記憶の残し方と上書き方法-2-
軽いアクション、暴力的表現があります。
苦手な方はご注意ください。
「………………えっ、エリカ……」
お釈迦様がたらした蜘蛛の糸のように輝く、薄水色の髪を肩のあたりで切りそろえた少女の前髪を掬い、くりんとしていてまんまるい蒼玉ような目を、小さな輪郭に収めた顔を震える瞳で男は見据えた。
その年の頃十四、五という容姿の若さに驚いたにしては大袈裟すぎる男はふいに、すらりと長い指を肌に這わせると、その雪のように白く柔らかそうな頬を撫でた。
少女にはその指先から恋人を慈しむ時に溢れ出るような、人間独特の温かみが滲み出しているように感じられた。
しかしそんな悠長に事を構える訳もなく、少女はいきなりスキンシップを取られたことに驚いて目を見開いてその身を震わせると、なぜか優しく、温かい手を払い除けた。
びくっ、と肩を跳ねさせた男は正気を取り戻し「すまない、綺麗な肌だったんでつい」と尊大な態度で謝罪をし、少女に向けていた体をマスターの方に向き直すと、まるで“今のは本当に自分の腕なのか”と疑うような眼差しで、自然と伸びた右手を眺めていた。
その気まぐれな猫のような横顔には、不思議と目を引き付けられる引力のようなものがあって、先程の尊大な謝罪と相まって、少女は怒るタイミングを見失ってしまった。
「まぁ、それは別にいいけど……。ねぇ、今呼んでた、エリカって誰のこ──」
ばんっ!と。
扉が豪快に開け放たれる音が少女の問い掛けを遮って、わいわいと活気の戻っていた店内をまた静まり返らせた。
本日二回目の派手な来訪に、自然と少女は背後は振り返る。
その視線の先では先程まで働いていた店の店長、ルイスが受付のヨハンとガラの悪い大柄な男三人を連れて店に押し入って、声を張り上げていた。
「おい、この店にうちの娼婦が邪魔してるだろ? 裏はとってんだ、隠れたって無駄だぞ。黙ってここへ出てこい!」
ルイスは声を張って近くにあった椅子を蹴り飛ばすと、ずかずかと上がり込んだ。それを見やったマスターは「言わんこっちゃない……」とため息を漏らす。
「げっ……。まさか追っかけてくるとは……」
少女は早々に逃げ出そうと忍び足で裏口までの通路を歩いた──が、大股で闊歩してきた大人の男、ルイスには勝てず、敢え無く左腕を捕まえられてしまった。
「離せよっ! ──っ!」
先程まで飲んだくれていた親父たちの中に少女を助けようとする者はおらず、悲痛な叫びは虚しく転がった。
それを横目で眺めている男は相変わらず黙々とグラスを干し続けているし、マスターは素知らぬ顔でグラスを拭いていた。
この場にいる男達に共通している事は、誰も少女を助けようとする素振りが一切も見受けらないという事だけだ。
少女はぎりぎりと音を立てて腕を絞めつけられる痛みに顔を顰めて俯くと、ルイスはその頭を強引に自分と向かい合うように持ち上げて、心底耳障りな声で捲し立てた。
「おいおい、隠れようとしても無駄だって言っただろうがよォ? ったく、無意味な手間かけさせやがって……誰の許可得て退職なんてしようとしてんだよ。──なぁ“マリア”、お前は俺が与えた仕事が不満なのか? せっかく市で買ってここまで育てたって言うのに……そりゃあんまりだぜ? まっ、俺は寛大な男だからよ。今すぐ戻って仕事するってんなら、反抗期って事で見逃してやってもいいんだぜ。フヒヒヒヒ……」
長い沈黙が二人を取り巻く空気を支配する。
少女は肩を震わせて腹の底から湧き上がる反吐でも吐き出すかのように、小さく──しかし強い口調で、俯いたまま吐き捨てた。
「………………………………………………………………………………その汚らしい名前で僕を呼ぶな」
「……あ? 聞こえねぇよ」
「その汚らしい名前で僕の事を呼ぶなと言ったんだ、この人でなしめ!」
ぎん!と。
場の空気が凍りつき少女の顔は憎悪に歪んだ悪魔のものに変わっていった。優しさを失った歪んだ瞳には、ルイスの冷然とした顔が映っている。
「……『仕事に不満があるのか』だって? 笑わせるなよ、無いわけないだろ!? あんたは市で僕を買い、娼婦にした手上げたんだ! つま先から頭のてっぺんまで金のことしか考えてない亡者が、今更親面するなんて恥をしれ!」
少女は態度の崩れないルイスのことを精一杯に尖らせた目付きで睨みつけ、声を張ったがそれはまったく効果をなさなくて、その気にもしていない冷たい瞳の中に吸い込まれて行った。
「まったく……反抗期だとしても、親に対してこの言葉遣いはないな。どうやら、“躾”が必要のようだなっ!?」
ルイスはそう叫ぶと腕を高く振り上げて、拳を固く握りこんだ。これがこの男の正体だ、気に入らなければ手を上げる。
──殴られる。
瞬間的に理解した少女は咄嗟に自由な右手で顔を守り、その襲来するであろう痛みを想像し、瞼を固く閉ざした。
しかし──。
数秒経っても殴られる気配はなく、緊迫した空気だけが時計の針を揺れ動かしていた。顎を伝う怯えた汗が垂れ、床を濡らす。
その間も沈黙の時は刻々と過ぎていき、不思議に思った少女は瞼の間から瞳を覗かせて、ちらりとルイスのことを見やった。
「!」
自身の目に映った光景があまりにも意外過ぎて、思わず目を丸くしてしまった。
「…………なんのつもりだ」
「嫌がってるだろ、離してやれよ。親が子に手を上げるなんて、信じられんな」
そう──少女の眼前では先程まで一切助ける素振りを見せずに黙って酒を飲んでい男が、殺意すら滲ませるような鋭い眼光でルイスのことを睨みつけ、振り下ろした腕をがっしりと掴みその骨にひびを入れんとばかりに絞めあげていたのだ。
ルイスの額からはだくだくと脂汗が溢れ、その目はふわふわを宙をさ迷っている。
──怯えていたのだ、翡翠に彩られた阿修羅のような眼力を以ってルイスの胃に大穴でもぶち開けんと睨みつける男の姿に。
絞めつけられるあまりの痛みに顔を顰め、少女の腕を掴んでいた力を緩めた瞬間、少女はその隙を見計らって素早く拘束から逃れると、カウンターを飛び越えてマスターの横に逃げるように移動した。
「…………野郎っ!」
男は臨戦態勢に入った大柄な男たちには目もくれず、冷戦沈着な態度でルイスのことを指さすと、少女に向かって問い掛けた。
「この品の悪い男はお前の職場上司、或いは親乃至、保護者なのか? お前が親というなら俺は介入しない……が、そうでないと言うなら助けてやるぜ」
少女は自分のことを見つめる二人の男を交互に見やって天秤にかけると、十秒もしないうちにきっぱりと答えを述べた。
────その答えは、美しい言葉で着飾る必要のないほど清々しい、単純明快になるまで装飾を削ぎ落とした“No”という一言だけだ。
冷酷なまでにきっぱりと首を横に振り、汚物でも見下すような目つきで見つめると、こう言って、ルイスを捨てた。
「この男は僕の上司でもなければ、親……或いはそれに準ずる何者でもないよ」
それを聞いたルイスは眉間に青い筋を浮かび上がらせて、腹の底から手繰り寄せたような低い怒号を飛ばした。
「マリア、お前今まで育ててやった恩を──」
がしゃん!と言う炸裂音。
それと同時にルイスは言い終えることなく三メートルほど後方に吹っ飛ぶと、その顔面で炸裂したワイングラスの破片が生んだ裂傷を抑えて悶え苦しんだ。
その場にいた全員が一瞬過ぎて何が起きたのか理解出来なかったが、少女だけは男の手から滴り落ちる血液の雫を目で捉えていた事で、何が起こったのか瞬時に理解していた。
この男──以下“赤髪”──はイカれたことに、さっきまで使っていたワイングラスをルイスの顔面に渾身の力で叩きつけ、その衝撃で飛び散ったガラス片を捩じ込むようにして自らの右手ごと損傷を負わせたのだ。
「ってぇ……いくつか刺さったな」
赤髪は血の滲む破片を抜き取ってそこらへ放り捨てると、やっと“ボスが攻撃された”と事態を理解した鈍重な思考回路の男達に向かって、大きな声で忠告を発した。
「今逃げるってんなら見逃してやらん事も無い──だが、もしも襲って来ると言うなら、骨の二本や三本……いや、臓器の一つや二つくらいは覚悟しろよ」
猛り狂う鬼のように鋭い眼力に圧倒された大柄な男達は、一歩二歩と後退ったが、一人の掛け声で正気を取り返し、襲いかかって行った。
「構うな、ただの脅しだ! こっちは四人、あいつは一人だ。一斉に掛かるぞ!」
赤髪はそれを見越していたかのように、飲みかけのビールジョッキを手に取ると、ダッシュしてくる男達に向けてその中身をぶち撒けた。
蝋燭の光に反射した濃い麦色の液体は半月状に広がって飛んでいき、男達を襲った。
「!」ビールの炭酸がヨハンを除いた男達の顔面にヒットして、その炭酸がプチプチと眼球で弾けた。固く閉じた瞼から涙が滲み、反射的に体が仰け反った。
赤髪は空になったジョッキを精度度外視の精一杯の振りで一番奥手にいた男に投げつけると、それは運悪く男の鼻をへし折った。
だくだくと流れ落ちる鮮血を両手で抑えるが、その指の隙間から絶えず溢れてくる鼻血は、その胸元を綺麗な赤ワインの色に染めあげて、男のことを跪かせた。
それを見た赤髪は「ラッキー!」と歓喜の声を漏らすと、瞬発的にステップを繰り出して距離を詰める。
赤髪の攻撃態勢にいち早く気づき、手前にいた掛け声を発したリーダー性のある男は、涙を堪えて目を開き、瞬時に腕をクロスしてガードした。
──だが時既に遅く、赤髪の放った低めの横蹴りはガードの下を掻い潜り、その股間を蹴り潰していた。
ぐにゅり、と嫌な音がしてマスター他客たちはみな自身の股間を反射的に抑えていた。想像してしまったのだ、その想像な痛みを。
「ぶっ……」
声にならない呻きを漏らし白目を剥いて口の端から泡を吐きだして何とか立っている状態だった潰れた男に、赤髪は止めの上段回し蹴りを頭部に打ち放った。
赤髪が「決まった」と小さく漏らすほど、その威力を確信した回し蹴りの威力は凄まじく、潰れた男を左に約四メートル吹っ飛ばし気絶させた。
徐々に視界を取り戻した大柄な男二人は一斉に赤髪に襲い掛かったが、それをいとも簡単にひらりと躱すと、足をかけて男を転ばせてその顔面を渾身の力で踏みつけた。
踏みつけられた男はどうやら先程ジョッキで鼻をへし折った男だったらしく、止まりきっていなかった鼻血が今の追い打ちのせいで勢いを増して吹き出した。
再び溢れ出た鮮血で胸元をびしょびしょに濡らした男を見やって「つくづく災難な奴だ」と憐れみの言葉を呟くと、赤髪はその鳩尾──みぞおち──を強く踏み蹴った。
重要器官の集まった鳩尾を踏みつけられて呼吸困難に陥った鼻血男は、やがて気を失った。足の甲でそっと顔を横に向け、鼻血で窒息死しないように安静な体勢で男を寝かせると、ニトは一人残った大柄な男の方に向き直った。
「てめぇ一体何者なんだよ!」
一分もしないうちに味方三人が気絶ないし戦闘不能に追い込まれ、焦った大柄な男は赤髪に向かって怒号を飛ばした。
焦り、怒り、恐怖──それら全てが入り混じった叫びのようなその声は、赤髪の歪んだ口の端の中に消えていく。
赤髪はファイティングポーズを崩さぬまま男と対峙すると、ふふっと鼻を鳴らして大きな声で自身の名を名乗った。
「俺はニト! ニト・ハワードだ。いつの間にか着いたあだ名は色々あるが、今気に入ってるのは“無駄に運命の女神様に愛された女、ニト”だ。ニトでもハワードでも好きに呼ぶといい」
「けっ、しょうもないあだ名だな……。ん、ちょっと待て……ニト、ハワード? それってもしかして、あのニトか!?」
声を荒らげる男を鋭く見やって、ニトと名乗った赤髪は冷静な声色のまま答えた。
「あのニトもどのニトもあるか。俺はただのニトさ──でもまぁ、強いて名乗るってんなら“金欠のニト”かな。さて……もし俺がお前言う“あのニト”だったとして、どうするね? この無駄な争い、まだ続けるか?」
「正直やり合いたくねぇな……。でもこれも金の為よ、やるしかねぇんだな、これがっ!」
そう叫んで椅子の背もたれを掴んで持ち上げると、男は大袈裟にそれを掲げて突っ込んできた。
「威勢がいいのは嫌いじゃないぜ」
金欠のニトは口の中で呟くと、男が助走の勢いをつけて振り下ろした椅子を薄い鉄板の仕込まれた安全靴の甲を使ったハンマーで叩きつけるようなハイキックで弾き飛ばすと、その軸足で以って飛び跳ねて、その勢いのまま空中で回転し、旋風脚を男の側頭部に炸裂させた。
股関節の柔軟さとバランス感覚、そしてそれらを掛けるタイミングを二連続で求められる非常に難度・威力ともに高い、高度な二段攻撃だ。
モーションが大きく一撃を外せば大きな隙を晒すことになるのは素人の少女から見ても明らかだった。恐らくそうそう使える技ではなく、一種の決め技なのだろうと憶測できた。
渾身の旋風脚をもろに食らって派手に吹っ飛んで行った男は、びくびくと何度か痙攣するとやがて口から泡を吹いて動かなくなった。
頭部を瞬間的な衝撃が襲ったことによる脳震盪で、完全に戦意喪失だ。
「い、痛いのはゴメンだ! 俺は仕方なくここに来てたんだよ、だから戦う気はねぇんだ! だから見逃してくれよォ!」
そう言うとヨハンは泣き喚きながら、ニトの手前で土下座して頼み込んだ。その姿は少女が店を出ようとした時の威勢の良い様子とは正反対で、“強い者には頭をたれる”ヨハンの性格が透けて見えていた。
大の大人が目に涙を貯めながら懇願する姿は滑稽で、ニトはしっしっと虫でも払い除けるかのように手を振ると「さっさとどっか行けよ、追ったりしないから」と言い放った。
それを聞いたヨハンはもつれた足取りで、出口までの短い道のりを何度もすっ転びながら逃げ出した。
その間抜けな様子を「まいったな……」という感じで頭を掻きながら見つめていたニトの背後で、ゆらりと立ち上がった影に少女は気がついた。
その影の手にはぎらりと光る物が握られている──あれは、刃渡り十五センチメートルほどの中型のナイフだ。
「……危ないっ!」
それを見つけた少女は目を見開いて、ニトに向かって警笛を鳴らした。
──しかし、その心配は杞憂に終わる。
ナイフ持って襲いかかったルイスの顔面に、まるでそれが劇のワンシーンであるかのような、恐ろしいまでに綺麗に決まった後ろ蹴り──相手に背中を向けた状態で体を捻り、右足を振り上げて腹部を蹴り飛ばす技である──が炸裂した。
背中を晒す分相手に与える隙は大きいが、その分威力も絶大だ。
がくん!と。
天井を仰ぎ見るようにして吹っ飛んで行ったルイスの方に振り返って、ニトは下衆でも見下ろすように言い放った。
「殺気出しすぎだ、馬鹿野郎め」
自然と店の中に残っていた客の間から拍手が沸き上がり、店の中には歓声が伝播していた。
ニトはそれらを傍目に荒らした店内を再構築すると、気絶あるいは戦意喪失させた男達の首根っこを捕まえて大道に放り捨て、静かにカウンター席に戻ってまた酒を頼み、マスターに謝罪した。
「すまない、グラスとジョッキを壊してしまった。ご覧の通り財布は素寒貧だ、酒代と弁償費は……そこの君に奢ってもらうとしよう。助けてやった恩もあることだし、いいだろ?」
「えっ……、普通人助けって無償じゃないの?」
「必要経費だ、我慢しろよ」
「うわー……。助けた人から金せびるとか最低だね。助けてもらった事には感謝してるけど、もうちょっとこう思い遣りとか……そういう考えはないの?」
「るっせ。ほら、こっち来て酒付き合えよ」
「なんで君が奢るみたいな口調なのさ、それ僕のお金でしょ?」
「ごちゃごちゃ細かい事にこだわる女だな……。あぁ〜……それと、俺のことはニトって呼んでくれよ。“君”じゃ他人行儀ってもんだ」
少女はカウンターを飛び越えてニトの隣に腰を下ろすと、ニトと同じ一番安い麦酒を注文して、それから小一時間ほど互いの酒を酌み交わした。
店に残っている客は二人だけで、少女の方はだんだんと酒が回ってきていたが、ニトはまだまだいけると言った様子で、暇さえあれば麦酒を胃に流し込んでいた。
少女は先程注文した夜食、塩ずけにした豚のすね肉を玉ねぎやセロリなどの香味野菜やクローブなどの香辛料とともに数時間煮込んで作る、アイスバインという料理を食していた。
数年前この居心地の良い酒場を見つけて以来何度となく通い詰めて、全てのメニューを食べ漁り、一番旨い料理を探したところ、このアイスバインにたどり着いたという訳だ。
ここのアイスバインは他のどの料理よりも頭二つ分くらい飛び抜けて絶品で、何度食べてもその味が恋しくなる中毒性に似たものすら感じることがあるほど旨い。
付け合せのじゃがいも突き刺したフォークの先端をニトに傾けて、少女は結論を求めた。
「で__結局、ニトさん宿とってないでしょ。どうするのさ、この寒さの中で野宿する気?」
少女の問いに「ニトで良いって何回言えば分かるんだ、敬称は嫌いなんだよ……」と疲れた顔で返事すると、さらに言葉を重ねた。
「まぁそうなるわな。旅をしているおかげで野宿にも慣れてるし、街の中なら雨風を防げる場所も多い。特に問題もないだろ」
ジョッキに残った麦酒をぐいっと一気に飲み干したニトを見て、大人しかったマスターがずいずいと急に会話に割り込んで来た。
「おいおい甘いぜ、ニトさん。どうやらあんたは噂通り腕が立つようだが、ここはニトさんが想像してるより治安が悪いんだ。下手すると“けつ持ち”が付いてるチンピラに絡まれて、後々面倒なことになるぞ」
けつ持ち、つまりバックについてる後始末係のことだ。そういう輩に絡まれると厄介なのは重々承知していたので、ニトは頭をひねって考えた。
「……しかしなぁ、この時間にやって来た飛び込み客を泊めてくれる宿もないだろ」
ニトのもっともな問いに、マスターはニヤリと口角を釣り上げて人差し指を立てる。その目には、要らぬ老婆心が揺らめいていた。
「それがな〜……一つだけあるんだよ、一つだけ。俺とニトさん両方が知っていて、あんたに飛び切りでかい貸しがある奴がな」
ふいに二人の男の視線が合致して、脇でアイスバインのスネ肉を丁寧に切り分けて一口サイズになったそれを口まで運ぶ少女の方に向いた。
少女はその視線に気がつくと小さく開いた口に運んでいたフォークを宙に静止して、
「もしかしなくても僕ん家の事だよね、それ」
と呆れ顔で呟いた。
マスターのことを見つめるその瞳には「見ず知らずの男を女一人の家に泊めてやれ」と本気で言っているのか、と正気を疑う色が差していて、どうやらマスターはそれを察したらしく、バツが悪そうな表情を隠そうともせずに口を開いた。
「……そんな目で見んじゃねぇよ、俺は正気だっつの。それに、お前は知らないのかも知れないが、ニトさんは“女”だぜ?」
目の奥で何かがきらりと輝く眼差しで、マスターは強く言い切った。
それを聞いた少女は目を一段と丸くして、改めてつま先から頭のてっぺんまでを骨の髄まで舐めとるようにジロジロと眺めた。
小高い丘のように少しだけ盛り上がった胸に、男性にしては長過ぎるまつ毛に美しい瞳、それら全てを端正に収めた顔の輪郭はどことなく男性的ではあるが、確かにそれは女性のものであった。
真実を知った少女の脳内回路はエラーコードを示し、思わず口をあんぐりと開けて阿呆な面を晒した。
それからしばらくして事態を理解した脳みそが、停止した回路の再起動ボタンを連打して、少女は正気を取り戻した。
当の本人はそんな少女のことなど全く意に介さないといった毅然とした態度で、乾いた喉を潤すために酒を流し込む。
ニトはこれでもう何杯目か分からない麦酒を飲み干した。──あとから分かったことなのだが、この女は酒豪という部類にはいる人間で、事酒に関しては相当の耐性を持っているらしかった。
「なんだ、知ってたのか? この体格と容姿、口調でよく間違われるんだが、俺は列記とした女だぜ。面白可笑しく自己紹介するとしたら、紳士の国からやって来た、ちょっと背が高い美人な旅人ってわけだ」
「ふん、アホらしい。脳みそまで酔いが回ったんじゃないのかい? 僕の家は一人でも狭いし、本当は辞めてもらいたいんだけど、マスターの家は奥さんがいるしなぁ……。まっ、これも助けられた恩ってことで、散らかさない、文句を言わないっていう条件付きなら、仕方なく! 仕方なく泊めてあげてもいいよ?」
「ったく、ちょっとふざけたらこれだよ。もうちょっとこう、優しく受け取ってくれてもいいんじゃねぇの。……なんにしても要するにオッケーって事だな。回りくどい奴だよ、本当に」
「はいはい、ごめんね、回りっくどくて。マスター、今日はありがとう、お店汚しちゃってごめん。また来るね!」
そう言い残してニトの裾を引っ張っていく元気な少女の背中を見て、マスターは和む頬をニコリと歪めて二人の女を見送った。
たまにはこんな老婆心を使ってみるのも悪くないな、と小さく呟いて、
「あぁ、またおいで。俺はこの街で待ってるからよ」
と、軋んで閉じた扉に向かって投げかけた。その声は二人に届くことはなく、静寂で満たされた床にごとりと音を立てて転げ落ちた。
店にさっきまで流ていた喧騒はどこかに行ってしまって、店の中にはキュッキュッという小気味いいグラスを拭く音だけが広がった。
「へっくち!」
少女はふいに、店内では暖炉が灯っていたことを思い出し、秋口の風が身に染みるのを拒否するように両方の腕を摩ったが「たかがしれた摩擦熱じゃ意味ないよ」というように吹き荒れた、冷たい夜風は冷酷に少女の肌を突き刺していった。
その度に身を震わせる少女のことを、単車を押し歩く足を止めて思案顔で見つめたニトは「上着はないのか?」と強い口調で問いかけた。
「持ってない。……いや家にはあるんだけど、普段こんな遅い時間に帰ることがないし、昼間はそこそこ暖かいから持ってきてないんだ」
「……──悲観的に準備をし、楽観的に対処しろ。準備を怠る者、それ即ち愚者である。なぜならそういう人間に限って、未来を見通すことの出来ない奴ばかりだからだ。……いいことを学んだな、後に活かせよ」
ニトは引用する口調でそう言うと、着ていたコートを少女に被せ「先を急ごう。この風は、シャツ一枚の俺には染みる」と真剣な顔して呟くと、そそくさ先を急いで歩いていってしまった。
「それ、誰の言葉? 引用っぽかったけど」
少女は立ちどまり、一人先行くニトの背中に問い掛けた。振り向いたニトはポリポリと頭を掻いてなんだか少し切ない顔をして、
「…………受け売りの受け売りだ、父親のな。昔からこの言葉を聞いて育ててもらったんだが……俺はどうも出来の悪い娘でな。本で読んだ世界を回る旅に憧れて、十八の時に家を出た。もちろん父親の了承はもらったが、俺は育ての親の教えに逆らった、未来に備えることの出来ない愚者の道を歩んでるってわけだ。とんだ親不孝ものだよ」と説明した。
何か聞いてはいけないことを聞いてしまった気がして、反射的に少女はニトと合致していた目を逸らした。その行動はまるで知らない大人と目が合って気まずくなった子供のようで、ニトはクスリと鼻で笑った。
するとその移した目線の先に丈の長いコートで隠れていた武具類が姿を現して、ニトが入店してきた時に感じた不自然な凹凸の正体にハッとして、少女はそれらに目を奪われた。
──ククリナイフにスローイングナイフ、カランビットからサバイバルナイフまで、多種多様な武器に彩られたその肉体に。
その数ある武器の中でも、特に目を惹かれたのが二丁のそれだった。左右の腰に下がったホルスターの中に納まった、銀色の本体に様々な装飾が施されたそれはまるで、ニトのことを飾り付けるアクセサリーのように自然とそこにある。
熟考し立ち止まっている少女に向かって冷ややかな眼差しを送ると、ニトは身を震わせる仕草をして見せて、
「人目に付くと面倒なことになる。早く家まで案内してくれないか」
と問いかけた。
その声に我に返った少女は急ぎ足で単車を押して歩くニトの横につき、家までの経路を案内した。
月明かりに照らされたそのちょっぴり切ない猫のような横顔は、煉瓦造りの建物を背景にコントラストを描き出し一枚の絵画と化していた。
大きなキャンバスに油絵具で描かれたニトは、真っ暗な暗転の中ただ一人スポットライトを当てられた演劇の主人公のように、ただ黙々と大道を歩んで行った。
【一言】
私が一番好きな蹴り技は、胴回し回転蹴りですね