第76話「目覚め」
――暗闇の中、ぼんやりとした揺れを感じていた。
体の下は硬く、どこか規則正しい振動が足元から伝わってくる。耳の奥では、低く唸るような機械音が一定のリズムで響いていた。
やがて瞼を押し上げると、視界の上部に吊り下がる“輪”が見えた。
銀色の輪が等間隔に並び、わずかに揺れている。
――吊り革。
頭が鈍く痛む中、ゆっくりと現実が形を持ちはじめた。
ここは……地下鉄の車内だ。
視界の端が滲み、乾いた喉を潤そうと唾を飲み込むが、喉は砂漠のように渇いている。
自分がここにどうやって辿り着いたのか――断片的な記憶が、ざらついた映像のように蘇った。
血の匂い。
倒れた子供たちの冷たい肌。
自分の叫び声。
足元で潰れる肉の感触。
そして――闇に引きずり込まれるような、あの感覚。
そのとき、不意に影が差した。
「おい!! 大丈夫か!! 坊主!! しっかりしろ!!」
荒い息遣いと共に、男の低く響く声が降ってきた。
目を向けると、屈強な体躯の男が僕の前に膝をつき、両肩を掴んで揺さぶっていた。
――小暮浩人。
あのとき、倒れた小野さんを抱き上げ、高機動車でここまで運んでくれた、自衛隊A3部隊の隊長だ。
「……小暮、隊長……」
「ようやく目を開けたか。まったく、心配させやがって」
声に混じる安堵の色は、隠そうとしても滲み出ていた。
「……僕……確か……あのとき……大発狂して……」
唇が震える。言葉にした瞬間、胸の奥で何かが再び蠢く。
「ああ。あの避難所の中で、お前は……何かを見たんだろうな」
小暮隊長は、深く息を吐いた。「俺が駆けつけたときには、お前は床に倒れていて……目を閉じたまま動かなかった」
「……申し訳ありません……」
「謝ることじゃない。お前が何を見て、何を感じたのか……それは、お前だけの戦場だ」
その言葉に、僕は一瞬だけ目を伏せた。
あの地獄を、戦場と呼ぶこと。
そして、そこに取り残された自分を肯定してくれる響きが、なぜか胸を締め付けた。
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その時、重い扉の開く音が車内に響いた。
「小暮隊長!!! ここにいらっしゃったでごわすか!?」
豪快な声と共に入ってきたのは、がっしりとした体格の男。
その後ろから、もう一人、鋭い目をした長身の男が続く。
「隊長、勝手に地下鉄に向かわないでください! どこに行ったのかと心配しましたよ!」
二人とも、小暮隊長と同じく、自衛隊の迷彩服に身を包んでいた。
小暮隊長が片手を挙げる。「岡本、久野。お前らも無事だったか」
二人の視線が、自然と僕へと向く。
「隊長……これが“例の子”でごわすか?」
「見た目からして……小学生ですかね?」
小暮隊長は短く頷いた。「ああ、そうだ」
「そういえば坊主。名前を聞いていなかったな。お前、名前は?」
僕は小さく息を吸い、背筋を伸ばした。
「……僕は、山田太一。小学5年生、11歳です。これから、よろしくお願いします」
二人の自衛隊員が、それぞれ表情を和らげる。
「俺は久野一。同じ愛知自衛隊A3部隊の兵士だ。……坊主、これからは背中を預け合う仲だな」
「おいどんは岡本仁一郎でごわす。よくまあ……こんな状況で生き延びたもんでごわすなあ」
彼らの言葉に、僕は少しだけ肩の力を抜いた。
ここは、少なくとも“さっきまでの地獄”とは違う。
今は、まだ……安全だ。
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だが、その安堵の波の中で、ふと胸の奥に冷たい針のような感覚が走った。
――忘れてはいけないことがある。
「……小暮隊長。小野さんは……今、どこに?」
その名を口にする瞬間、喉が詰まりそうになる。
小暮隊長は、僕を真っ直ぐ見て頷いた。
「あの子のことか。安心しろ。隣の車両で治療を受けている。今は眠っているが、容態は安定している」
「……よかった……本当に……よかった」
胸の奥に溜まっていた何かが、少しだけ解けた気がした。
僕だって、生きなきゃいけない。
小野さんを生かすためにも、自分が立っていなければならない。
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地下鉄は、暗闇の中を静かに走り続けている。
振動は穏やかだが、この先の未来は穏やかとは限らない。
誰かが死ぬかもしれない。
誰かが裏切るかもしれない。
誰かが……自分に手を差し伸べるかもしれない。
そのすべてを飲み込んででも、生き延びなければならない。
この生を、誰かのために繋ぐために。
僕は拳を握った。
地下鉄の車輪音が、その決意を刻むように、単調なリズムを刻んでいた。
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To be continued




