チアリーダー
俺は右手に箒、左手に塵取りを持っている。昼が過ぎて客が“捌け”たら、今度は店先のゴミを“掃か”なければならないのである。これが仮に右手に剣、左手に盾だったとしても、俺は変わらず剣でゴミを掃き、盾で集めるに違いない。この職場に来て五年になるのだから。
田舎町の海沿いに建つこの食堂の軒下には、潮風に乗って、呼びもしないのに小さな砂や埃が飛んでくる。十五時になり昼の営業が終わると、俺はそうした招かれざる小さな客にお引き取り頂くため、心を鬼にして箒を振るう。
たまに次のように思ってしまうことがあるのは秘密だ。わざわざ飛んでくるのを待たなくても、砂浜へ行って全ての砂を掃除してしまえばいいのでは? と。何処に捨てるというのか。
静かにゴミを集めていると、店の裏手の方角から聞きなれない声が聞こえてくる。集団の声だ。タイミングの合った、何かの掛け声のような、女たちの声。
俺はあっちの方にあるのはテニスコートだったと記憶している。だが、テニスの掛け声は――テニスに掛け声なんてものがあるとすれば――交互に響くはずであり、一つのボールを二人一緒に打つことはできない。そして今響いている声が仮に十人のものだとして、五対五でテニスをするような馬鹿がいるとも思いたくない。そんなことをするのは、テニスのルールを甚だしく勘違いした輩か、テニスの無い国の公式ルールでやっている輩、あとは酔っ払い位のものだ。昼間っからテニスコートで少女たちが酒盛り……というのはあまり心躍る光景ではない。
俺は「先輩、この声何でしょう」と店内に向かって言う。建て付けの悪いガラス戸を開け放って店内の掃除を担当している男の先輩が、その場で耳を澄ます。
先輩は言う。「うーん、チアリーディングじゃないか?」
それを聞いた俺は「ああ……言われてみればそうですね」と答える。「でもこんな辺鄙な田舎町で誰を応援するんでしょう。まさかあそこにいる釣り人でもあるまいし」俺は海の方を指さす。指した先には防波堤がある。クーラーボックスの軽さを嘆く釣り人の、猫よりも小さく見える背中がしょんぼりと佇んでいる。
「さあな。だがチアリーダーってのは大体、フレーフレーと言いつつ心の中ではバラバラの男を応援していることが多い。十人いればその中の一人くらい、釣り人のしけた背中が好きだって女もいるかも知れないぞ」
「食堂の店員のしけた背中が好きだという女もいるでしょうか」
「大いにいる可能性はある。お前のしけ具合は少し足らんがな。そして店長はしけ過ぎだ。なんにせよ、この高齢化の先端を行く限界集落には、若者の応援と手押し車が無きゃ外にも出られない老人が大勢いるんだ。チアリーダーの十人や二十人がいたってバチは当たらないよ」先輩はそう言い切ると、話題に興味を失ったのか、店内の掃除を再開する。
俺は、今日が定休日前の月曜日であることを密かに嬉しく思っていた。口実が作れるからだ。「明日定休日なんで、裏の方も掃除しときますよ」
先輩が意外そうな目を向けてくる。「マジで?」。まあ、いいと思うけど――。先輩はそういう風な曖昧な頷きをすると、椅子を出したりしまったりする退屈な作業に戻る。
店の裏手に回ると、トイレの窓が開いていたので、外から閉めておく。これは中の人が覗かれないようにする為にではない。外から便所の中を視界に捉えてしまう不幸な人を生まない為だ。
俺は建物の壁に箒と塵取りを立て掛け、声に誘われるまま、草木が生え放題に生えた小道を軽快に歩きはじめる。
我ながら、溜まっているのかと疑わないでもない。高く響く声に誘われて女を覗きに行くなど、それが女湯ではないからといって決して褒められることではない。しかし、その種の自分に向けた疑いや戒めというものが、本能の前に容易く屈してしまう例は枚挙に暇がない。例えば日本の政治とか、アメリカの政治とか、ロシアの政治とか。タイでもバングラデシュでもいい。つまるところ――、政治家だってきっとチアリーダーの誘惑には勝てない。
十五人のチアリーダーたちの深紅のユニフォームが、青空とブルーのハードコートに映えていた。ノースリーブの肩口からはしなやかな腕が伸び、閉じたり開いたりするスカートからは艶めかしい脚が伸びていた。
テニスコートからはネットが取り払われ、彼女たちはその陽光に煌めく白い肌を、存分に躍らせていた。まるでそうすることがこの体の存在意義だとでも言わんばかりだった。
奥の方の地べたに置かれたラジカセからは、流行りの音楽が流れていた。流行りの音楽は好きではなかった。掛け声も何と言っているのか判然としなかった。判然とさせる必要も無かった。
俺は今目で見ているのであって、耳で聴いているのではないのだ。
俺は彼女らの艶やかな肌の躍動を食い入るように眺めていた。何分でも、何十分でも。まるで、見つめることで自分が石になってしまう、出来損ないのメデューサのように。仮に隕石が落ちて地球が崩壊したとしても、俺は変わらずチアリーダーたちを眺め続けた。
全員そろって振り上げられる脚が、俺への手招きのように見えてきた。“こっちへ来て”“私たちのところに飛び込んできて”と言われているような気がした。本当にそんな女がいるなら、パンダよりも貴重な絶滅危惧種だ。しかし確かに、俺は眼前のチアリーダーたちに誘われているような気分になっていた。
そのまましばらく時間は経った。
木の影から彼女らを覗く俺の姿は、浮気現場を目撃する人とあまり変わらなかった。しかし普通の浮気と違うのは、俺が十五人の少女に一度に浮気されていることだった。
きっと俺は気付いていたのだ。あの十五人の少女たちが、揃いも揃って俺ではない男を応援していることに気付いていたのだ。彼女らの輝きが、追いかけても手を伸ばしても永遠に届かない、虹のような単なる視覚上の現象に過ぎないことを悟っていたのだ。
そういう訳で、俺は我に返った。腕時計を見ると、もうすぐ夕方の営業の準備を始める時間だった。踵を返し、なるべく音を立てないように食堂の方へ帰ろうとした。
俺の隣で、店長と先輩が、それぞれ木の陰でチアリーダーたちに浮気されているのを目にとめた。まったく気が付かなかった。俺よりしけているはずの背中がしゃんとしていた。更にその向こうに、背中が猫よりも小さかったはずの釣り人がいた。同じように彼女らを見つめ、若さの逆光に眩む己の後ろ姿を思い描くかのように、ただ真面目な表情を浮かべていた。
俺は迷った。「そろそろ夕方の準備をしましょう」と切り出すかどうかを。ここに最初に来たのが俺だったのだから、言い出しづらいのは当然だった。しかし、迷う必要など無かった。店長が、右の側頭部から左に大胆に撫でつけた残り少ない髪の毛を、さっと整えたからだ。
これからまた夕方の戦場に征くのだ。髪は整えることが重要なのであって、量は問題ではないのだ。
俺は気付いた。応援されていたのは、他ならぬ俺たちだった。