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「この宿は、不思議だな」
「不思議?」
トオマの発言こそが不思議そうに、アナが首をかしげた。
宿泊客はたしかに多いはずで、ひっきりなしに人々が宿を訪ねてくる。けれどその人たちと宿で顔を合わせるのはその日の夕方だけで、次の日の朝にはもういなくなってしまう。また一方では、前の晩はいなかったはずの客が、朝食をとっていることもある。自分が寝ている間に客の出入りがあるのだとしたら、はたしてアナはいつ眠っているのだろう。
トオマがそれを口にすると、彼女はあっさり、「気づいてたの?」と言った。
「なんだ、気づいてたなら話は早いね。今日は人が多いから、旅人さんに手伝ってもらいたかったの」
「手伝う?」
「お昼ご飯の前にやっちゃおうか」
アナに手を引かれて、トオマはわけがわからぬまま、その後を続いた。
向かう先は、眠りの海だった。
○○
アナはまず、トオマに自分のと同じ、ワイン色のローブを渡した。彼女曰く、「眠ってもすぐに見つけられるように」とのことらしい。ローブはまるで、トオマのために仕立てたかのように、身体にぴったりとあっていた。
「旅人さん、この海を近くで見るのははじめてでしょう?」
眠りの海、眠りの海と、湖をまるで本物の海のように呼んでいた人々。最初は不思議に思っていたトオマも、実際に見た光景には、思わず言葉を失ってしまった。
眼前に広がるのはまさしく、海、だった。
湖畔には白い砂浜が広がり、風に流されたさざ波がゆるやかな音を奏でている。空は高く、水の透明度も高い。海のように見えるのは、対岸がかすんで見えるほど広い湖だからで、深みに広がる珊瑚礁と、湖を鬱蒼と囲む木々には、すこしだけ違和感があった。
見渡す先、ずっと。むかし絵本で見たような、常夏の海が広がっている。
「本当に、海みたいでしょう」
立ち尽くすトオマを見て笑い、アナは靴を脱ぎ捨て、湖――海をわたりはじめる。手招きされて、トオマもあわてて彼女に続いた。
彼女が一緒だからだろうか。身体が沈むことなく水面を歩くことに、驚きはなかった。手はアナとしっかりつなぎ、まるで子供のように、彼女に先導されて続く。
「今日は、真ん中のほうまで行くからね」
その言葉通り、彼女はどんどん足をすすめてゆく。風が引き起こす波が、足元を揺らす。時折波の高いところがあって、その白いしぶきがローブを濡らした。
「……アナ?」
囁きが聞こえたような気がして、トオマは呼びかけてみる。けれど彼女から返事はなく、ただ振り向いて笑うだけだった。
彼女はうたっていた。
唇を微笑みの形に変えて、耳元をさらう風に声を乗せるように。穏やかで、歌というよりはまるで楽器を奏でているような、言葉がわからなくてもすんなり耳に届く声。トオマは『古の魔術師の言葉なの』とアナが言っていたのを思い出した。
その歌を、彼女は何度も何度も、繰り返しうたっている。この眠りの海を渡るにも、この歌は必要らしい。
古の言葉は、なんと言っているのだろう。トオマは考えながら、足元の珊瑚礁を見下ろす。あいかわらず身体は湖面を歩き続け、沈む気配はない。まるで薄いガラスの上に乗っているようで、つま先が触れると水面にまるい波紋がどこまでも広がってゆく。
その下には珊瑚礁が広がっているけれど、魚などの生き物の姿はない。湖はずっと浅いままで、もし今湖に落ちてしまったとしても、トオマの身長なら十分足の届く深さだった。
なんて澄んだ海なんだろう。なんて白い珊瑚なんだろう。トオマは足元に目を奪われる。その水面が不自然に波立ったのに気づいて、アナがうたうのをやめた。
トオマは湖の変化にも気づいたものの、気にせず湖底を見つめ続けていた。珊瑚の枝が、まるで人の手のように見える。あの岩はなぜだろう、人の顔に見えた。
「人が、寝てる……?」
トオマの呟きが漏れるよりも早く。人の顔をした岩はかっと目を見開き、手の形をした珊瑚がトオマめがけて腕をのばしてきた。
はっと我に返ればもう遅い。
「――うわっ!」
湖に響き渡っていた歌の余韻がぶつりと途切れ、トオマの足が湖に沈む。バランスを崩してよろけたところを、珊瑚にしかとつかまれ、そのまま引きずり込まれてしまった。