Fooled for Your Loving -エリート会社員は友と音楽に思いを馳せる-
藤間大介が久々に故郷を訪れた切っ掛けは、仕事だった。業者の営業担当に押し切られ、先方の工場視察に来ることになったのだ。高校生の頃に親の仕事の都合で離れて以来、二十数年振りに訪れる故郷を懐かしむ暇もなく、半日近く事業所内を見学して回った後、そのまま近くの割烹に案内された。酒席で提供されたのは、日本全国何処に行っても飲むことのできるビールと、地元特産という謳い文句でありながら藤間は食べた覚えのない魚と、東京と変わらない退屈な接待だった。
「藤間さん、お若くいらっしゃるのに部長さんとはさすがですね」
頬を赤く染めた営業担当者が、藤間のグラスにビールを注ぐ。藤間は申し訳程度に口をつけた。
「若いといっても、もう四十ですよ」
「ですが大企業の部長さんとしては異例の若さでしょう。色々と実績をお持ちだからだと思いますが、本当に素晴らしい!」
営業担当者に返杯をしながら、藤間は心の中で苦笑した。別段出世欲があった訳でもなく、ただ目の前の仕事をこなしてきただけのつもりだったが、気付けば同期の中では一番昇格が早かった。この会社での仕事が性に合っていたのかも知れない。
二次会の誘いを丁重に断り、そのまま夜の街を歩き出した。東京から然程離れてはいないが、先方の厚意でホテルを用意してもらっていた。どうせ後は寝るだけなので、藤間は自分の記憶を辿る旅に出ることにしたのだ。記憶の中の光景と比べて、薄闇の中広がる街は控えめに佇んでいるように感じた。街灯の光も藤間の自宅近辺と比べると慎ましやかである。こんなに静かな街だったか、と思い返そうとしても、二十年以上前の記憶は褪せていて現実味が感じられなかった。
段々と酔いも醒め、当てのない彷徨を終わらせようと思った時、薄闇の先にぼんやりと灯る光が見えた。ふと興味を惹かれ、近付いてみるとそれはバーのようだった。扉に掛けられた木の札を見て、藤間の心は、おや、と小さく揺れた。
『Fool for your loving』
それは藤間が若かりし頃よく聴いていた――そう、丁度この街に住んでいた頃好きだった歌のタイトルだった。何か運命めいたものを感じ、藤間はドアのノブに手をかけた。折角の夜だ、ひとりでゆっくりと飲み直すのも悪くない。
「こんばんは」
木製のドアを押し開けると、軋んだ音と共に七十年代のロックが耳に飛び込む。藤間の慣れ親しんだバンドの曲だった。店の中は外観通り狭く、他に客がいる様子もない。一瞬外れの店に入ってしまったかと思ったが、BGMに誘われて藤間はそのままカウンターに座った。カウンターの奥から若い女性が現れ、藤間はほっと息を吐いた。
「いらっしゃいませ。何になさいますか?」
カウンターに並ぶウイスキーの中から、ジャック・ダニエルをロックで注文する。差し出されたグラスを傾けながら、余韻に耽っていると、店員がドライフルーツを持ってきた。
「お客さん、初めてですよね。何故このお店にいらしたんですか?」
答えようとして――藤間は言い淀み、そして言葉を変えた。
「久々に故郷に戻ってきましてね、ゆっくりおいしいお酒が飲みたいと思ったんです」
「地元なんですね。何年振りですか?」
「もう二十年以上前ですよ」
「逢いたい友達はいないんですか」
「――どうだろう」
グラスの氷が鳴る。藤間の瞼の裏には、一人の少年の姿が蘇っていた。
***
朝の陽射しが眩しかった。藤間が教室に着くと、中学時代から仲の良かった友人が「大ちゃん」と近付いてくる。
「おはよう、今朝から席変わってるよ」
「え、もうテストの結果出たの?」
当時藤間の通っていた高校は、定期テストの度に席替えがあった。点数の良い順番に前から並ぶのだ。点数が悪い生徒が後ろの席では、授業に集中できず悪循環になるのではないかと思ったが、比較的点数の高い藤間にとっては特に気にならなかった。
「大ちゃんさすがだなー、また一列目」
「たまたまヤマが当たっただけだって」
適当に答えながら壁に掲示された座席表を見て、おや、と思った。
「隣の席、誰だ?」
「上條だよ、隣の中学にいた奴。大ちゃん知らない?」
席に目を向けると、線の細い真面目そうな少年が座っていた。もうすぐ入学して一年近くが経とうとしているのに、顔を見てもいまいちぴんとこない。藤間は自分の席に向かった。
「上條おはよう」
声をかけると、上條は驚いたように藤間を見た。眼鏡の奥では色素の薄い瞳が気弱そうに揺れている。一度も染めたことがないであろう真っ黒な髪は彼の生真面目さを引き立たせるようだった。
「あっ……藤間くん、おはよう」
見た目に反せず、声も弱々しかった。何もしていないのに怯えられているようで、少しばつが悪くなりながらも藤間は笑顔を作る。
「これからよろしくな」
上條は無言で頷いた。
状況が変わったのは、その日の休み時間のことだ。
「大ちゃん学食行く?」
「いや、最近金欠だから、席でパン食うわ」
友人を見送り、藤間は鞄の中からパンを出した。イヤホンを耳に挿しながらふと隣を見ると、上條の机の上にもパンが置いてあった。いつも一人で食べているのだろうか、と思いながら様子を見ていると、上條は鞄の中から或る物を取り出した。
――ヘッドホン?
上條には似つかわしくない、大きめのヘッドホンだ。英語の勉強でもするのかと思いながら観察を続けていると、次に上條はピンク色のCDを取り出した。それは、藤間にとっても見覚えのあるものだった。
「――エアロの新作?」
びくん! と上條が藤間を振り返る。その目は驚きに見開かれ、瞳はきらきらと光を含んでいた。先刻までの弱々しい表情との差に、藤間は思わず口を噤んだ。
「藤間くん……エアロスミス、知っているの?」
「知っているも何も……俺も持ってる。映画の曲入ってるやつだろ」
「そ、そう! 映画すごく流行ったもんね。その曲が好きなの?」
「いや、あれもいいけど、俺は6曲目が好きかな」
上條の表情がぱぁっと華やいだ。
「俺も6曲目が一番好き!」
屈託のないその笑顔に、こんな顔もできるのかと驚き、そしてその表情は深く藤間の心に刻まれた。それを切っ掛けに、二人は休憩時間の度に、音楽談議に花を咲かせるようになった。
「上條、何聴いてるの?」
「これ? 古いんだけど、格好良いよ。藤間くんも聴いてみる?」
上條が差し出したヘッドホンを受け取り耳に当てると、ギターの戦慄きとドラムの唸る音が飛び込んできた。
「格好良いな。声がディープ・パープルに似てない?」
「藤間くん、すごい。これ、ディープ・パープルのボーカルが組んだ別のバンドなんだ」
「へぇ、俺も今度買おうかな」
「俺も一枚しか持ってないんだけど、おすすめだよ」
その内、二人は学校帰りに中古CDショップによく立ち寄るようになった。
「CD屋に行くと金欠になるよな」
「そうなんだよね。だから俺、いつもお昼パンで済ませて節約してるんだ」
上條と自分が同じ考えだったことに藤間は驚き、そして満更でもない気持ちになった。これまで友人は沢山いたが、こんなに趣味が合う相手はいなかった。上條は藤間にとって、初めての存在だった。
CDショップを出て駅まで向かう途中、あ、と上條が足を止めた。何かと思い振り返ると、其処には楽器屋があった。
「上條、楽器弾けるの?」
「弾けるって程じゃないよ。でも、ギターが好きなんだ。お店があるとつい見ちゃうんだよね」
初耳だった。確かに上條はギターの目立つ曲やバンドを好んでいるようだった。
「すごいじゃん。ギター持ってるの?」
「一本だけね。ずっとお小遣いもお年玉も貯めて、やっと買ったんだ」
「確かにギター高いもんな。俺の兄貴もバイト代全部消えるって言ってた」
「藤間くんお兄さんいるの?」
「うん、大学でバンドやってるんだ」
「すごい! 知らなかったよ。でも、藤間くんの好きな曲、ギターが目立つの多いもんね。お兄さんの影響もあるのかな」
直前に自分が上條に思ったことと同じことを言われ、藤間は思わず吹き出した。上條は首を傾げながらも、嬉しそうに笑った。
帰宅した後、藤間は兄に上條の話をした。
「大介の友達ギター弾けるのか。丁度良い、今度バンド練習やるんだけど、一回くらいツインギターやってみたいと思ってたんだ。そいつ今度の日曜日連れて来てくれないか?」
意外な兄の言葉に、藤間は目を丸くする。
「声は掛けてみるけど、どの位弾けるのかわからないよ?」
「大丈夫だって。メインは俺が弾くし、コードさえ押さえられれば十分だよ」
藤間は思案した。最近藤間には明るく話しかけてくるようになったとはいえ、あのおとなしく気弱な上條が知らない大学生に混ざって演奏などできるのだろうか?
「おとなしくて人見知りな奴だから、あんまり期待しないでよ」
「それならお前も来れば良いだろ。ボーカルやらせてやるよ」
兄の提案に、再び藤間は目を丸くした。
翌日、上條にその話をすると、案の定表情が引き攣った。
「俺、人前で弾いたことなんてないよ」
「俺だってカラオケ以外で歌ったことなんかねーよ」
うーん……と困った顔をしたまま、上條は俯いた。予想通りの反応ではあったが、一方で藤間は上條のギターを聴いてみたいと思っていた。自分も人前で歌うことになるとは思ってもみなかったが、上條とセッションできる機会などこれを逃したらないだろう。
「――考えようによってはさ、バンドで演奏できるなんてなかなかないし、良い機会だと思えば良いんじゃない? 上條も折角ギター練習してるんだったら、誰かに聴いてもらいたいだろ?」
暫くの沈黙の後に、上條が顔を上げる。その表情は、弱々しいながらも決意の色に染まっていた。
スタジオ練習の日がやってきた。兄と一緒に待ち合わせの駅に到着すると、ギターケースを背負った上條が既に立っていた。チェックのシャツに少し色褪せたジーンズと、お世辞にもおしゃれとは言い難い出で立ちに、兄の表情が曇った。兄の様子に気付かない振りをして、藤間は敢えていつもより明るめの声で上條に声をかけた。
「上條早いな」
「藤間くん、おはよう。なんか緊張しちゃって……」
弱々しそうに笑んだ後、上條は兄に気付き、慌てて頭を下げた。
「お兄さんおはようございます。上條と申します。いつも大介くんにお世話になっています。今日はよろしくお願いします」
馬鹿丁寧な挨拶に毒気を抜かれたのか、兄も微笑み「よろしく」と返した。
三人でスタジオに到着すると、既に他のメンバーが集まっていた。「おー、藤間ジュニア格好良いね。お兄ちゃんに似ずイケメンじゃん」
「ありがとうございます、よく言われます」
「おい、どういう意味だよ」
兄やメンバーと軽口を叩きながら上條の様子を窺うと、上條はスタジオ内をキョロキョロと見回していた。その目が、初めて音楽の話をした時のように輝いているのを見て、藤間はほっとした。
軽く音出しをしようという話になり、楽器の準備を始めた兄達に混ざって上條もギターケースからギターを取り出した。おっ、と兄が声を上げる。
「へぇ、上條くんレスポールなんてしぶいね。重くない?」
「あ、はい……でも、好きなんです。格好良くて」
そう答えながらギターを構える上條。その姿がやけに様になっていて、藤間は意外に思った。真剣にギターのチューニングをする様子からは、いつもの弱々しさが消えている。
「大介くん、いきなりだけど歌える?」
「あ、はい」
メンバーの声に一気に現実に引き戻され、藤間は慌てて返事をした。上條の知らない一面に、新鮮な驚きと戸惑いがあった。そして、それは演奏練習が始まって、更に大きくなった。上條は間奏でメインのギターパートを弾いたのだった。
「上條くん、そっちは俺のパート」
兄が慌てて演奏を止め、上條に声を掛ける。しかし、上條は周囲の演奏が止まっていることに気付かず、瞼を閉じて弾き続けていた。そのギターの音色が踊るように響き渡るのを、藤間達は呆気に取られて聴いていた。三十秒は続いただろうか、上條の目が開き、そして演奏が止まった。
「あっ……ごめんなさい、俺、間違えちゃいましたか?」
その表情はいつもの気弱な上條だった。兄は興奮した様子で上條の背中を叩いた。
「いや、良いよ! 上條くんがそっちのパート弾いて。驚いたなぁ、君すごくギター上手いんだね。見違えたよ!」
上條は一瞬きょとんとした後、見る見る頬を赤く染めていった。そして、小声で、ありがとうございます、と呟く。藤間はそんな一部始終を見守ることしかできなかった。
その後何度かセッションをしたが、藤間はあまり覚えていない。それだけその日の上條の姿が衝撃だった。気付けば帰り道で、既に上條とは別れ、兄と二人で夜の街を歩いていた。
「お前の友達すごいな。あれ独学だろ? 良いもん聴いたわ」
「――あぁ」
「何だよ、ノリ悪いな。お前の歌も良かったぞ」
兄の言葉に藤間は複雑な感情になった。上條のことを褒められるのは嬉しいが、今日の上條は藤間の知らない上條だった。いつも気弱そうな表情で、教室にぽつんと一人でいる上條はそこにはいなかった。藤間だけでなく、その日その場にいた全員が上條に「才能」を感じたのだ。その圧倒的な力は、大体のことを器用にこなせる藤間を叩きのめした。感嘆と困惑と尊敬と嫉妬がないまぜになり、藤間は何故か裏切られたような気持ちにさえなっていた。
翌朝、藤間が登校すると、教室に上條の姿はなかった。いつも藤間よりも前に登校するのにおかしいと思いながら、席に着く。始業のベルが鳴ったが、上條は現れない。授業を受けながら、藤間はもやもやとした気持ちを抑えられないでいた。その時、静かに教室のドアが開いた。
「すみません、遅刻しました」
いつもと変わらない、気弱な声が小さく教室に響いた。教師に促され、上條は藤間の隣の席に座った。そこにいたのは、藤間のよく知っている上條だった。
「昨日はありがとう」
休み時間に先に話しかけてきたのは、上條の方だった。藤間はどこかほっとしながら、口を開いた。
「いや、お前すごくギター上手くてびっくりした。今日どうしたの?」
上條は照れたように笑った。
「実は、昨日興奮して全然眠れなくて……寝坊しちゃったんだ」
「そう。まぁ、ノリノリだったもんな」
「うん。すごく楽しかった――藤間くんの歌が聴けて」
藤間は自分の耳を疑った。そんな藤間の様子に気付くことなく、上條は嬉しそうに続けた。
「藤間くんすごく歌声綺麗だね。耳が良いから、英語の発音も自然だし、本当に格好良かった。俺、ギター弾いていてワクワクしちゃった。誰かと一緒に音楽をするって、すごく楽しいんだね」
藤間は自分の胸の奥が静かに熱を持っていることに気付いた。そして、ちくちくと疼いていた針が消えたことにも。
「――藤間くんの言う通り、勇気出して行ってみて本当に良かった。俺の人生でこんな経験、これまでなかったから。本当にありがとう」
その時の穏やかな笑みは、初対面の時と同じく、藤間の目に焼き付いた。
***
「――お客さん?」
意識を抉じ開ける声が響き、藤間は目を開けた。気付けば手元のグラスは空になっていた。すっかりと思い出の海に沈んでしまっていたようだ。お代わりをオーダーすると、ボトルが空になったのか、店員はカウンターの奥に引っ込んでいった。藤間は店員が置いていったグラスの水を煽った。
あのセッションから程無くして、藤間は転校した。大学生の兄と違って、親と別居して現在の高校に通い続けるという選択肢は藤間にはなかった。電話やメールでも友人達と連絡は取ることができるし、特に感慨はなかったが、唯一の心残りは上條と離れ離れになることだった。わざわざ電話やメールをする程でもない、他愛のない毎日の上條との会話が、当時の藤間にとっては何よりも大切なものだった。しかし、その一方で藤間は安堵もしていた。あの圧倒的な才能を見せ付けられた後では、これまで自分が築き上げてきた何もかもに自信を喪くしてしまいそうだった。
しかし、転校先の生活に慣れるにつれて、その気持ちも影を潜めていった。大学に入学した頃には、高校までとは異なる新しい世界の中で、上條のことを思い出すことは殆どなかった。藤間は日々を全力で駆け抜け、そして二十数年の時が過ぎ、初めてこの地に戻ってきたのだ。
「――あいつは今頃、何をやっているのかな」
ぽつりと呟く。店内には、奇しくも記憶の中の曲が流れていた。
店の扉が開く。新たな客が来たようだ。藤間はテーブルの上のレーズンをつまんで、また静かに目を閉じた。不思議な空間だった。いくら故郷とはいえども、この店内は何故かどうしようもなく懐かしかった。藤間の隣の席に人が座る気配がした。
「――このお店は初めてですか?」
隣の席の男に声をかけられた。
「ええ。落ち着いた良いお店ですね。何よりBGMが最高だ」
「そうですね。思い出の曲です。初めて友人とセッションした曲だ」
藤間は目を開けた。振り向くと、其処には記憶の中で対峙していた男が座っていた。
「――上條……」
「藤間くん、久し振り。変わらないね」
お前の方が変わらない、と藤間は思った。同年代で早い者なら白も交じり始める髪は十代の頃と同様に黒々としたままで、その姿は記憶の中から抜け出してきたようだった。二十年振りの友の顔は、当時と変わらぬ少し弱々し気な笑みを湛えてそこにあった。
「元気? 今は何をやっているの?」
「何って……まぁ、サラリーマンだよ。普通のな」
名刺を一枚、胸ポケットから取り出して上條に渡す。上條は目を輝かせた。
「すごい、有名な会社じゃない。しかももう部長さんなの」
「――別にすごくはないさ」
上條を前に、会社の話しかできない自分を藤間は恥ずかしく思った。どんなに早く出世しても、役員の覚えが良くても、上條の前では何の役にも立たないことなのだ。
「藤間くんはすごいよ。あの時から思ってた。友達が沢山いて、明るくて、頭も良かった」
上條が名刺から顔を上げた。
「初めて藤間くんが俺に話しかけてくれた時、嬉しかった。人生で交わることのない人だと思っていたから。それから、音楽の趣味が合うことがわかって、本当に驚いた。藤間くんと共通点があることが嬉しかった。セッションもすごく楽しかったよ。――藤間くんが、俺の音楽の扉を開いてくれたんだ」
上條の足元を見ると、ギターケースが置いてあった。それに気付いた時、藤間は自分の目に映る景色が小さく揺れていることに気付いた。涙腺が決壊しないよう小さく息を吐き、ぽつりと呟いた。
「――まだギター、弾いてるんだな」
「勿論。仕事しながらだけどね。藤間くんは歌ったりしないの?」
「しないな。カラオケにも行かなくなった」
「それは勿体ないな、あんなに上手なのに。良かったら今度歌いに来てよ。九時から五時まで仕事をしても、夜は誰もがロックスターさ」
上條の気取った物言いに吹き出し、漸く藤間は平静を取り戻した。
「それも良いな。考えておくよ」
「約束だよ」
上條がまた、弱々しく微笑んだ。
「――大丈夫ですか?」
店員の声が響き、藤間は目を開けた。目の前には心配そうな店員の顔があった。どうやら眠り込んでいたようだった。
「お水どうぞ。お代わりはキャンセルしておきますね」
礼を言って水を飲む。ふと隣の席を見たが、上條の姿はない。
「すみません、この席のお客さんは帰りましたか?」
藤間の問いに、店員は不思議そうな顔をする。
「今の時間にいらしたお客さんはあなただけですよ。他にどなたかいらっしゃいましたか?」
「そうですか……いえ、酔っていたようです。お会計お願いします」
釈然としないながらも、支払いを済ませる。あの上條は本物だったのだろうか? それとも、夢を見ていたのだろうか? いや、どちらでも良い。もし夢であったとしても、藤間にとってはとても良い夢だった。忘れかけていた思い出を浄化し、今の自分を肯定してくれたのだから。
店を出ようとして――ふと、藤間は足を止めた。
「そういえば、このお店の名前の由来はどういう意味なんですか?」
「何だか有名な曲から取ったみたいですよ。私はよく知りませんが。お客さんもご存知なんですか?」
興味の無さそうな店員の返事に、藤間は苦笑した。まぁ若い女性にとってはそんなものなのかも知れない。
「とても良い曲ですよ。良かったら聴いてみて下さい」
そう言い残し、藤間は店を出て行った。
店員が藤間の席を片付ける。ふと壁の時計を見上げると、針はもうすぐ十二時を回ろうとしていた。カウンターの上を拭きながら、店員は声を上げた。
「店長、もう店じまいして良いですか?」
控室の扉が開き、中から男が現れる。彼はギターを担いでいた。
「店番おつかれさま。バイト代上乗せしておくね」
「ありがとうございます。ライブ盛り上がりました?」
「まぁまぁかな」
「今日はあまりお客さん来ませんでしたよ」
「そう? まぁそのくらいいいや。今日は――とてもいいことがあったから」
胸ポケットから藤間の名刺を取り出し、男――上條は、満足そうに微笑んだ。
(了)
最後までお読み頂きありがとうございました。
本作は第1回川端康成青春文学賞に「青春」というテーマで投稿した作品です。当初は青春真っただ中の少年少女の話にしようかと思ったのですが、成熟した主人公が昔を懐かしみながらも、当時感じた小さなほろ苦さを浄化できるような、そんな救いのある話にしたいなと思い、最終的にこうなりました。青春と言えば恋愛も勿論大事ですが、個人的にはやっぱり友情かなと思っています。