしゃい」

とアンナが私に言うけれど

「でも、たくさん作って頂いて、洗い物も多いし」

「あなたは優しいのね。それならテーブルクロスだけ畳んでもらえるかしら。後は大丈夫よ。行ってらっしゃい。そんなに長くは居られないんでしょ。ここの海は私たちの自慢なの。楽しんできて」


 マリアの家族と私たち六人で浜辺にシートを広げ、水着に着替えた。エルバ島の眩しい太陽と白い砂浜、ティレニア海のどこまでも透き通った海。ここに居るだけで心が解放されていく。ボーっと海に見とれ、ビキニになりたくないなぁとパレオを手で押さえている私をラーポもラウラも見過ごしてはくれなかった。二人ともいたずらっ子顔して、早く早くとパレオを両端からぎゅっぎゅっと引っ張り合って、手で握りしめていたはずのパレオがすぐさま、はぎ取られてビキニ姿になった。私の恥じらいなんてこの子たちには全く関係なく、興味すらないのだ。

「彩菜、早くして。何してるの、水着着てるじゃん」

「早く海で遊ぼうよ」

「早く、早く」

と今度は私の両手を引っ張り、海へと誘う。素足に直に感じるサラサラした白砂の感触が新鮮だ。いたずらっ子の天使たちのペースに巻き込まれ海に入ると、波しぶきがパシャんと勢い良く顔にかかった。私も一気に童心に返る。マルコとマリア、パオロも加わり一緒にビーチボールで遊ぶ。キャッキャッと楽しそうに笑い合う声が絶えない。私のところへ投げられたボールをキャッチしようとしたら滑って転び、全身すっぽり海へ潜ってしまった。久しぶりの海は気持ち良かった。

「大丈夫、彩菜」

とパオロが起きあがるのを手助けしてくれた。

「パオロ、連れてきてくれてありがとう」

「僕もずっとここに来たかったんだ。ここの海は最高だろ」

「うん。とっても素晴らしい。とっても愉しい」

「彩菜、ビキニもよく似合っているよ」

そう言われた途端、急に恥ずかしさがこみ上げ私は何も言えなくなった。そんな私たちを見つけ、ラーポがこちらを目がけボールを投げてきた。そのビーチボールをキャッチしたパオロはそのままラーポのもとへひょいっとボールを返すと、私の手を取った。

「ねぇ、どこ行くの?行かないでよ。いやだ。行っちゃやだ」

「ねぇ、パオロったら大人げないよ。ラーポ、泣きそうだよ」

「いいさ。僕だって子どもになりたい時もあるんだ。彩菜、あっちですこし休もう」 

と私を引っ張り砂浜のパラソルの下、一緒に身体を休めることにした。パオロはシートに腰を下ろすと全身にクリームを塗り、うつ伏せで眠ってしまった。私は海を眺めながら、もうすぐ本当に帰国するんだとふと我に返り不安が頭をよぎった。透明な大海と白波。はしゃぐ声に青い空。こんなに跳ね回り楽しいのにどこか楽しめない私に気づき現実の気まずさに引き込まれそうになる。

(孝は今どこで何をして何を思い、誰と一緒にいるのだろう。私は彼と再会しちゃんと話し合えるのだろうか。彼を許せないのはそれだけ愛した証拠だよとパオロは教えてくれたけれど、私は本当に彼を愛していたのだろうか。何を掛け違えたのだろう。結婚式はどこへ行ったのだろう。疑問が次々と頭をよぎる。罪悪感を抱え、知りたいのに連絡がきても開けなかった。もし見てしまったら、恐れている現実がどっと押し寄せてきて潰されそうで怖かった。母親に「今は一人になりたい。ごめんなさい。落ち着いたら連絡します」とだけ送信したきり。きっと理由は私から言わなくても否が応でも知ることとなり、きっと心配しているだろう。何をどうすれば良かったのだろう。誰とも連絡を取っていない。自分勝手に無責任に逃げてしまったことを自覚してる。それなのに真逆の行動しかとれていない。正直、時が経つほど孝に会いづらい。人は正しい道を知りながら愚かな道を選んでしまうこともあるのかもしれない。パオロは今を楽しめと言うけれど、私は今を楽しんでもいいのだろうか。孝への恨みと愛情。二律背反。この感情に大きく揺さぶられながら日々を過ごした。相反する感情が折衷することなく、矛盾の対立を繰り返すたび、どちらの想いも色濃くなり、調和をとるどころか引き裂かれたまま共存する。この強烈な不協和音は終わる気配をみせてくれない。これを上手く扱えずにいることが何をしても楽しめてない原因だ。でももう終わり。終わりにすると決めた。帰国の日はすぐそこまで近づいている)


ぼんやりと海を見つめている私にマリアが話しかけた。

「彩菜、兄さんをこの島に連れて来てくれてありがとう」

「いや。連れてきて貰ったのは、私の方です」

とマリアに返すとマルコもからも

「僕も彩菜がパオロをここに連れてきたような気がして嬉しかった、ありがとう」

私は二人からなぜお礼を言われるのか見当がつかないけど、パオロがあんまり気持ちよさそうに寝息を立てているから気にするのをやめた。パオロの横には二人の悪戯っ子が遊び疲れ、ミケランジェロの羽を休めた天使のように、寝息まで合わせすやすや眠っていた。


 別荘に戻ってくると、やはり皆はしゃぎ過ぎたらしく早めに休んだ。パオロは慣れ親しんだ自分の布団に安心したのか、すぐにまた眠ってしまった。私は疲れすぎたからか、帰国への緊張からかなかなか寝付けず、ベッドから出てベランダで外を眺めることにした。ベランダからはポルトフェッラーイオ港の灯りが光り輝いているのがよく見えた。この小高い丘からの夜景はキラキラ閃光を放っている。隣窓からパオロの母親のアンナもカーディガンを羽織って外に出てきた。この広いベランダは外側で繋がっていた。

「あら彩菜、眠れないの。もしよかったら一緒にどう?」

と彼女の部屋に招き入れ、アンナが部屋の角に置かれたスタンドライトを灯し、窓際の使い古されたソファーに腰を下ろすと

「眠れぬ夜の私の秘密兵器よ」

と言って、ガラス丸テーブルの上に可愛いらしい小ぶりのベネチアングラスを二つ並べ、グラッパを注いでくれた。

「彩菜、パオロとここに来てくれてありがとう。パオロとは会ってないわけじゃないの。月に数回フィレンツェの病院に行く事があってね。私が本宅に泊まる時は必ずパオロが付き添ってくれるの。だから時々ね、会ってはいるんだけど、あんな事があってからはどんなに誘ってもエルバ島の方には足が向かなくなってね。小さい頃からこの島によく来てたし、大好きだったのよ。だからきっと、こうしてパオロがエルバ島に戻って来てくれたのは、あなたを一目見た瞬間、あなたのお陰だとピンときたのよ」

「私はお礼を言われることなんて何も。パオロには迷惑ばかりかけてしまって。逆に申し訳なく思っているんです」

「彩菜、そんな事ないわ。まさかパオロがこの島へ誰かを連れて来るなんて思ってもみなかったもの。そりゃ食事をするくらいの女友達は居ると思うわ。だけど、あの子はもう誰にも心を開くことないんじゃないかってずっと心配してたの。あの子がまたこの島で楽しそうにはしゃぐ姿を見たいと望んでいたけど、例え望んだとしてもそんな日は来ないんじゃないかってね、半分諦めかけていたの。だからね、昨夜の電話にはびっくりしたの。パオロから連絡を貰った時、本当に嬉しくて、嬉しくて。マリアにもすぐ電話したのよ。だから、今日は朝から大忙しだったのよ」

 アンナは興奮気味に一気に話し終えると黄金色したグラッパをゆっくり飲み干した。私も口にしてみると、バニラの甘い香りと強いアルコール独特の力強さを感じた。

「お口に合わないかしら。ちょっと強いお酒だけど、主人が好きだったの」

「甘くて美味しいです」

「それなら良かったわ。あの子がこの島で家族を失ってしまった時、私たちも悲しくて深く落ち込んだわ。パオロもね、現実が受け入れらなくて自分を責めまくったの。部屋に閉じこもってしまってね、誰とも口も聞かず何もしなくなってしまった時期もあったのよ。でもね、私たちまで悲しみに浸ってしまったら息子を助けられないじゃない。誰だって大切な家族を一瞬に失ってしまったら自暴自棄になるのは仕方ないと思うの。だけどね、私、その時に思ったのよ。不幸な出来事があったからって、自分まで不幸になる必要ないんじゃないかしらってね。八年前になるわ。私たち家族みんな、どんなに悲しんでも悲しみきれなかった。その当時はまだ主人が元気だったから会社の方はどうにかなってたの。亡くなった主人はね、日本が好きでね、私たち二人で旅行したこともあるのよ。あなたの国は美しい国ね。そんなこともあってね、仕事のご縁を頂いて主人が日本への事業を立ち上げたんだけど、志半ばで倒れてしまったから、パオロが急遽社長を引き継ぐことになってね。だからどうしても成功させたかったんじゃないかしら。もちろん始めのうちはハラハラすることもあったわ。仕事に復帰できたのは良かったけれど、寝る間も惜しんで仕事に打ち込んでたから。まぁ、その方があの子にとっては余計な事を考えずにいられ良かったんでしょうね。パオロは少しずつ自分を取り戻していったわ。まぁ、プライベートの話題は一切口にしなかったけど。それでも少しずつ笑顔もみせるようになってね。もう主人が亡くなって五年になるわ。ようやく日本での仕事も安定してきたようね。あなたはそこで働いてらした方なんでしょ。本当にありがとう。私からもお礼を言わせてね」


 パオロに聞かされていたのは全部嘘ってことになる。パオロの母親がわざわざこんなつくり話をする筈ない。パオロが私に告げた家族の話とは全く違う、こうして話を聞いているだけでも辛くなる物語。驚きのあまり言葉を失い、アンナの話を聞いているうちに涙がこみ上げてきた。

「彩菜、どうしたの。何か気に障ること言ってしまったようね、ごめんなさい。大丈夫かしら」

「ごめんなさい。私、パオロのこと何も知らなくて」

「あらそうだったの。ごめんなさいね。てっきり聞かされていると勘違いしてしまって。本当にごめんなさいね。話しすぎてしまったね。悪かったわね、彩菜。パオロがまだ話していないならこの話は内緒にしておいて頂戴ね」

「はい。でも…」

「あなたを一目見た時、アンジェラによく似ていたから、早とちりしてしまったみたい。本当にごめんなさいね」

「アンジェラ?」

「パオロの亡くなった妻の名前よ。ごめんなさいね、彩菜。こんな話を聞かされたら余計眠れなくしてしまうわね」

とアンナが私をふんわり抱きよせると、どこかで嗅いだことある女性らしい品のある香りがした。

「いえ、大丈夫です。パオロには何も言わないようにしますね。きっと言わないのにも理由があると思うから」

「ありがとう、彩菜」

イタリアマンマの大きくて温かな愛を感じた。

「アンナの香りとてもいい匂い、落ち着く」

「そう、嬉しいわ。フィレンツェに昔からある香りでね、気に入ってずっと愛用してるのよ。サンタ・マリア・ノヴェッラ薬局に置いてあるの。後でこの香水の名前も教えてあげるわ。彩菜、ありがとう。パオロからね、実はあなたのことは少しだけ聞いてたの。大丈夫よ。あなたの外側で何があってもあなたはあなたのままでいいのよ。あなたの価値は何も変わらない。あなたは愛されているわ」

と言いながら、凛とした雰囲気にイタリアマンマの優しさと寛容さ溢れる香りにフワリと包み込まれ、もう一度ぎゅっと抱きしめられた時、はっきりと同じだと分かった。パオロが時々仕事で家を空け、帰宅した時の女性の香水、そうこの香りだ。

「グラッパ、美味しかったです。アンナ、おやすみなさい」

「彩菜、安心して休むのよ。すべて大丈夫よ。おやすみ」

アンナは窓から顔を覗かせ、私が部屋に戻っていくのを見守ってくれた。


 エルバ島からフィレンツェに戻るとすぐ旅立ちの時を迎えた。

「またいつか君と再会できる日を楽しみにしてるよ」

「パオロ、本当にありがとう。なんてお礼を言ったらいいのか分からないわ」

「僕の人生に君と愛の時間があった。そうだろう?」

「そうね。とっても楽しい時間だったわ」

「僕も楽しかったよ」

私が泣きそうになると、パオロは微笑んで続けた。

「明日は仕事で見送れそうにないけど、彩菜、ひとりで大丈夫かい?」

「もちろん。大丈夫。タクシーもちゃんと呼べるからなにも心配ないわ」

私も笑顔のままでいなきゃ。パオロに悲しい顔をこれ以上見せるわけにはいかない。せめて笑顔でお別れしなきゃ。

「彩菜、君が元気になって本当に良かった」

と私の頬に軽くキスして

「おやすみ、ベッラ。ブォン・ヴィアッジョ!」

と言うとそそくさと自分の寝室へ消えてしまった。


 エジプトに行き健人から日本への帰国便のチケットを渡されてからの日々が慌ただしく過ぎた。ロクに何も持たず目的などあるはずもなく、それでも三カ月近く滞在するとそれなりに荷物が増えていた。スーツケースに荷物を積めながら色々と思い返す。これから日本に戻り、今まで目を背けていた問題と向き合う。ようやく覚悟ができた。大丈夫。前へ進むのだ。

 

 健人とこの前と同様、早朝のサンタ・マリア・ノヴェッラ駅で待ち合わせた。先週と違うのは荷物の量と大きさ、不思議と心は軽やかだ。電車の扉が開きずっしり重いスーツケースを両手で持ち上げ、フレッチャロッサに乗り込んだ。ローマ・テルミニ駅でレオナルドエクスプレスに乗り換えると、フィミチーノ空港から飛行機が定刻通り離陸した。もう後戻りできない。途中フランクフルトでのトランジットも含めると約十五時間超のフライト。フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ駅を出発してから、飛行機で日付変更線を渡り、所要時間は二十四時間を超える。ようやく日本に還ってきた。私たちは関西国際空港に到着すると、だんだんと口数が減っていった。

「ここでお別れですね」

スーツケースを載せたベルトコンベアがぐるぐる回っていく。自分の荷物を待ちながら、健人がボソッとまるで独り言のように呟いた。

「そうだね。健人、本当に色々とありがとう。君に出逢えてよかった」

お互い別れ難さを感じながらも連絡先は聞かなかった。一緒にスーツケースを引きずりながら最後の税関を通り過ぎると、到着便の自動ドアが大きく開いた。ようやくここに還ってきた。もう一度あるべきタイムラインへ。


「彩菜さん、ありがとうございます。お元気で。じゃあ、また」

と健人が軽く頭を下げ、実家が大阪市内なのでまず梅田駅に出ると言って去っていった。

「うん。またいつかどこかで会えるといいね」

そんな日は多分来るはずないと思いながら、別れを惜しむこともしない。私たちは振り向かずそれぞれの向かう先へと一歩を踏み出した。きっと少しでも振り向いてしまったら、進むのをためらってしまう。私は結婚の約束をしていた孝と真摯に向き合おうと彼の住む金沢へと向かった。


読んでくださり、ありがとうございました。わたしが好きな国、イタリアを舞台に選んだ。わたしが生きていてもいいと気づけた街だったから。人生には自分ではどうにもならないことが、否応なく訪れる。そんな時、あまりその出来事にネガティブな意味をつけても、辛くなるのは誰でもない自分だ。いいことも悪いこともすべての出来事の意味づけは自分で決めている。そんな事に気づけたら、少しだけ生きていくのが楽になるんじゃないかな、と思った。「大丈夫、すべてはうまくいっている!」全くそう思えない日でもそう思って生きてける強さを持てたらと思って描いた作品。

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