end
「もう、やめよう、トオマ」
絞り出すような声で、アナは言った。
それだけで精一杯のようで、あとは何も言わなくなる。まばたきをこらえて何とか涙をこぼすまいとしているけど、目のふちにたまった涙がこぼれ落ちるのは時間の問題だった。
「アナ……」
震えるその細い肩を、トオマはそっと抱きしめる。彼女は抵抗せず、そのままおとなしく身体を預けていた。
彼女を抱きしめるのは、五十年ぶりになるらしい。けれどトオマの記憶では、彼女とはいつも、抱き合ってばかりだった。
トオマは目覚めたとき、必ずアナと触れ合っている。
もう何度繰り返したかわからない、海での眠りと目覚め。それはトオマが唯一、アナと生き続けるための方法だった。
「もう、だめだよ。これ以上眠ったら、トオマ、起きれなくなっちゃう……」
こらえきれずに、アナが涙をこぼす。だまって肩に顔をうずめさせ、トオマはその長い髪を指にからめた。彼女からはいつも、太陽と潮の香りがした。
「少しずつ、眠る前のこと、思い出せなくなってきてるでしょう? 記憶が、はじめてここに来たときのものになっていたでしょう? 本当は今回のトオマ、目を覚ますのに、とても時間がかかったのよ」
自分は眠りの海で、アナとともに生きる。そう約束したのは、いったいいつだったろう。山を黒く焦がしたあの戦も、もう遠い昔のことなのだ。
「あの海もね、珊瑚に同化しすぎて、起きられなくなることがあるの。このまま繰り返してたら、トオマ、起きられなくなっちゃう」
一度あふれた涙は止められないようで、アナは泣きじゃくりながら、トオマを抱きしめた。何度目覚めても、彼女の姿は変わらない。対して自分は、少しずつながらも年をとっていた。
どんなに海で眠ろうとも。目覚めている時の間だけ、トオマは年をとる。アナと違って、不老不死にはなれない。だからできる限り海で眠り、百年に数日だけ目覚めて、彼女と触れ合うことが、アナと交わした約束だった。
「いいんだ、アナ。俺は、アナと一緒に、この海にいるって決めたんだ」
彼女はなぜ、自分が湖の管理をすることになったのか、決して話さない。トオマと初めて会ったとき、彼女はすでに不老不死であり、長い年月を生きていた。そしていつも、眠りの海でうたっていた。
「アナが永遠にこの海にいるのなら、俺も一緒にいるよ。もしこの海から開放されたら、アナ、俺と一緒に生きよう」
何度も繰り返す約束。トオマは目覚めるたびに、同じ言葉をささやく。けれど彼女がその言葉を聞くのは、一人の命が生まれ、死ぬまでの、長い年月に一度だった。
彼女の涙は、トオマが眠っている間にこらえていたぶんを、吐き出しているような涙だった。そして涙を出してぽっかりと開いた心を埋めるように、トオマはささやき続けた。
「眠ってるときのこと、ほとんど覚えてないけど、アナの歌だけは覚えてるよ。アナがうたってくれたら、俺は必ず目を覚ますから」
だから、この海で、俺は眠り続けるよ。
すべての涙を出し切った後。彼女はかすかに、うなずいた。
トオマが再び眠りについたのは、それから数日後のことだった。
毎日、アナと触れ合い、彼女が満足するまで抱き合った。話をした。口付けをした。必ず目覚めると何度も約束した。
手をつないで湖面を歩き、いつもの場所で、手を離す。アナの歌声がよく届く、宿に近い湖のほとり。もう一度口づけを交わして、トオマは水の中に横たわる。
珊瑚の上に身体を乗せ、しんと静まり返った湖に、身体のすべてをゆだねる。
歌声が聞こえる。
その古の言葉は、トオマが生まれた時代よりも、さらに昔のものだ。いつぞやかアナに意味だけは教えてもらっていたけれど、長い眠りのせいか、記憶が危うくなっている。
『あなたが眠り、目覚めるまで。
私はあなたを想い、歌い続けます』
遠ざかってゆく意識の中、彼女の声が、海の中に響き渡る。音叉の響きのように、どこまでも響くその声は、眠りの浅くなった人々の心をも落つかせているようだった。
唇から、最後の息が漏れる。苦しくはない。
彼女の腕に抱かれるような、包み込まれるような安堵感。それを感じながら、トオマは意識を手放した。
声が聞こえる。
歌が聞こえる。
彼女は今日も、眠りの海でうたい続ける。
END