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鳥と女と宇宙船
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5-1
女魔法使いロディ35歳が更新された冒険者免許証を天にかかげて、左右ちぐはぐな小型宇宙船の甲板で仁王立ちになり、両の拳を突き上げて勝利の雄叫びを上げてから、もう何日が過ぎたのだろうか。
ロディは、早々にへたばっていた。
「今日のやつは、すっぽかしたらマズいって」
ニオルクゴールが、キャビンの床下にレイアウトされた船室でソファーをベッド代わりにして横になり、気だるそうにしているロディに言った。ロディは目の下にクマを作り、覇気のない目尻と頬のラインが下がりまくった疲れた顔を、ニオルクゴールに向けた。
「きょーは、ホント無理。休ませて」
「張り切って申し込んで、スケジュール過密にしたの、ロディじゃないの」
「甘く見てたわ。若いころはねぇ、これぐらいなら、1日寝れば疲れも飛んでたんだけどねぇ、徹夜も平気だったんだけどねぇ……」
もじょもじょ言いながら、ソファーの背もたれのほうに顔を向けてしまう。身体的にはともかく、魔力回復が追い付いてこない様子。かといって死ぬほどの過労でもなく、慣れない激務をいきなり食らって、当社比でけっこうな疲労が翌々日ぐらいで襲ってきて、面食らっているといったところ。
「わからなくもないけどさ、一応、契約書面つきで約束しちゃってるんだし。成否はどうあれ、今日のところにも行くだけ行かないと良くないって。こういうのいいかげんにするようなところから、悪の魔法使いってのが生まれるんだから」
「いやいや、んな大袈裟な」
「ホントだって。統計が出てる。ちょっとしたきっかけから始まる些細な反社会性の積み重ねが、魔法使いに妙な身勝手さと万能感を持たせ、気がつくと冒険者一行に命を狙われる側になってたりするんだ」
ニオルクゴールは大真面目に言っていた。そのての魔法学の専門知識は、これでもかと持ってるのだ。
「一説では、魔法そのものが本来そうした邪悪性を誘発させる性質を持っていて、一定程度以上の知的生物が魔法の邪悪性を理性でおさえて、便利に使えるようにしてるのだとか。だから知能の低い魔獣ってのは、そのまんま邪悪性を丸出しにしてるわけ。ただこの説だと魔獣も魔法使いも区別がないことになるから、ロディみたいに人間を含む魔法を使える知的生物を、厳密には魔獣の一種として分類できなければならない。一方で、同じ人間でも魔法を使える個体と使えない個体がいることを、矛盾なく説明できなければならない。このあたりがまだ証明できてないから、仮説の段階なんだけど。でも、最先端の魔法学研究の現場では、わりと有力視されてる説なんだよ」
ニオルクゴールは言葉を切って、ロディの反応を待った。ロディは何も答えず、向こうを向いたまま、いつしか穏やかにゆるやかに肩を上下させてるのだった。
「ロディ、寝ちゃダメだってば」
ニオルクゴールが足でロディをゆさぶると、ふにゃふにゃと目を開けた。爆睡してたわけでもなかったらしい。
「今回まとめて受けたの、これが最後だから。もうひとふんばりして」
「評価4のあなたなら、一人でなんとかできるのでは」
「無理だよ。僕は魔法使いのサポートには自信あるけど、僕一人でできることなんて限られてる」
「オイスターくんがついてるじゃない」
「くん?」と船が会話に割り込もうとしたが、ロディは無視した。
「それも無理。僕、武装を操作できないもん。いろいろ調べてみたけど、魔法使いが自分の魔力を増幅させて打ち出すタイプのしか搭載されてない。ロディ、君が必要なんだ」
「しっかたないわねぇ……」
ロディはソファーで重たい体を起こし、寝起きの乱れ髪をくしゃくしゃと掻いた。
5-2
超光速式の武装船ということでエントリーしてたのが、登場したのはうすらちっちゃいアシンメトリー船で、カスタマーからは話が違うと言いがかりをつけられた。機嫌の良くないロディは激昂して反論したものだが、ニオルクゴールはカスタマーの感覚のほうが普通だよなと思っていた。
依頼されたのは商船の船団を護衛するというもの。ロディたちだけでなく、100メートル200メートル級のマトモな武装船を持った中級冒険者一行が他に3組ほど集まっていた。なんでも、ここんとこ武装商船を襲う大がかりな海賊事件が増えてるのだとか。顧客の船団が無事ゲートに入るまで海賊をよせつけない、できれば抑止力として戦闘を避けたい狙いが大きかった。
船主とロディが言い合っていると、MA職員が横から割って入り、船主の耳元でなにやら告げた。すると船主の表情が驚きと疑いの入り交じったややこしいものに変わり、それはそれで問題なんじゃないのかとかぶつぶつ言いながら、引き下がって行った。
「いや、最近聞くようになった噂なんですが。小さいのに火力ばかり大きい高速船のせいで、海賊団がいくつか壊滅してるらしいんですよ。逃げ延びた海賊が情報を回してるようで、ここのところ、小型船を襲う海賊事件が減少してる一方、大がかりな襲撃の件数が増えはじめてまして」
MAの職員さんは、ロディたちにもそんなようなことを告げると、小さなオイスター号を横目で見ながら去っていった。
「……そういや……」ロディは腰に手を当てた仁王立ちポーズのまま、虚空を見上げてつぶやいた。「最近、海賊に襲われなくなってきてたような」
「そのとばっちりが、大きな船のほうに……」
「ちょっと買い物してくるわ。つきあって」
ニオルクゴールが何か言いかけるのを遮って、ロディは待機中の宇宙港と併設のMA直営店に小走りに駆けていった。
他の冒険者一行ことハンターライセンス保有者、いわゆるハンライスたちも、見るともなしにオイスター号やロディたちのことを注視していた。珍獣を見るような、どこか見くだすような、まさかと疑うような、畏怖するような、冗談だろとでも言うような、そんなような眼差しで。
5-3
船団の1番船に寄り添うようにして航行していたオイスター号は、海賊が現れるや、護衛とか忘れたように大加速して先陣切って海賊船の前に飛び出していった。船主や他の護衛船たちから一斉に苦情が飛んできたが、「攻撃こそ最大の防御よ!」とロディは言いきった。
早速、オイスター号は集中砲火を浴びることになったが、小型の格闘戦型海賊船はロディの操る全方位雷撃塵によって次々と撃墜されていった。それで、海賊たちの動きが変わった。武装船団と一戦交えるつもりで出てきた大型の海賊船が、オイスター号を標的にし始めたのだ。
おかげで、海賊の主戦力のあらかたがオイスター号に集まり、船団を襲いに来る海賊船は船団の武装や用心棒に雇った冒険者一行によって、わりかし余裕で対応できていた。
「おっし! 狙い通り!」とロディ。
小型船でありながら恒星間航行も可能な軽量級大出力船であることの優位性を利用して、オイスター号はでたらめな十字砲火の中をすごい勢いで逃げ回っていた。
「こんなの長くはもたないよ、ロディ!」
「わかってるわかってる。だから、速攻で決着つけてやんのよ!」
実際、何度も被弾してたりする。オイスター号のシールド魔法がなにげに強力なのでもちこたえているが、それも無制限ではない。ようは、魔界ゲートを開いて逃げる、みたいな余力のことをまるっきり無視して、スピードとシールドに魔力全振りしてるのだ。
「そこ、右!」
ロディが船に指示する。
「そっちは、回り込まれるんじゃないのか、おい」
「良いから!」
「俺だって死にたくはないんだぜ」
不平を漏らしながらオイスター号は左からのトラップ的な砲撃をバカ正直に回避して、ロディの言う通り右へ急旋回する。
「そこの天才バード、あれがフラグシップで間違いないと思う?」
ダイニングテーブルの上空に立体的に浮かび上がっているマークのひとつ、今まさに進行方向で軌道が重なりそうなやつを指差して、ロディはニオルクゴールに確認した。
「指令船かどうかはわからないけど、海賊にしちゃ規格外にデカい、虎の子の主力戦艦だろうね」
「ボロ船!」
「なんだよ」
「合図したら回れ右! それからバード!」
「はい?」
「さっき買ってきたやつ!」
ニオルクゴールは、買い物袋をロディに渡した。
ロディは応戦をやめて、買ってきたばかりの安い宝石をやたらちりばめたやや高価な首飾りを首にかけた。ブースターアイテムではない、ジェネレーターアイテムだ。さらに両腕にそれぞれ3つずつ、合計6つ、魔力増幅の腕輪をつけた。それぞれの腕輪にはニオルクゴールによりいつもの細工がされていて、ブースターカートリッジをセット済み。ニオルクゴールは、ロディがへたばった分をマジックアイテムでカバーしようとしてるのだと思って買い物におとなしくつきあっていたのだが、どうも様子が違う。
「あんたは、これ」
ロディはニオルクゴールに、スプレー缶のようなものを投げてよこした。インコは足を上げてキャッチする。
「おい女、早く反撃!」
「あんたはもうちっと耐えてなさい、ボロ船!」
受け取ったスプレー缶に印刷された取説に目を走らせながら、そういやコレを買ったとき、不吉なこと言ってたな、とニオルクゴールは思い出した。
MA直営店でロディは、そのスプレー缶のようなものをひょいと掴むと、軽く放り投げてクルクル回してからキャッチ、買い物かごに放り込みながらこう言っていたのだ。
「ちょっと危ないことやっちゃうかもね。くっくっくっ」
悪の魔法使いが似合う人なのかもしれない、とニオルクゴールはその嫌な笑いを漏らす横顔を見て、思ったのだった。
小型海賊船が高速で進路を塞ぎ、オイスター号を戦艦の軸線上へ追い込んでいく。オイスター号も負けじと加速して、とにかく距離を保つ。真後ろからの砲撃が激しさを増し、シールド魔法が立て続けにノイズィな炸裂音をたてる。
「ナメんじゃないわよ。こっちは、明日が一週間ぶりの休みで1日寝てるつもりだから、今はなんだってできんのよ」
変にニヤけた顔でぶつぶつ言いながら、ロディは空中の配置図に集中する。
海賊の主力戦艦にケツにつかれた、そのとき。
「回れ右!」
「ここでか! バカなのか!」
悪態をつきながらオイスター号は、独楽のようにクルリと180度向きを変えた。同時にロディは、両手でそれぞれ反対の腕を撫でるように腕輪に手をかざし、その手を胸元でクロスさせ、首飾りの宝石を発動させる。6つの腕輪と首飾りの宝石が一斉に起動、まばゆく輝いた。妖艷の妖は妖怪の妖。
「さすがに無茶だよロディ!」と鳥。
「うっさい! くらえええ!」と悪魔のような笑みを浮かべてロディ。テーブルの魔方陣が輝きを増し、その顔を下から照らす。ニオルクゴールが一歩あとずさる。
「マジか!」と船。
オイスター号の前方の空間に、いつもの幾何学模様が浮かぶ。そこから、いつもの強力な光の束が発射された。いつもと違うのは、その太さと輝きの強さだった。ばかでかい。オイスター号自身よりも太い。射線上の小型格闘戦用海賊船などは、当たるとかよけるとかでなく、次々と飲み込まれていく。その光は、海賊船がオイスター号を狙い打ってきた砲撃をそのまんま踏み潰して無に帰し、海賊戦艦の魔法防壁をやすやすと突き破り、300メートル級の武装船の真正面にクリーンヒットした。光の束は海賊船を縦に串刺しにするように貫通し、どでかい風穴を開けて、その大型船を沈黙させた。
一方。オイスター号のメインブリッジ。
「ぶわっちちち!!」
ダイニングテーブルが青い炎を上げて燃えていた。その炎はロディの腕輪から伸びたもので、だからロディの腕も一瞬炎に包まれた。勝手に改造した安物の腕輪は過負荷に耐えきれず、6個全部が砕け散っていた。砕けたことで魔力を失い、ロディの腕が燃え続けることはなかったのだが、爆風のような熱気にはじかれてロディは後ろに吹っ飛び、壁際に尻餅をついて、両腕をふーふーした。首飾りの宝石もまた容量が少ないやつだったので、それっきり魔力を出しきって輝きを失いただの灰色の石ころになった。
「ロディ! 大丈夫!?」
「あたしより、そっち!」
びっくりしているニオルクゴールに、ロディはテーブルを指差して叫んだ。ニオルクゴールはようやくスプレー缶のことを理解して、それをテーブルに向けた。簡易消火剤噴霧缶、携帯用消火器の一種だったのだ。噴霧して、無事、鎮火。
その間にオイスター号は、はじめに寄り添っていた1番船のすぐそばへ、一目散に逃げ戻った。ロディの魔力は、もう豆鉄砲ひとつ撃てない出涸らし状態。あとは依頼主を盾に使って他の冒険者らに守ってもらう作戦だった。実際は、主力艦を沈められた海賊のほうも、散り散りに逃げの体制に入り始めていた。
「どーよ、これでケリがついたでしょ」
「まったく、準備が良すぎるよ、ロディ。前にもやったことあるんじゃないの?」
「ずっと前だけどね。あのときは船が全焼するかと思ったわ。みんなでバケツリレーやったの、なつかしいわね」
「びっくりした。バラけるかと思った。あんなことできたんだ、俺」
オイスター号が言った。
商船の船団は無事にゲートを開き、はるかかなたの取引先へと消えていった。
ロディは魔法協同組合に海賊戦艦撃沈ボーナスを請求するべく交渉したが、もとから依頼は海賊団壊滅とかでなく護衛だったので通らず。かといって、あれだけの功績に無報酬は、それはそれで面倒の種なので、使い捨てた腕輪やら首飾りやらの実費は負担してもらえた。海賊壊滅のオプショナルな報酬増額分は、大した金額ではないものの、参加した他のチームと山分けになった、口止め料みたいなの兼ねて。
5-4
運命なんてものあるのかしら、とロディが尋ねたら、ニオルクゴールはいともたやすく、あるよ、と答えた。
「あるの?」
「慣用表現として用いられる偶然性に必然性を錯覚させる意味の単語とは違うけど、魔法学で言うところの運命というのは、確かに存在するよ。占いなんかを専門にやってる連中は、僕よりもっと詳しい。でも、なんで、そんなことを?」
ここはオイスター号のメインダイニングキッチンことメインブリッジで、次の星を目指して魔界を航行中。窓の外には魔界が見えている。ロディはキャプテンシートを後ろに傾け、テーブルに足を乗せている。
「ちょっと前まで雑貨店でバイトしてたあたしが、あんたに会って、こんな船に乗って、海賊をぶっ飛ばして、それもめんどくさくなって、別の星とか目指しちゃってる。何もかも、都合よく回りすぎてる気がしてね。来年の今頃、自分は何やってるんだろうな、なんて思って」
「ああ。確かにね、それは運命である可能性がある。それこそ、占い師に鑑定してもらえば、運命の影響もどれぐらい受けているのかわかるかもしれないよ」
「それならそれとして、運命ってなんなのかしら。自由気ままに暮らしてるつもりでいても、結局、何かの意志みたいなものに操られてる気がする。それぐらい、運よくここんとこうまくいってる、ってことなら、まあ、良いんだけど」
「あぁ、なるほど」
ニオルクゴールは少し考えてから、続けた。
「僕にしてみれば、逆に僕の方が運命に振り回されてる気分だよ」
高級ホテルでフロント係をしていたはずが、まさかの恒星間電話で呼び出されて、追い剥ぎに身包み剥がされた女を助けて、宇宙船を手に入れて、なぜかこうして冒険者ライフを満喫しているわけで。ロディのように自らの意志でそれまでの生活から飛び出してきたというのとも、ちょっと違う。
「でもね、それこそ魔法学的には、その中心にはエっちゃん、エルティスさんの存在がよほど大きいんだ」
「おばあちゃんが、なにか噛んでるの?」
ロディはテーブルから足を下ろし、やや身を乗り出す。そう考えれば納得できる気がする、という気がしたのだ。故郷を飛び出して行った先の星で出会ったのが、その祖母の知り合いだとか、偶然にしては出来が良すぎる、と。もしかしてこのケッタイな船も、もしや祖母が関わっているのでは、などと考え出す。大した根拠もないのに。
「そうなにもかもエッちゃんの影響ってことはないだろうけど。少なくとも君も、もちろん僕も、かつて彼女となんらかの関わりを持ったことがある。それが巡り巡って、今こうして一緒に旅をしてるんだ。君にとってこれが強運に思えてるのと同じかそれ以上に、僕にとって今のこの状況は強運事象に感じられてる」
「オイスターは?」
「わからない。実は始めに乗ったときからずっと調べてるんだけど、わからないんだ」
「なら、逆にこの先どこかしらで、またおばあちゃんと関係ありそうな誰かと出会う可能性があるってこと?」
「それは、なんとも。僕は占いもできないし、そもそも魔法が使えない。ここまでの過去の出来事の観察から、知ってる法則を当てはめて理解を試みる、それだけしかできないよ」
「ふぅ~ん……」
ロディは再び興味を失い、器用にキャプテンシートを傾けて両足をテーブルに乗せた。
「でも、まあ……」インコは知識人ぶって慎重に言葉を選ぶ。「ありえなくはない、とは言えると思う」
5-5
秘密の近道、なる航路を選択し、そこを目指して魔界ゲートから出たオイスター号は、救難信号を受信した。
「驚いたな。俺のほかに、ここを通るバカがいるとは」
どういうことよ、とロディは引きつった顔で問い詰める。その宙域は情報乱流みたいなものができてて、あらゆることの起こる確率が変動しやすいのだと、船は得意気に解説した。魔法による情報操作の自由度というか柔軟性が爆上がりする、ということらしい。
「長距離を飛ぶのが簡単な分、事故も起こりやすい、と理解していいのかな、それ」
普段は表情を読みにくいセキセイインコが、頭の羽毛をやや逆立てて、わかりやすく噛み砕いた言葉で説明しなおしてくれた。船は「大丈夫大丈夫」と言った。
ただ、救難信号の方向に船らしい船が見当たらないとオイスターは言う。予定としてはこの問題ありそうな便利空間を使ってもう一度魔界へ飛び込むことにしていた。航路設定はまるまる船任せなので、そうしたことも引き返せないところまで来てから口頭で告げられたわけで。その上でなお、謎の救難信号という関わったらいかにも妙なことになりそうなそれの発信源へ、行くか行かないか。その判断を、オイスター号はキャプテン・ロディに委ねてきてるのだ。
「う~ん」と少しうなってからロディは。「行くだけ行ってみるしかないでしょ」と答えた。
発信源をさぐるために周囲を調べたとき、このあたりの宙域に存在する船と言えるような船は、オイスター号だけだった。オイスター号を船と言えるような船から除外し、救難信号の発信源も船とは思えないとすると、この宙域に存在する船はゼロということにもなる。船らしい船が存在しないのならば、救難信号に応答する必要もないのではないか、とロディは一瞬だけ考えた。が、それはそれで面倒になりそうな気がしたのだ。もう、どうとでもなれ、といった心境。
「運命、ね」
キャプテンシートこと木製肘掛け椅子でロディは片方のひじかけにもたれて頬杖をつき、進行方向を睨むようにぼんやり眺めて、つぶやいた。
発信源にたどりついて、ロディは目をこすった。正面両開きの窓辺から身を乗り出すようにして、肉眼で視認できたそれ。暗黒の宇宙空間を漂っていたのは、古めかしいホウキをしっかり抱き抱えた、白い髭を長くたたえた頭髪のない年配の男性、だった。その年寄りは、寒そうに震えながら、無重力の空間でゆっくり回転していた。キャビンのロディとお互い顔がわかるほどすぐ近くに寄せて、オイスター号は静かに停止した。その気配で年寄りはつむっていた目を開け、左右ちぐはぐの小さな船を、それからロディの姿をキャビン内に見る。年寄りは、震える手をロディのほうに伸ばしてきた。ロディは、思わず後ずさった。
「どういたしますか、キャプテン」
オイスター号が慇懃に言った。
ロディは年寄りをまっすぐ指差して言った。
「砲撃」
「アイサー!」
「なわけないでしょ」
「よかった。びっくりしたよ」
キャビン後方の木製ハッチから這い出しかけていたニオルクゴールが、どこまで本気かわからない棒読みで言いながら、救助のために飛び出していった。全長2メートルのセキセイインコであるニオルクゴールは、甲板部の重力範囲に引かれてゆっくり落ち始めた老人を、飛んでいって足でつかまえてバサバサと持ち帰ってきた。
甲板に雑に転がされた老人は、衰弱と安堵と恐怖と想定外の痛みが入り交じったややこしい表情をしていたが、眼光はまあまあギラついていて、とりあえず今にも死にそうには見えなかった。遅れて出ていったロディが声をかけ、肩を貸し、甲板下の船室にどうにかこうにか運び込む。オイスター号が気持ち重力を弱めてくれたので、なんとかなった。で、この船にひとつしかないベッドに(しかたなく)横たえる。
厨房からコップに水を入れて戻ってきて、それを差し出しながら、ロディは「あの…」とおずおず声かける。「…なにやってたんです?」
「なんぱ、になるのかな」
ロディは、またも後ずさった。
「難破だ、難破!」
「あ、あぁ……」そりゃそうか、とロディは気を取り直した。おじいさん、元気そうでなにより。
「というか、なぜあんな状況で難破に至るようなことになったのか、ということです。なにがあったんです?」
ニオルクゴールがロディの気持ちを代弁してくれた。ロディは、賢いインコが頼もしく見えた。
老人はよっこらしょと体を起こし、ロディの持ってきたコップの水をひとくち飲んでから、こう言った。
「わしは、チコバ。魔法研究所をやっておる」
その名を聞いて、ニオルクゴールが素人目に見てわかるほどテンションが上がった。
「チコバって、あのチコバ博士ですか!」
「さ、さよう。わしがチコバだが」
ニオルクゴールはロディを押し退けん勢いでベッドサイドに詰め寄り、老人に迫る。
「博士の著書、愛読させていただいてます!」
「お、おお……」
言いながら老人は、いくぶん嬉しげな顔になり、ベッドから立ち上がった。タフな年寄りだった。
「小型宇宙船の研究に関する実験中の事故でな、丸2日ほどああしていた」
「よくご無事で」
「運が良かった。それより、この船を少し見せてもらえないだろうか」
ニオルクゴールは嬉しそうに、どうぞどうぞ、とキャビンへの道を空けた。あたしの船なんだけど、とロディは思った。が、魔法オタクなインコのはしゃぎようからして、本当によほどの専門家なのだろうと察する。基礎的な魔力が常人のそれを凌駕してるようなら、丸2日ナンパしてたとしても、その超人的精神力の出所に納得もいく。ここはひとつ、おとなしく専門家に船を見せてみるのも悪くないかな、とロディも判断した。
チコバ老人はタラップというか梯子のような急な階段をえっちらおっちら登り、メインブリッジにしているキャビンに顔を出す。そして「おお」と感嘆したような声をもらした。真剣な目付きと神妙な面持ち、いわゆるスイッチの入った仕事人の顔つきになったチコバ博士は、テーブルに顔を近づけたりキャプテンシートのせもたれを撫でたり、そこらの扉を勝手に空け閉めしたり、床に這いつくばってフローリングの小傷をひとつひとつ観察したりした。
そして、やおら起き上がり、2人(1人と1羽)の正面に立った。ロディが息をのみ、ニオルクゴールも緊張する。
チコバは、言った。
「間違いない。ここはかつて、ダイニングキッチンだった」
ロディの表情が、いっぺんに力の抜けた顔になった。
つづく