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眠りの海。それはトオマが幼いころ教えられた神話のように、現実味のない不思議な海だった。
深い山奥にある、大きな湖。そこは広く、深く、そして危うくて、渡ろうとする者はみな永遠の眠りにつく――命をおとすことから、『眠りの海』と呼ばれている。
海のある周りの地域は、長年続く戦のせいで、そのほとんどが荒れ果ててしまっていた。そのため、戦から逃れようとする人々は、安全だと言われている海の向こう側に行くことを望むことが多い。トオマもその一人で、運悪く巻き込まれてしまった戦に、旅の行く手を阻まれてしまっていた。
そして耳にしたのが、この宿と、そこに住むアナという魔女だった。
彼女は唯一、湖を眠らぬまま渡りきることのできる人だと言われていた。
ことの事情を説明し、湖を渡りたい旨を伝えると、魔女はあっさりとそれを受け入れてくれた。数日間、この宿で働くこと。それが湖を渡らせてもらう条件だった。
「今日で……何日目だったかな」
宿の裏手で斧を振りかざしながら、トオマは呟いた。
トオマの主な仕事は、掃除洗濯、薪割りといった、いわゆる雑用一般だった。それからアナの細腕には大変な、重いものの運搬。彼女はトオマから宿代をとらなかった。
数日と言われていたはずなのに、とうに十日はすぎた生活で、トオマもこの生活に慣れつつあった。もともと戦の火から逃れるためにここにやってきたのだから、宿の穏やかさはとても心地よい。アナとの生活も悪くないし、精のつくものをたくさん食べたおかげで、体力も十分に回復していた。
「この宿は本当に、平和なんだな……」
眠りの海は、森の深くに位置するため、戦の火は届かない。土地も豊かで、食糧のほとんどは自分で育てたものだった。
最後の薪を割り終え、トオマは額の汗をぬぐう。ほうと息をつき、胸いっぱいに潮の香りを吸い込んだ。
そして、歌声に気づいた。
「アナだ……」
トオマはすぐに、それと気づく。積んだ薪を蹴散らさないよう足元に気をつけながら、声のほうへと足を運んだ。
静寂な森に囲まれた空気の中で、声だけが、どこまでも響いている。さほど大きな声で歌っているわけでもないのに、その澄んだ声はトオマの耳に届き、自分の居場所を知らせていた。
アナは、宿の入り口にある階段に、ちょこんと座っていた。
ただ座っているのではなく、食事の仕度をしながらだった。かごに入ったジャガイモを、慣れた手つきで皮むきしている。どうやら昨日、トオマが掘り起こしたものらしい。
手のひらほどのナイフを巧みに動かし、彼女は次から次へと皮をむいていく。手は決して休めず、そして唇も歌をつむぎ続けていた。
トオマの知らない国の言葉。彼女はそれを、いつもうたっている。おかげでトオマもメロディは覚えたものの、言葉もその意味も理解できぬまま。
この歌こそが、彼女の使う魔法だった。
荒れ狂う眠りの海を落ち着かせるための、鎮めの歌。彼女が毎日歌い続けるから、海はいつも穏やかにさざ波を立てているらしい。トオマに歌の効果はよくわからないけれど、いつもこの歌を聞くと心が洗われる気がした。
「……あ、終わった?」
もう少し聴いていたいと思ったけれど、アナはトオマに気づき、歌をやめてしまった。
畑で採ったばかりのトマトをひとつ手渡し、ごくろうさまと声をかけてくれる。彼女もちょうど終わりだったようで、最後のひとつをむき、かごに入れて立ち上がった。
「やっぱり男の人がいると助かるわ。これでしばらく、薪割りも必要ないし」
一見おとなしそうに見えて、その薔薇色の唇はよく動く。はつらつとした彼女のことは、一目会ってすぐに気に入った。
「ごめんね、雑用ばっかり頼んじゃって」
「いや、海を渡れるならお安い御用さ」
まだすこし泥のついたトマトを服でぬぐい、トオマはかぶりつく。ぴんとはった皮がはじけ、口の中にみずみずしい甘さが広がる。おいしいと笑ったトオマを見て、アナはこころなしか、瞳を翳らせた。
「海を渡るの、もうちょっと待ってもらってもいい?」
「いいよ、どうせ急がないから」
働いてみてよくわかるけれど、宿はなかなかに忙しいようだ。そんな中時間を割いて、人を連れて海を渡るのは骨が折れるだろう。彼女はそうとうな力を秘めた魔女ではあるけれど、それ以前にまずはこの宿の女将なのだ。