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「おはようございます。よく眠れました?」
青年は、しばらくきょとんと、アナの顔を眺めていた。まだ頭が完全に覚醒していないようで、しきりに周囲を見回しては、自分が今どこにいるのか思い出そうとしている。
「……レイチェル」
そしてそう呟き、アナを抱きしめた。
「違う。レイチェルはあたしじゃないわよ」
アナは突然の抱擁に驚きもせず、なれたように青年から身体を離す。そしていまだに眠り続ける少女を指差し、彼女こそがレイチェルだと教えた。
「約束どおり、戦が終わったので起こしましたよ。もう、安心して暮らせますからね」
けれど青年の耳に、その言葉は届かない。ベッドから飛び起きた彼は、少女の身体を抱き起こして、その唇に深い口付けをしたのだ。
眠り姫、レイチェルも、その口づけでようやく目を覚ましたのだった。
「あのふたりは……どれぐらい眠ってたんだ?」
長い眠りについていたにも関わらず、ふたりは目覚めると、すぐに宿を去っていった。
「どれぐらいだろ? まぁ、軽く千年ぐらいはたってるけどね」
あっけらかんとしたアナの口調に、トオマは思わず聞き流しそうになる。
「千年?」
「そうよ。戦が終わってすぐっていっても、生活のしづらさはしばらく続くでしょ? だから終わっても様子見てたの。そうしてるうちに、あのふたりも古株になってたのよね」
ふたりの姿を見送り、アナは宿に戻る。めずらしく宿に他の客はなく、トオマとアナのふたりきりだった。
彼女はトオマが眠りの海の真実を知るまで、夜に客人たちを眠らせ、起こしていたらしい。だからトオマが気づかぬうちに、宿の顔ぶれが変わっていたのだ。
「眠っている人の管理とかは、なんか紙とかに書いてたりするのか?」
「いいえ、全部あたしの頭の中よ」
「じゃあ、代々情報を引き継いで?」
「……引き継ぎ?」
トオマの言葉にきょとんとして、アナは、ああそうかと笑った。
「あたし、不老不死なの。だからこの湖の管理は、今までもこれからも、あたしがずーっとやっていくのよ。永遠にね」
彼女は軽い口調で言いながら、洗濯物を取り込みに行こうと、トオマに背を向けた。
「さっきのあの子たちも、最初は時代の変化に戸惑うと思うけど、駆け落ちに反対する家族ももういないからね。のびのび暮らせるんじゃないかな?」
「アナ……」
その切なげな横顔に、トオマは思わず、彼女の手をつかんで引き止めていた。
「なぁに?」
トオマ? と呼ぶ唇に、自分の唇を重ねる。
とたんに、強いめまいが襲った。
アナは、もう戦は終わったと言っていた。
ではなぜ自分は、今も戦から逃げ続けているのだろう――
そこで、トオマの意識は途切れた。
○○○
まるで誰かに優しく揺り起こされるような、そんな穏やかな目覚めだった。
シーツの上で軽く身じろぎして、トオマは身体を起こす。少し古びたベッドは、体重の変化に合わせて、スプリングが鈍くきしんだ。
頭の中で、誰かの声が響いている。歌が聞こえる。それが何の歌なのか、どこの国の言葉かですらわからないうちに、声は耳から抜けて消えていってしまった。
「あ、起きた?」
アナの声に、トオマの朦朧としていた意識が、ようやく覚醒した。
「のどかわいてるでしょ。水、飲む?」
「……飲む」
声が枯れて、うまく喋れない。額から伝う汗の量が多く、どうりでのどが渇くはずだと思った。アナから受け取った水はすぐに飲み干し、空になったコップに彼女はもう一度水を注いでくれた。
トオマがほっと息をついたのは、三杯の水を飲み干した後だった。
「俺……どれぐらい寝てたんだ?」
「ほんの数時間よ。旅人さん、重いのね。運ぶの大変だったわ」
「そうじゃない」
トオマのはっきりとした口調に、アナはいつもの微笑みを消した。
その大きな瞳で探るようにトオマを見つめ、彼女はそっと息を吐き出す。そしてその長い指を折って、ひとつふたつと数えだした。
「だいたい、五十年ぐらい、かな」
「今回は早かったな」
「どうしても、トオマに会いたくなっちゃって……」
唇をくっとかみ締めたかと思うと、彼女は視線から逃れるように、顔を伏せてしまった。