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まるで誰かに優しく揺り起こされるような、そんな穏やかな目覚めだった。
シーツの上で軽く身じろぎして、トオマは身体を起こす。少し古びたベッドは、体重の変化に合わせて、スプリングが鈍くきしんだ。
頭の中で、誰かの声が響いている。歌が聞こえる。それが何の歌なのか、どこの国の言葉かですらわからないうちに、声は耳から抜けて消えていってしまった。
まぶたをこすってあたりを見回し、トオマはここが宿の部屋だと気づく。そういえば昨晩は、長い野宿に疲れていたので宿をとったのだった。
小さな宿だったけど、中身は申し分ない。天井にも壁にも傷や虫食いはなく、床もよく磨かれている。部屋全体に掃除の手が行き届いており、シーツは綺麗に洗濯してあるし、布団も太陽に干されてふかふかだった。
以前も似たような宿に泊まった記憶があるけれど、いくつもの宿を渡り歩いたせいで、それがどこの町だったかまでは思い出せない。
手早く身支度を整え、トオマは部屋を出る。お腹が空いていた。そういえば最近、ろくなものを食べていなかった。
部屋の扉を開けるなり、焼きたてのパンの香りに腹の虫が鳴る。甘いジャムと紅茶と、かすかな潮の香りが鼻腔をくすぐった。
――潮? トオマは首を傾げる。たしか自分は、海とは程遠い森の中を歩いていなかっただろうか。潮の香りなんてするわけがない。
けれどその香りは、階段を降りれば降りるほど強くなってゆく。
自分はどこに向かって旅をしていたのだろう。考えて、トオマは食堂にはいると同時に思い出した。
「……眠りの海だ」
その呟きに気づいて、宿の女将は高く結い上げた髪を揺らしてふりかえる。まだ若く、蒼の瞳が印象的な彼女は、トオマを見てほころぶように笑った。
「おはよう、旅人さん。お腹すいてるでしょう? 朝ご飯どうぞ」
○
いくつもの森を越えた先にある、この小さな宿。それは眠りの海のそばにあり、多くの旅人を雨風からしのぎ、癒しを与える、憩いの場所だった。
「昨日はよく眠れた?」
食後の紅茶とともに、女将がそう、声をかけてきた。
アナという名の彼女は、女性と呼ぶにはまだ若く、あどけなさの残る顔立ちをしている。けれどこの宿に、他の働き手は一切いなく、彼女が一人ですべてをこなしているのだった。
「夜、すこしにぎやかだったから、旅人さん眠れないんじゃないかって心配してたの」
「そうなのか? 全然気づかなかった……」
甘いミルクティーをすすりながら、トオマは食堂を見渡してみる。にぎやかだったというわりには、朝食をとる人の姿が少ない。みんなまだ、部屋で眠っているのだろうか。
「あ、おはようございます。朝食できてますけど、食べられますか?」
二階の部屋から降りてくる客人たちに、アナは必ず、笑顔で声をかけた。この宿にはすでに何日もお世話になっているけど、彼女は毎朝必ず、笑顔で客人に挨拶をするのだ。
そんな彼女が魔女だと言われても、たいていの人はすぐに信じることができない。トオマもその一人だった。
彼女は普段、ほとんど魔法を使わないのだ。客人が間違ってコップを割っても、沸騰した鍋が吹きこぼれそうでも、必ず自分の手を使って片付け、火を消している。部屋の奥で不思議な薬を調合しているわけでもなく、ごくごく普通の人として生活をしていた。
けれどアナは間違いなく魔女であり、毎日魔法を使っている。トオマは最初、それが魔法とは知らずにいたけれど、一緒にいるうちに自然とわかるようになった。
「旅人さん。それ終わったら、薪割りお願いしてもいいかな?」
そしてトオマは、彼女の宿で、少しばかり働かせてもらっていた。