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突然の出来事に頭がついていかないトオマは、自分にしがみついてくる珊瑚が人であることを確信する。指はもとより髪の先まで、珊瑚のように白く石化しているけど、自分の肩をつかむ腕の力はたしかに人のものだ。トオマとさほど変わらない、若い男性のため、引き剥がすのにもそうとう力が必要だった。
水の中で暴れると、口から息が漏れてしまう。湖底の砂が舞い上がり、視界がにごる。いったいアナはなにをしているのだろうと思っている暇もなく、トオマは必死に、すがり付いてくるようにも思える男性をなだめた。
「――くそっ」
どうにかこうにか男性の動きを封じ、トオマは湖から顔を出す。いくぶん水を飲んでいたけど、頭ははっきりしていた。
「アナっ!」
どういうことだ、と問いただそうとして、トオマは腕の中の男性が静かになったことに気づいた。
湖の中ではあれほど元気だった男性は、空気に触れるなり、気を失ってしまったようだ。白い石だった身体は空気に触れたところからやわらかくなり、見る間にトオマたちと同じ姿に戻ってゆく。
珊瑚であったのは、栗色の髪を短く切りそろえた、利発そうな青年だった。
突然の変化に戸惑いつつも、トオマはアナの姿を探す。彼女はトオマのすぐ鼻の先でしゃがみこみ、湖の中に手をのばしていた。
トオマと違い、湖面に両の足で立ち続ける彼女は、腕とローブを濡らしながら、湖から珊瑚の塊を引き上げる。それはトオマが抱える青年と同じく、人の姿をした白い石で、引き上げられるとすぐに、金色の髪がたわわにうねる少女へと変わった。
「旅人さん。その人、連れて帰るからね」
「……は?」
その人とは、トオマが抱える青年のことだ。なぜ自分に襲いかかってきた人を運ばなければならないのかと思ったけど、アナは少女を背負うだけで精一杯のようだった。
「約束してたの。この子たちを目覚めさせるって。ふたりいっぺんに連れて帰るのは大変だから、旅人さんがいてくれて助かったわ」
よいしょ、と一声あげて少女を背負いあげたアナは、呆然とするトオマを尻目にすたすたと歩き出す。
納得がいかずに立ち尽くすトオマを見て、彼女はおいでと手招いた。
「眠りの海って呼ばれるのは、こうして人がたくさん眠ってるからでもあるのよ。とりあえず宿に戻らないと。話はその後でね」
結局宿に戻っても、湖から引き上げたふたりを着替えさせたりと仕事があり、一息ついたのはふたりをベッドに寝かせてからだった。
「ふたりとも、まだ起きない?」
規則正しい寝息をたてるふたりを見守っていたトオマに、アナが紅茶を差し出してくる。それを受け取ったトオマも、着替えはしたものの、海に落ちたせいで身体が冷えていた。
「長い間眠ってると、目覚めるのに時間がかかるのよね」
アナはトオマの隣に椅子を運び、座った。ぼんやりと紅茶を飲み、つい今しがたまで湖の底にいたはずの人たちを見つめている。
「……これがね、あたしの本当の仕事なの」
しばらくして、彼女は口を開いた。
「あの湖にはね、他にもたくさんの人が眠っているの。湖を渡ろうとしたら、振動とか気配とかで眠っている人たちが起きて、さっきの旅人さんみたいに、湖に引き込まれてしまう。だから、渡れないって言われてるの」
ちらと眺めたアナの横顔は、まぶたを伏せて、どう説明しようか思案しているようだった。長いまつ毛がかすかに震えながら、白い頬に影を落としていた。
「あの湖で眠っても、死んだわけじゃないの。目覚めればまた元通りになるわ。だからよく、眠らせてくださいって人が来るわけ」
「アナは、その管理をしてるのか?」
「そうよ。毎日ああやって歌をうたって魔法をかけないと、眠ってる人たちが勝手に起きたりすることもあるから」
うたっていても、目覚めてしまう。それが先ほどの、錯乱状態に陥った青年だった。
「あたしはこの宿に来たお客さんと、眠ってから何年後に起こしますっていう約束をするの。目覚められなくなる可能性もあるってことも、ちゃんと言うわ。このふたりは恋人同士で、来たのがあまりにも生きづらい世の中だったから、戦が終わったら起こしてくださいって言ってきたのよ」
だから、今日目覚めさせたの。彼女のその言葉を引き継ぐように、青年が寝息とともに何事か呟いた。
「……起きた」
アナが立ち上がり、青年のベッドへと近づく。何度かかすかなまばたきを繰り返した後、彼は寝ぼけながらも目を覚ました。