第74話「結局地獄」
僕は、倒れた小野さんの横をそっと通り過ぎて、
警察署の自動ドアに手をかけた。
冷たく金属の匂いが染みついたガラスに触れた瞬間、指先にざらりとした不快な手応えが走る。
血か。誰かの――温度を失った命の跡。
ドアが「キィィ……」と鈍く開いた。
そこに広がっていたのは、静寂でもなければ、安堵でもなかった。
そこは――地獄だった。
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入口すぐの受付カウンターの奥。
制服を着た中年の男性警察官が、壁に背を預けて座り込むように倒れていた。
目は虚空を見つめ、口元からは乾いた血が垂れている。
その足元には、びっしりと染みのように広がる尿の跡。
最期の瞬間、どれほどの恐怖と絶望に呑まれていたのか。想像するだけで胃が捻じれた。
カウンターの向かい側には、片腕のない警官が倒れていた。
もう一方の手には拳銃が握られていたが、撃つことすらできなかったのだろう。
その体は、両脚がなく、喰いちぎられたようにざっくりと肉が裂けていた。
「うっ……!! おぇ……うえっ……!」
耐え切れず、胃の底からこみ上げるものを押さえきれなかった。
さっき嘔吐したばかりなのに、また喉の奥が熱くなる。
食べたものなど残っていない。
それでも、体は“吐く”という行動でしか、この現実を処理できなかった。
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「……っ、早く……誰か……誰か生きてる人……いないのか……」
涙と胃酸でぐしゃぐしゃになった顔を拭いながら、僕は警察署の中を歩き出した。
生存者がいる可能性は限りなく低い。
だけど、ゼロじゃない。
その“ゼロじゃない”に縋るしか、今の僕にはできなかった。
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1階の廊下は静かだった。
ゾンビの姿はなかった。
恐らく、入口で暴れたあの三つ首の化け物に、すでに食い尽くされていたのかもしれない。
無言で警察署の奥へと進む。
途中、弾痕の残る壁、割れた監視カメラ、血で汚れた床。
“秩序”の象徴だったこの建物は、すでに“混沌”の記憶で塗り潰されていた。
僕は階段を使って2階へ上がった。
そこでは、数体のゾンビが徘徊していたが、こちらにはまだ気づいていないようだった。
忍び足で廊下を進みながら、部屋のドアを一つずつ開けていく。
「……誰か……いませんか……?」
声を潜めながらも、どこかで誰かが応えてくれることを期待していた。
けれど、返ってくるのは風が吹き抜ける音と、遠くから聞こえるゾンビのうめき声だけだった。
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3階に上がった時だった。
ある一室の前で、床に落ちていた手帳のようなものが目に留まった。
それは警察官の名前が印字された「事件記録ノート」だった。
僕は慎重に拾い上げて、中をめくった。
その中には――
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最近発生した事件
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1. わいせつ事件
・発生日:2005年6月12日
・容疑者:50代男性
・被害者:30代女性
・概要:
犯人は女性の勤務先で待ち伏せし、勤務終了後に後をつけ、犯行に及んだ。
取り調べでは「未婚だったから」と容疑を否認している。
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2. いじめ事件
・発生日:2005年7月8日
・加害者:男子高校生5人
・被害者:同級生男子高校生
・概要:
加害者は日常的に暴力・暴言・金品の強奪を繰り返していた。
主犯格は「低身長だったから見下していた」と供述。
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3. 殺人事件?
・発生日:2005年7月13日
・容疑者:不明
・被害者:10代女性
・概要:
首元に噛み傷があり、遺体は林道で発見された。
警察は“野生動物による襲撃”と判断。
だが、検視の結果、“人間の歯形”に酷似しているとの報告あり。
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「……最後のやつ……どう考えてもゾンビの仕業じゃん……」
僕は苛立ちを込めて、その手帳を放り投げた。
手帳は乾いた床を滑りながら、壁に当たってぺたりと落ちた。
あのノートに書かれていたのは、人間の罪だった。
欲望、差別、暴力、そして――見逃された“異常”。
それらが積み重なって今があるとしたら、僕たちはすでに“壊れかけた世界”の中で生きていたんだ。
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警察署の最上階――4階。
ここにもゾンビがいた。
ただし、腐敗が進みすぎていたせいか、動きは鈍く、僕の姿にも気づかず歩き回っていた。
僕はサバイバルナイフを握り、音を立てずに奴らを一体ずつ倒した。
倒したあとはすぐに手を拭い、消毒した。
「……誰もいないか……」
重苦しい空気が、警察署全体を包み込んでいた。
まるで“死”そのものがこの建物を支配しているかのようだった。
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ふと、窓の外を見ると――
夜が、来ていた。
空はすでに群青に染まり、星がぽつぽつと瞬き始めていた。
瓦礫の上に立つ壊れた電柱が、風に揺れながら軋んでいる。
「……帰らなきゃ……避難所に……」
そこに誰かがいる保証はない。
小野さんは倒れたままだ。
それでも僕には、あの場所しかなかった。
重たい足を引きずるように、僕は警察署を出る。
外の空気は、冷たかった。
夜の風が、血と煙の匂いを運んでくる。
それでも、僕は一歩を踏み出した。
何が待ち受けているかわからない未来に向かって。
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To be continued




