第77話「約束とあの日」
僕が意識を取り戻したのは――8月11日の早朝だった。
頭の中はまだ霞がかかったようにぼんやりしていて、時間の感覚もおぼつかない。
昨日、つまり8月10日の夕方。避難所での大発狂と、その後の意識の途切れ。
あの一連の出来事はすべて悪夢のようだったが、現実だという感覚は、皮膚の奥で冷たく脈打っていた。
目を覚ました僕がいた場所は、予想通り「地下鉄・新城駅」に停車中の電車の中――1両目。
狭い車内には、まだ夜の冷気がこもっていて、鉄の匂いが漂っている。
そして、僕の胸を占めていたのは、たったひとつの想いだった。
――小野さんの安否。
僕はためらわず立ち上がり、隣の2両目への扉を開けた。
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2両目に足を踏み入れた瞬間、僕の視界はひとつの光景に吸い込まれた。
そこにあったのは、簡易の病院用ベッド。
そして、その上で静かに眠る小野さんの姿だった。
白く冷たいシーツ。
その下で、彼女の細い体がわずかに上下している。
お腹の位置には分厚い包帯が何重にも巻かれ、その上から止血用の布が押さえつけられていた。
「小野さん!!」
思わず声が出た。
その声は、静まり返った車内で不自然なほど大きく響き、すぐに吸い込まれるように消えた。
しかし返事はない。
彼女は昏睡状態のまま、まるで時が止まったように微動だにしなかった。
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車内を見渡しても、そこにいるのは僕と彼女だけだった。
きっと小暮隊長や他の仲間、自衛隊員たちは3両目や4両目に控えているのだろう。
つまり、今この瞬間だけは……僕と小野さんだけの空間。
「小野さん……大丈夫ですか……」
もう一度問いかけたが、やはり応答はなかった。
胸の奥がきゅっと締め付けられる。
僕は彼女のベッドの脇に腰を下ろし、握りしめた膝がわずかに震えていることに気づいた。
そして――不意に、視界が滲み始めた。
「ごめん……小野さん。僕が……あの時、もっと早く気づいていれば……」
言葉と一緒に、熱いものが頬を伝い落ちる。
記憶が鮮明に蘇る。
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あの警察署の前。
背後から忍び寄った、異様な影。
飛びかかる気配と同時に、小野さんの悲鳴。
そして目に飛び込んできた、あの――三つ首の獣。
闇色の毛並みと、燃えるような赤い三対の瞳。
唸る喉から滴る血の泡。
130センチを超える巨躯。
その存在は、人間が作り出した「開発生物」の域を超えていた。
僕は確信している。
あれはただの化け物じゃない。
かつて図書館で読んだギリシャ神話に登場する、冥界の番犬――「ケルベロス」。
その名を持つ怪物に酷似していた。
もしあれが、インフィニティ過激派組織によって造られた新型だとすれば……
今後、僕たちの前に立ちはだかる敵は、さらに異形で、さらに恐ろしくなるだろう。
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「……でも、小野さん」
僕は彼女の左手をそっと両手で包み込む。
ひんやりとした体温が指先に伝わり、その冷たさが逆に彼女の命の灯火を感じさせた。
「僕が……何とかします。必ずあなたを助けます。だから……生きてください」
それは誓いだった。
ただの子供の意地でも、軽い慰めの言葉でもない。
生き延びることを選んだ者同士の、静かで、しかし揺るぎない約束だ。
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立ち上がり、1両目へ戻ろうと扉の前に立ったその時――
頭の奥底に、あの不快で耳障りな声が響いた。
『私はネドベドじゃねぇ!! ネドウェドだ!! 間違えんなァァアアア!!』
『この私を侮辱するな!! 私は“世界一の研究者”だぞ!!』
『このガキが!! 誰が泣いていいと言った!!?』
『おい、誰か来い!! エルフの解剖を始めるぞ!!』
『どうだ!! これが私の“技術”だ!!!』
『私は“インフィニティ・日本部隊”の最高幹部だ!!!』
怒鳴り声と笑い声が頭蓋骨の内側を反響し、胸の奥で何かが爆ぜた。
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あの時……練馬区を脱出する直前。
地下研究所で見た、あのビデオテープ。
そこに映し出された、泣き叫ぶエルフの母子、他種族たちの死体や叫び。
そして、それを愉悦の表情で見下ろす――ネドウェド。
あの瞬間の嫌悪と怒りは、今も皮膚の下で生きている。
焼けつくような殺意が、じわりと視界を赤く染め上げる。
「……ネドウェド」
口の中でその名を噛み砕く。
「絶対に許さない……。戦う時は、必ず……殺す」
それはもはや子供の意気込みではなかった。
一度でも地獄を見た者の、魂からの宣告だった。
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僕は1両目への扉を開き、静かに、しかし確かな足取りで戻っていった。
この胸に宿った約束と憎悪は、決して揺らぐことはない。
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To be continued




