地上の天使
『こちらは、心の健康相談統一ダイヤルです。
恐れ入りますが、本日は、休ませていただいております。』
引き金を求めて、電話をかけた。ありふれた土曜日の夕方だった。
機械的な女の声は間を置いて淡々と繰り返すだけで。
逆にそれが、『オッケー!』と無責任に囃し立てているかのようで。
……夕暮れ時になると、ようやく涼しげな風が吹き出した。今日はまだ5月なのにもかかわらず、7月中旬ともいえるような気温らしい。
熱中症に注意するようにと、ラジオのDJが繰り返しネタにしていた。35℃。こめかみの汗を、のびきったシャツの萌え袖で拭った。
いつの日だったか、溢されたカフェオレが染み付いたエドウィンのデニム。穿き出して10年以上にもなる代物に、さして愛着は無い。抱え込んだ膝の皿を撫でたぬるい風。追いかけるように、ぼくは頭を擡げた。階段の半ばに据えた腰を煩雑なうごきで上げる。
剥き出しの刃先が、曖昧なオレンジの光を放った。
無防備な後姿へ、ぶつかるように突き立てた。全身で、全力を込めたつもりだった。シンクへと向かう背に右頬を押し付ける。思わず、吼えた。皿の割れる音がした。決して放すまいと柄を握りしめた拳を伝って、体温が伝わった。
まさかの不意打ち。一体、何年振りだったのか。肉の裂ける感触に怯みつつ引き抜き、後退った。自前で編んだというセーターから立ち昇った匂いは、鼻腔を柔らかく擽って。隠し味を凝っていたビーフシチューの暢気な香りが、そういえば空腹だったのを気付かせた。
「……と…、し……ちゃ…ん……」
か細い身体は小刻みに震え、辛うじて振り向いた横顔は驚愕と怖れに目を見開いていた。艶めいたルージュの唇を戦慄かせ、笛音にも似た嘆声を喉で鳴らし、母は崩れ落ちた。白く毛羽立った糸先が溢れ出る鮮血を吸って重くなるさまを、ぼくは呆然と見つめた。すべての力が抜けたかのようにヘタり込み、情けなくガクつく股を内側に折って、ただ、呆然と。
……いったい、どれだけのあいだ、そうしていたんだろう。
玄関の錠が外される金属音と、ベビーパウダーの残り香で、我に返った。ベランダから抜ける景色は、半身になった陽を映していた。毒々しいほどに濃い橙を、焼き付け、睨みつける。
彼が、スーツ姿の亮さんが悲鳴じみた抜ける声を喉奥で叫んで、固まった。状況を呑めずにフローリングで立ち尽くす亮さんを、ぼくは黙って見上げていた。ぼくのすぐ傍で転がっている包丁を発見した亮さんの表情がみるみる青褪めていく。
ぼくと包丁を交互に見てから、汚れることも厭わず、恐る々る母を抱き起こした。脈をとり、呼吸が無い真実に項垂れて。
「…俊彰くん……、どうして…、こんな…っ」
粘度の高い唾液が咽奥に絡んで、辛うじて絞り出したような声。この場に相応しい第一声は、なんとなく、亮さんであってほしかった。純粋な問いには答えないまま、見つめ返す。
きっかけなんて、なんでも良かった。もう、思い出せない。
一度でもそんな風にスイッチが入ってしまえば、そんな形で物事は進むのだ。「そうじゃないってば」。焦らされて弾けた声を上げる中で、ぼくの指と亮さんの太い指がコントローラーを介して複雑に絡む。視線がかち合って、ぼくは息を呑んだ。
いつも、亮さんからはやさしい匂いがしていて。
それは、整髪剤や香水なんかじゃなく、その人自身の匂いなんだろう。大人の、男の人の匂い。仕事帰りに立ち寄ってくれた時、仄かに立ち昇る煙草や汗の匂いも、好きだった。
亮さんの瞳を染める緑色はいつだって澄んでいて、綺麗で。
その瞳に見つめられる度、理由もわからずに胸の内は無意識に汗ばんでいった。
御飯時は、亮さんが座っただけで逃げ出したくなった。
亮さんは、いつもぼくの対面に座りたがった。目を見て話す事を、きっと大切にしてくれていたんだと思う。
亮さんは、ぼくの苦手なものを、母に小突かれながらも代わりに食べてくれた。亮さんは、施設で起きた出来事を舌足らずに喋るぼくの話を、最後までちゃんと聞いてくれた。亮さんは、いつだってぼくと、真っ直ぐに向き合ってくれていた。
……その事実が、一体どんな風にぼくの心を震わせ、乱していたのか。亮さんが知ることなんて、この先、多分一生、無い。
「制服に着替えて、お婆ちゃんのところに行きなさい。
後の事は、……俺がなんとかしておくから」
亮さんはぼくを立たせると、頼りない手付きでぼくの背に掌を添えた。“数日分の着替えを持って、お婆ちゃんの家に泊まりに行ってたことにするんだ。いいね?”と、ぼくの手に付着した血を洗面台で入念に洗い流す横顔に、口を挟むことは出来なくて。ゆるやかに伸びる赤色の流線。ぼくと母の、最期の接点を、無機質な排水口がごくごくと飲み込んでいく。
自室での身支度は、着替えとリュックに何枚かの部屋着を詰め込むだけで、呆気なく終わった。忌々しい紺色の制服姿。
スタンドミラーで低い鼻と吊り目がちな顔を一見して、片付けることが出来ずに散らかった部屋を出る。
キッチンでは、母が眠っていて。それを見下ろしつつ、亮さんが額を片手で覆いながら祖母と通話していた。
おわりへと繋がる辻褄を、必死に造り上げようとしていた。
「……いってきます」
玄関のドアノブを握った手を放せばもう、二度と帰れない気がした。昨晩、食卓上で交わされた婚約に、母も亮さんも、ぼくも幸福に照れた笑みを浮かべていた。それが今じゃまるで、嘘みたいな記憶。振り返れば、亮さんがぼくを見つめて、静かに頷いた。
中途半端な情けをぼくにかけたという真実に、
これからも、その先も、嘆いて苦しめばいい。
……ぼくの事を、ずっと想っていてくれるのなら。
ぼくの“お父さん”になんて、ならないで。
最初で最後かもしれない我儘は、けっきょく言えなかった。
新しい“お父さん”に、“ぼくだけのものになって欲しい”とは言えなかった。もし口にしていたら、亮さんはどんな顔をしたんだろう。母にしていたようなキスを強請っていれば、ぼくにもしてくれたのだろうか。
ただの、慰めとして。
ーーーねぇ、お母さん、
ぼくが産まれて、幸せだった?
ぼくが生きてて、幸せだった?
ぼくの『お母さん』で、良かった?
ーーーねぇ、お母さん。
ぼくみたいなのが産まれて、ごめんなさい。
ぼくみたいな“もの”が生きてて、ごめんなさい。
ぼくの“お母さん”にさせてしまって、ごめんなさい。
言いたかったこと、謝らなきゃいけなかったことは、
沢山、たくさんあるんだよ。言葉にするのが、難しくてさ。
綺麗なピースで完成させられるパズルがあるんなら、一緒になって、やりたいな。端っこから繋いでって、“正解”まで作っていこう。そうすればきっと、“間違い探し”なんてしなくてもいいんだよ。
欠陥だと詰られた言葉も、嗤われて指差された責も。
“事”を起こしてしまえば、現実の前では紙切れも同然だった。
誰にも囃されず、自分なりの物差しで初めて走りきった。
沈みかけの夕陽に晒され、棒になった膝皿に掌を押し付ける。景色を視界の端まで追いやって俯けば、汗が散った。散った汗がなにかの色に染まって、砂埃のなかに消えていった。
呼吸を整え、顔をあげる。
放課後のチャイムに混じって、サイレンが鳴り出した。川を挟んだ向こう側で、回転灯を光らせたパトカーが家の方角へと、慌ただしく走り過ぎていった。いまさら冷え出した指先が、中途半端な隙間を埋め合わせようと、穏やかな日々の一瞬をひっきりなしに手繰り寄せる。
膝の古傷に、爪を立てた。噛み癖で歪に尖った切っ先は白み、湿り気のある生地へと雑に食い込んで、窮屈な音を立てた。
“……ぼくは、笑っていた?泣いていた?何に、似ていた?”
ペットの散歩に付き添っていた少年がリードを引いて、大人びた知らん顔を一丁前につくりながら、足早に横切っていく。
くしゃくしゃになったかおで、正面を見据えた。
河原の砂利道は、地平への境界線が曖昧な陽炎を撮していて。
どこまでも、何処までも走ってゆけるような気がした。
おわり。