第78話「出発と惨劇」
1両目に戻った僕の背後から、重い靴音が近づいてきた。
振り返ると――小暮隊長が立っていた。
彼の顔には、普段の険しさよりもわずかな安堵が混じっている。
「坊主、いい知らせがある。聞きたいか?」
唐突な問いに、僕は瞬きした。
「えっ?……小暮隊長、いきなり何ですか? ……まあ、はい、お願いします」
小暮隊長は、短く、しかしはっきりと言った。
「今から“新城市”を脱出する。つまり……電車が動くってことだ」
胸が跳ねた。
「じゃあ……昨日言ってた通り、名古屋市へ避難するんですか?」
「ああ。そういうことになる」
彼は顎を引いて頷いた。
「今、久野と岡本が運転席で車内アナウンスの準備をしている。5両目や6両目にいる一般市民にも知らせるつもりだ。アナウンスが終わったら、すぐ発進だ。坊主、お前は座席で大人しくしてろ」
「は、はい……わかりました」
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やがて、低く落ち着いた声が車内放送を通じて響く。
「――こちら自衛隊A3部隊。これより新城市を離脱し、名古屋市へ向かいます。各車両の皆さんは着席し、揺れに備えてください――」
放送が終わると同時に、車両がわずかに揺れ、低い唸り声のようなモーター音が車内に満ちていった。
「ウウウウウゥゥゥゥン……」
そして、ゆっくりと車輪がレールを噛み、動き始める。
「ガタン……ゴトン……ガタン……ゴトン……」
電車は加速し、やがて外の景色が細い線となって流れ始めた。
僕はシートの背にもたれ、少しだけ呼吸を整える。
「……これで、しばらくは安全だ」
そう思いたかった。
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しかし、それは長くは続かなかった。
出発からおよそ1時間40分後――
「隊長っ!! 隊長!!!」
久野さんの叫び声が、運転席側から響いた。
「どうした久野!? そんなに慌てて……」
「もうすぐ名古屋駅に到着するので速度を落とそうとレバーを動かしたんですが……全く落ちません!!」
「なに……?」
小暮隊長の声色が、瞬時に鋼のように硬くなる。
「それどころか、“緊急ブレーキボタン”を押しても、反応がありません!!」
「馬鹿な……!」
隊長の眉間に深い皺が刻まれた。
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「車内アナウンスで知らせますか?」久野さんが息を詰めて尋ねる。
「それはダメだ!」小暮隊長が即座に切り捨てた。
「ここで知らせたら、パニックが起きる。一般市民だけじゃない……武装してる自衛隊員まで混乱しかねん」
「じゃあ……どうしろって言うんですか!!」久野さんの声が、半ば悲鳴に変わる。
僕の背筋に、冷たいものが這い上がった。
減速できない電車。
このままでは――
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そこへ、運転席奥から岡本さんの声が轟いた。
「隊長っ!! まずいでごわす!!! このままじゃ脱線するでごわす!!」
その叫びは、車内全体に緊張の網を広げた。
小暮隊長の顔色が一瞬で蒼白になる。
「……嘘だろ。もう、取り返しがつかないってのか……」
久野さんが叫ぶ。
「隊長!! 命令を!!」
しかし、その瞬間――
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「ギギギギギギギィィィィィィ――――!!!!」
金属が悲鳴を上げる音が、車輪から突き抜けた。
車体が大きく左右に揺れ、天井の吊り革が一斉に暴れる。
「バン!! ガン!! ガシャァァン!!!」
網棚から荷物が落ち、シートの間を転がる。
「うわぁぁぁあああ!!!!」小暮隊長が叫び、必死で手すりを掴む。
「隊長っ!!!」久野さんも踏ん張るが、足元が浮き上がる。
「脱線したでごわすううう!!!!」岡本さんの声が轟く。
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次の瞬間――
「ゴゴゴゴゴゴゴゴッ!!!!!」
凄まじい振動が車体全体を貫き、視界が大きく傾いた。
「ギャリリリリリリリリィィィィ!!!」
車輪がレールを外れる金切り音が鼓膜を裂く。
「ドガァァァァァン!!!」
車体が何かに激突し、弾かれたように横転した。
窓ガラスが一斉に粉砕し、破片が雨のように降り注ぐ。
「パリン!! ガシャァァン!!!」
鋭い破片が頬をかすめ、焼けるような痛みが走る。
天井の金属パイプが外れ、「ゴン!!」と頭上をかすめた。
誰かの悲鳴、金属の軋み、床を転がる物体の音が入り乱れる。
「ぐぅぅっ!!!」僕はとっさにシートの足元へ身体を潜り込ませた。
しかし次の瞬間、車体は再び大きく回転し――
「ゴロン!! ゴロゴロゴロゴロッ!!!」
360度近く横転を繰り返しながら、何かに押し潰されるような衝撃が襲う。
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その刹那、前方から黒い影が迫った。
巨大な建造物か、別の車両か……見極める暇もなく、
「ドォォォォォン!!!!!」
雷鳴のような衝撃音。
背骨を砕かれるかと思うほどの圧迫感。
車内の空気が一瞬で押し潰され、肺から勝手に息が吐き出された。
視界が白く弾け、耳鳴りが世界を支配する。
「キィィィィィ……」
そして――暗転。
僕が最後に見たのは、何かにぶつかる直前、
小暮隊長がこちらに手を伸ばそうとする姿だった。
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To be continued




