第80話「教会捜索前」
息を吸った。
乾いた、しかし鉄と焦げた匂いが混ざった空気が、喉を焼くように入り込んできた。
――目を開ける。
そこに広がっていたのは、空に黒い煙がゆっくりと、しかし確実に立ち上っていく光景だった。
濃く、重く、空を塗りつぶすような黒。
まるで、この一帯の空気そのものが燃えているかのように見えた。
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僕は思い出そうとした。
意識を失う前、確かに僕は電車の中にいた。
金属のきしみ、急加速、そして――制御を失った車体。
次の瞬間、何かにぶつかる直前の映像を最後に、僕の記憶は途切れている。
多分……衝撃の瞬間、電車は脱線し、その勢いで僕は外に放り出されたのだろう。
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しかし、倒れていた身体を起こした僕は、すぐに察した。
――あの黒煙は、電車そのものが燃えている証拠だ。
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立ち上がった僕の視界に飛び込んできたのは、ひとことで言えば「地獄」だった。
脱線して大きく傾き、複数の車両が折り重なるように崩れ落ちている。
そして、その残骸のあちこちから炎が吹き出し、鉄骨を焼き、ガラスを割り、轟々と音を立てて燃えている。
周囲には外に投げ出された自衛隊員たちの姿があった。
動かない。
それどころか、まともな形を留めている者の方が少なかった。
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顔が原形を失うほど潰され、血と骨片が地面に散らばっている死体。
腹部が裂け、臓器が露わになったまま冷え切っている死体。
首から上が完全に消え、胴だけが不自然に転がっている死体。
地面に無造作に落ちている腕や足――それらはもう、持ち主を失って久しい肉塊だった。
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焼け焦げた金属の匂いと、焦げた肉の匂いが入り混じり、吐き気を誘う。
皮膚の下を何かがざわめくような、あの生理的嫌悪感。
けれど――
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僕は立ったまま、下を向き、吐き気に身を委ねようとした。
だが、気づいた。
吐けない。
いや――違う。
吐きたいのに、吐けない。
喉までこみ上げる感覚はあるのに、そこから先が出てこない。
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(……なんでだ……?)
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今まで、何度も死体を見てきた。
そのたびに、反射的に胃の中身を吐き出してきた。
だが、今目の前にある光景は、そのどれよりも残酷で、無惨で、目を背けたくなるはずのものなのに――
恐怖は、なかった。
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(意味がわからない……なんで、こんな時に……?
気持ち悪くないのに吐きたくなる……吐けば少しは楽になるはずなのに……なんで……?)
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自分の身体と心が、別々の生き物になったような感覚だった。
その不可解さが、恐怖よりも先に僕を支配していく。
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その時――
僕の頭の中に、あの声が再生された。
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リリィの声だ。
「太一君が最後に見た“何か”……あれは、とても大きな教会よ」
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その一言が、まるで古い鍵を回すように、忘れていた記憶を開いた。
そうだ――あの白い世界で、リリィは三つの助言をくれた。
そして、その二つ目がこれだった。
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「建物の中に入り、捜索すること」
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この地獄の中で、そんな助言を受けたことなど、一瞬で頭から消えていた。
だが、今――その意味が、目の前に現れている。
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煙と炎の向こう、少し離れた場所に、異様なほど静かに立つ建物があった。
縦長の石造り。
古びた壁面には煤がついているが、崩れてはいない。
そして、入口の上にははっきりと「十字架」の形をしたものが立っていた。
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そこだけが、周囲の惨状から切り離されたように静まり返っている。
炎も血も、そこには届いていない。
まるで異世界の断片が、ぽつんと現実の中に落ちてきたかのようだった。
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僕は、一歩踏み出す前から理解していた。
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(……ここだ)
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リリィが言っていた「大きな教会」。
この十字架の建物以外に考えられない。
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足元のガラス片がカリ、と鳴った。
その小さな音が、やけに鮮明に響いた。
僕は息を整え、教会の方へと歩き出す。
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To be continued




