表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/6

end

「もう、やめよう、トオマ」

 絞り出すような声で、アナは言った。

 それだけで精一杯のようで、あとは何も言わなくなる。まばたきをこらえて何とか涙をこぼすまいとしているけど、目のふちにたまった涙がこぼれ落ちるのは時間の問題だった。

「アナ……」

 震えるその細い肩を、トオマはそっと抱きしめる。彼女は抵抗せず、そのままおとなしく身体を預けていた。

 彼女を抱きしめるのは、五十年ぶりになるらしい。けれどトオマの記憶では、彼女とはいつも、抱き合ってばかりだった。

 トオマは目覚めたとき、必ずアナと触れ合っている。

 もう何度繰り返したかわからない、海での眠りと目覚め。それはトオマが唯一、アナと生き続けるための方法だった。

「もう、だめだよ。これ以上眠ったら、トオマ、起きれなくなっちゃう……」

 こらえきれずに、アナが涙をこぼす。だまって肩に顔をうずめさせ、トオマはその長い髪を指にからめた。彼女からはいつも、太陽と潮の香りがした。

「少しずつ、眠る前のこと、思い出せなくなってきてるでしょう? 記憶が、はじめてここに来たときのものになっていたでしょう? 本当は今回のトオマ、目を覚ますのに、とても時間がかかったのよ」

 自分は眠りの海で、アナとともに生きる。そう約束したのは、いったいいつだったろう。山を黒く焦がしたあの戦も、もう遠い昔のことなのだ。

「あの海もね、珊瑚に同化しすぎて、起きられなくなることがあるの。このまま繰り返してたら、トオマ、起きられなくなっちゃう」

 一度あふれた涙は止められないようで、アナは泣きじゃくりながら、トオマを抱きしめた。何度目覚めても、彼女の姿は変わらない。対して自分は、少しずつながらも年をとっていた。

 どんなに海で眠ろうとも。目覚めている時の間だけ、トオマは年をとる。アナと違って、不老不死にはなれない。だからできる限り海で眠り、百年に数日だけ目覚めて、彼女と触れ合うことが、アナと交わした約束だった。

「いいんだ、アナ。俺は、アナと一緒に、この海にいるって決めたんだ」

 彼女はなぜ、自分が湖の管理をすることになったのか、決して話さない。トオマと初めて会ったとき、彼女はすでに不老不死であり、長い年月を生きていた。そしていつも、眠りの海でうたっていた。

「アナが永遠にこの海にいるのなら、俺も一緒にいるよ。もしこの海から開放されたら、アナ、俺と一緒に生きよう」

 何度も繰り返す約束。トオマは目覚めるたびに、同じ言葉をささやく。けれど彼女がその言葉を聞くのは、一人の命が生まれ、死ぬまでの、長い年月に一度だった。

 彼女の涙は、トオマが眠っている間にこらえていたぶんを、吐き出しているような涙だった。そして涙を出してぽっかりと開いた心を埋めるように、トオマはささやき続けた。

「眠ってるときのこと、ほとんど覚えてないけど、アナの歌だけは覚えてるよ。アナがうたってくれたら、俺は必ず目を覚ますから」

 だから、この海で、俺は眠り続けるよ。

 すべての涙を出し切った後。彼女はかすかに、うなずいた。


 トオマが再び眠りについたのは、それから数日後のことだった。

 毎日、アナと触れ合い、彼女が満足するまで抱き合った。話をした。口付けをした。必ず目覚めると何度も約束した。

 手をつないで湖面を歩き、いつもの場所で、手を離す。アナの歌声がよく届く、宿に近い湖のほとり。もう一度口づけを交わして、トオマは水の中に横たわる。

 珊瑚の上に身体を乗せ、しんと静まり返った湖に、身体のすべてをゆだねる。

 歌声が聞こえる。

 その古の言葉は、トオマが生まれた時代よりも、さらに昔のものだ。いつぞやかアナに意味だけは教えてもらっていたけれど、長い眠りのせいか、記憶が危うくなっている。

『あなたが眠り、目覚めるまで。

私はあなたを想い、歌い続けます』

 遠ざかってゆく意識の中、彼女の声が、海の中に響き渡る。音叉の響きのように、どこまでも響くその声は、眠りの浅くなった人々の心をも落つかせているようだった。

 唇から、最後の息が漏れる。苦しくはない。

 彼女の腕に抱かれるような、包み込まれるような安堵感。それを感じながら、トオマは意識を手放した。

 声が聞こえる。

 歌が聞こえる。


 彼女は今日も、眠りの海でうたい続ける。




      END


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ