記憶の残し方と上書き方法-1-
※作者は三人称一元視点を意識して執筆しています。
おかしいと感じる文章があれば教えてもらえると嬉しいです。
-ディーツ国の都市ミューヘン-
少女は仕事で相手をした男の背中に必ず爪痕を刻みこんで生きてきた。
金、それ以外に求めるものは無い──しかし、これはいつの間にか少女の中に根ずいていた唯一にして絶対不逆の掟のようなものだった。
しかしそんなに大事な掟のはずなのに、何故そんなことをするようになったのか改めて考え直してみても、少女自身その行為に至った理由を忘れてしまったのでずっと答えはでていない。
嬌声と汗の臭いが充満した部屋で、少女は仕事には一切関係ないくだらないことを考えていた。
「……ッ!」
男が果てるのと同時に少女は男の背中に這わせた爪に力を込めて、強く深く引っ掻いた。
果てた男独特の虚構を鬱鬱と見つめる瞳を一瞥し「このたった一回の快楽のために大金を払うのだから、男ってのはほんとに馬鹿な生き物だ」と少女は胸の内で呟いた。
悦の余韻に浸ってアドレナリンの過剰分泌で麻痺した体をベットに投げ打った男を傍目に、いつの間にか手に着いたそれに、急に嫌悪感がこみあげてきて、少女はそれをシーツで強く拭った。
それでも生臭い臭いは取れなくって、諦めるように男に背中を向けて寝転がる。
毎日、毎週、毎月、毎年──こうやって行為をこなしているというのに、それが終わった時にはいつも決まって湧き上がってくる、この腹の底から這い上がってきて口から出ていこうとするような気色の悪い嫌悪感だけは払拭しきれなかった。
これは自分が水商売に携わる人間としては三流以下だからなのだろうか、ともう一人の自分に問い掛けてみたがそれに応える者が現れることはなかった。
「最近寒くなってきたな……」
悦楽の世界から帰って来た男は乾く汗が急速に体の体温を奪っていくことに身震いすると、せっせせっせと安っぽい服を身に纏った。
途中で背中の引っ掻き傷と布の擦れる痛みに気がつくと、少女のことを極度の不快感がこもった眼差しで見やった。
男は大きく舌打ちすると、忌々しそうに口を開く。
「お前よ、前も言ったけど背中引っ掻くんじゃねぇよ。服着る時に痛てぇだろうが」
それもそのはずだ、血が滲むくらいには強く、深く引っ掻いているのだから。
「君、相変わらず嘘下手だね」
「……」
「ふふっ、図星。本当は奥さんにばれると困るんだろう?」
嘲るように鼻を鳴らして男の薬指に収まったくすみのない銀色の指輪を指さした。
愛の誓の証である結婚指輪を綺麗に手入れするような奴が、奥さんを差し置いてこんなところに来るなんて、男ってのは本当に哀れな生き物だ。
その言葉の意味を理解した男は苛立ちを隠すように、机の置物と化していたグラスに注がれたウィスキーを飲み干した。
「…………生意気言ってるともう指名入れないぞ、困んのはおまえじゃないのか?」
「確かに困るね、大いに困る……だけどね、僕はそれでもいいんじゃないかって思うんだ。君の言う通り僕は安定収入源を失ってしまうけど、君は奥さんにばれる危険性が無くなって、ここで使ってる“無駄金”も結婚生活に回せる訳だ。だとしたら、君はもうここへはくるべきじゃないんじゃないのかもしれない……と、考える時が僕にはあるよ?」
憎ったらしい笑顔で独特の抑揚で言い放った少女の顔を見て、長い沈黙のあとに、男は静かに切り出した。
「………………………………お前の容姿は好みだが、中身の優しいのか優しくないのか分からないところが大っ嫌いだ。……人に優しくなる暇があるんなら、ちったァ自分のこと考えろ馬鹿野郎」
自分のことを考えろ──そんなこと、自分が一番考えているに決まってるじゃないか。
収入は客に左右され、売り物は自分。日々の生活に面白味といったものはなく、将来への展望なんて尽きかけている憐れな人生──こんなクソッタレな生活に満足するのはマゾだけだ。
薄っぺらい財布から取り出した複数枚の紙幣を折り曲げて、孫に小遣いを上げる爺婆の如く突き出すと、少女はそれをひったくりのように奪い取った。
金を渡し終えると男は少女を視界の端にも入れたくないというように、さっさとコートを着込んで出口に向かった。
その背中はどこか小さくて、情けなくに見える。
ふいに「あっ」と勘定を確認していた少女が漏らした。その手には、規定の料金よりも多い紙幣が握られていた。
少女は出ていこうとする男を呼び止めて、どういう事かと問い掛けると、
「野暮なやつだな、そういうのは気づかないふりして黙って持ってけよ。俺は金に困ってないし、困ってんのはお前だろ。俺はお前がなんと言おうがここに通うし、お前を買う。お前はとことん憎ったらしいが、俺はそんなところが気に入ってるのなもな」
と言うと、めったに見せない笑みを浮かべて「そんでもって俺は嫁さんとの関係は上々だ、マメな男なんでね」と言葉を付け加えた。
自分では介入出来ない何かがそこにある気がして、少女は哀れな自分を大いに嘆いた。自分が何を求めているのかなんて知りたくなくてただ俯いて、少女は手の内に納まった紙幣を握りつぶし「僕は待たないよ、君のこと」と吐き捨てる。
「…………そんなことは猿でもわかるぜ」
男は苦笑を漏らし、扉をゆっくり軋ませて出て行った。
独りだけになって秋の肌寒さだけが素肌に染みる部屋の中で、少女はくしゃくしゃになった紙幣を見詰めてそれを床に叩きつけようと腕を高く振り上げた。
しかし、ついにそれを実行することは無かく、乱暴にポケットの中に叩き込んだ。
汚れだけが残った部屋を後にして、少女は職員控え室に足を運んだ。
疲れのせいか足元がふわりふわりと浮いている感覚がする。いつもなら短く感じる道のりなのに、今はやけに長く感じてしまう。
やっとの思いで着いた控え室には少女以外誰もおらず一人だけの時間を楽しめそうだと思っていたのも束の間で、入り口の扉を乱暴に開けて受付として店に勤務しているヨハンがずかずかと押し入ってきた。
「あぁ、ちょうど良い。お客さんがお前を指名して三番室で待ってる、さっさと行け」
疲れているというのに休みなく働けというヨハンの態度に腹が立って両手を大袈裟に竦めて“馬鹿らしい”とでも言うように鼻を鳴らし、少女は強く反駁して言い切った。
「見てわからないの? 今仕事が終わって休憩中なんだよ、そんなに続けて出来るわけがないじゃん。そもそもその客が来たの絶対に僕の仕事中だったよね? なんで引き受けてるのさ」
その問い掛けには一切応じようとはせずに、ヨハンは少女の元へ歩み寄る。
「いいから来いっつってんだよ、てめぇの仕事だろうが」
「馬鹿言わないでよ、ヨハン。僕の仕事は確かに客の相手だが、僕らの体のことを考えてセッティングするのがお前の仕事なんじゃないの? 自分の仕事もろくに出来ないくせに、何を言うかと思えば仕事をしろ? 甘ったれるな、そういう事は自分の役目を終えた奴だけが言えるんだ」
ぎらりと鋭い眼光でヨハンのことを睨みつけると少女は身支度を整えて「僕はもう帰る、お前じゃまともに話もできなさそうだ」と吐き捨てた。
いいように言われたヨハンは出ていこうとさる少女の手を取ると、ばちん!と頬を平手で叩いた。
「舐めた口きいてると仕事回してやんねぇぞ。てめぇみてぇな出来の悪いガキを雇ってくれるのはうちくらいなんだから、せめて熱心に働けよ」
少女はジンジンと痛む頬を抑えると、手加減を知らない素人の前蹴りでヨハンの股間を蹴り飛ばした。
どうやらクリーンヒットしたようでヨハンの顔から血の気が引いていき、掴まれた腕の力が緩んだところを見計らって自棄になって捨て台詞を吐きながら、少女は九年間務めていた店を逃げ出した。
「ふんっ! 殴ったら殴り返される法則を知らないなんて……少しは頭で考えてから動くことだねっ! 今まで我慢してきたけど、今日という日はもう限界だ! こんな奴がいる職場なんてこっちから願い下げってもんだ。それじゃ、“ご・き・げ・ん・よ・う”!」
「この餓鬼ィ……ま、待てこら……っ!」
それから、少女は息も切れ切れになるまで脱兎ごとく逃げ出した。
背後から弱々しくヨハンが呼び止める声が聞こえてきたが、振り返らずに走った。
安っぽい革靴が感覚短く石畳をコツコツと歩く音が反響して、街の喧騒の中に消えていった。
仕事中はほとんど外界を見ることがなかったので気づかなかったが、辺りはだんだんと暗くなってきている。
ふと煉瓦造りの建物の間から空を見上げると強烈な紅色に薄汚れた金色を混ぜたような茜色が広がっていた。しかしそれらはみるみると、少女が見上げるうちに鬱鬱とした豪奢な色を差した紫陽花に変わっていった。
我武者羅に走っていたせいで気づかなかったが、いつの間にか少女は酒場が集まる酒場街の大道に合流していた。
自棄酒するにはちょうどいい、と少女は行きつけの店までの道のりを急ぎ足で歩いた。
大道にはまだ日暮れだと言うのに、酔い潰れている男達がちらほら見えていて、大道を行く人達は相変わらず皆我が物顔で闊歩していた。
人通りは多過ぎず、少な過ぎずと言った感じで、要するにいつも通りだった。
店の中もいつも通りで、中は静寂という言葉とはおよそ程遠い場所だった。店内は客の笑い声が絶えず散乱し、床は酔い潰れた客が寝転がっていたり香ばしい麦酒が水溜まりを作っている。
店の宙では食器が舞い、端の方では喧嘩騒ぎのようなものすら起きているように見える。
しかし、それを止めようとする者はおらず、むしろ勝者に金を賭ける博打の真似事のようなものすら行われているようだった。
しかしそれがここの日常であり、この店のマスターはそんな事は気にせずにカウンターの奥に突っ立ってグラスを拭いている。
マスターは初老の男でポマードで固めた艶のある髪には数年前には見ることもなかった白いものが目立つようになっていた。
少女は目を閉じて永遠とグラスを吹いているマスターに向かって、硬貨数枚を放り投げつけると、表を見ずに注文した。
「……僕にも酒を、いつものね」
ぱしっ!と。
良い音をさせてピースサインの隙間に硬貨を挟み込んでキャッチすると、マスターはため息ついてジョッキに安い麦酒をついだ。
「おいおい、お前まだ仕事中じゃないのか? ──まさか、抜け出して来たのか? うちで匿うのはゴメンだぞ、お前んとこのルイスはうるさいからよ」
ルイスというのは少女の働く店の店長で、口うるさく面倒臭い性格の男だ。
「…………辞めてきた──いや、逃げてきたって言うべきだね。あの時は頭に血が上ってたけど、案外この選択肢は間違ってなかったのかも。……ふふっ、でも無いに等しいくらいしか希望がなかった展望は、もう完全に途切れちゃったかな」
うつむき加減に述べると、少女は出された麦酒を喉を鳴らして一気に半分飲み干した。
それを見ていたマスターは「おい、ばかっ! 自暴自棄になるのはよくない、酒で忘れようとするのもだめだ。その二つはどっちも後から虚しくなるだけだぞ」と警鐘を鳴らした。
「分かってるよ、そんなこと。……でも誰にだって飲まないとダメな時もあるんだよ? それくらいマスターにだって分かるでしょ」
ちびちび酒を流し込む少女の姿を見てマスターは苦虫を噛み潰すと、何か言いかけた口にチャックをして、グラスを拭く作業に戻った。
それから一人黙々と酒を飲んでいると突然、大道の方から聞きなれないエンジン音が響き渡ってくるのが分かった。
その荒れくれる獣のようなエンジン音は店の前でピタリと止まるとしばらくして、
ばんっ!
と音を立てて入口の扉が開け放たれた。
少女は自然と後ろを振り返り、目を細めて派手に入場してきた男を凝視した。
薄汚れたシャツに革製の厚手のコートを着込み、バイクゴーグルとスカーフを装置しているせいで顔は分からない。
短く切りそろえられた印象的なワインレッドの髪の毛は癖が強くて、所々が自然なカーブを描いている。
先程までギャーギャーうるさかった店内が一気に静まり返り、客はみな長身痩躯の旅人風の男の方に視線は注がれていた。
視線が集まるのも無理はない、表に停まった単車にはこの男が跨っていたのだから。
一九五センチメートルはあろうかという高身長の男の体には、所々に不自然な凹凸がいくつかあった。遠目では長身痩躯に見えていたが、改めて近づいて来る男を見ると痩躯という言葉は誤りであったことを知覚した。
なぜならその厚手のコート越しからでも筋骨逞しいのがハッキリと分かったからだ。
男の肩は鎧のようにぴっしりと張っていて、大きめのジーンズを足首辺りまで捲ってルーズに着こなしているせいで革製のハイヒールシューズを際立って見える。
がつっがつっ!とヒールに打たれた杭が木製の床に擦れて音を立てた。
男は少女と椅子を一つ空けた左どなりの席にどすんと腰を下ろすと「水、貰えますか」とマスターに問い掛けた。
「ここは酒場だ、酒を頼みな。それともあんたにはここが非営利目的の給水所か小洒落たカフェにでも見えるってのかい?」
顎をしゃくってメニュー表を示すその姿は、接客業に務めるものとしては失格だ。しかし、そんな接客態度でも異を唱えるものは居ない。なぜならここの法律はマスターが決めるものであり、客は客らしくそれに従うしかない。
郷に入っては郷に従え、男は先人の教えを思い出し肩を竦めて注文表を一瞥すると、顔を上げてぐるりと周りを見渡した。
それから小馬鹿にしたように鼻を鳴らして皮肉を織り交ぜて注文を済ませた。
「じゃ、とりあえずワインで。──確かに、ここじゃ紅茶と洒落た菓子類を優雅に嗜むことは出来なさそうだな。なんたって趣に欠けてる」
「若いのに言うじゃねぇか」
ニヤついた面で口を開いたマスターを見て、男はその口の端に騙るものを感じ取ると、目の前に出された少量のワインを疑念の眼差しで見つめた。
麦わらを透明にしたらこんな色だろうな、と思わせるような黄金色の白ワインの中では、店の中を照らす蝋燭の光が揺れ集まって手を繋ぎ、ゴーグルの下に隠れた瞳を誘い込むように怪しく踊っていた。
男は口元を覆っていたスカーフを首まで下ろして艶美に潤った唇を露出させる。
グラスの三分の一を満たしたワインを小さな円を描くように回して香りを増幅させると、深緑が満たした森の中で新鮮な空気を味わうように優しく、そして深く吸い込んで異臭がしないか確認した。
ふわっと漂うワイン独特のいい香りが、隣に座っていた少女の鼻腔をも刺激した。安い麦酒とは訳が違う高貴な香りに少女の喉がなる。
男はワインを一口含むと舌の上で転がして匂いだけでなく味にも劣化がないか確認すると、グラスをマスターに向けて、
「このままで大丈夫、劣化はしてない。──むしろ美味しいワインだな。……甘口、いや極甘口か? 繊細でエレガントなシルクのような舌触りに、喉奥をとろりと濡らして流れ落ちる芳醇な甘みが心地いい……しかもそれほどしつこくない。──なるほど、分かったぞ。これ、ライン産のアイスワインだな? それも魔法や機械技術を使った人工のやつじゃない、自然凍結したぶどうだけを使った希少性の高い上物だ」
一人でブツブツと呟くようにマスターに問い掛けた男は豪著な態度でワインを飲み干すと、是非を問いた。
マスターはニヤついていた顔を真剣な眼差しのそれに塗り替えて、男の顔を見つめた。
そのまましばらくゴーグル下の瞳とにらめっこすると、勿体ぶるように笑みを浮かべてカウンターの下から一度コルクの抜かれたと思しきボトルを取り出して、その銘柄を男の眼前に突きつけた。
「正解だ、これはライン産のアイスワインだよ。あんたの言った通り、自然凍結したぶどうだけを使った上等も上等の代物よ」
「マスター、さては俺から金を搾り取る気だったな? 隠したって無駄だ、味でわかるぞ。そのワイン、1000マルクはくだらないな」
「ふぅむ……またまた正解だ、あんた凄いな、ほんのちょっぴり見直したぜ。こいつは時価にして1250マルクの代物よ、本当は全額出すまで返す気はなかったんだが──けっこう良い舌してんじゃないか、あんた気に入ったよ。今回はその舌に免じて半額で負けといてあげるよ」
マスターはそう言ってワインのコルクを輪切りにして自作したカルトン──日本語で言うキャッシュトレーのこと──を押し出した。
男は大量の苦虫を噛み潰したかのような顔をして薄っぺらい財布をがさごそ漁って顔色を悪くしたかと思ったら、すかさず椅子に腰掛けた時に床に置いたバッグに手を伸ばした。
整理整頓のせの字もないバックをごちゃごちゃと探ってその中からいくつかの品々を取り出すと、男は意外と丁寧にカウンターに並べていった。
小さな巾着袋に動物の干し肉、そして乾燥して干物のようになった半透明の食べ物。男の取り出したものはどれもこれも謎で満ちている。
その品々に紛れるようにしてちょこんと百マルク紙幣が一枚だけ申し訳程度に添えられていた。
どうやら、金が足りなかったようだ。
「これは兎の干し肉、俺の携帯食だ。スパイスで軽く味付けしてあるから、酒のつまみにもなるし、小腹がすいた時に食ってもいい。もちろん味は保証するぜ? んでこっち、これはスライムの干物だ。あまり知られていない異国の珍味だが、味は淡白で汁物に入れるとコリコリとした食感がたまらなく旨い。クラゲに似てるな」
それらの物品を持ち上げては説明する姿は、さながらセールスマンといったところだ。
少女はちびちびと麦酒を飲みながら耳をそば立てて、男たちの会話を盗み聞いていた。
巾着袋の中身を机に撒いた男は「最後にこれ」と言うとそのなかから大きめの礫をつまみ上げた。
それは、どれもこれも黄金に輝く、大粒の砂金だ。マスターは初めてみた砂金をつまみとって顔を近づけてしげしげと見つめている。
「旅の途中で見つけた砂金だ、売れば多少の金になるだろう。こいつらで足りない分は見逃してくれないか? 今金がなくてね」
「はっ! 金だよ、金。ないならさっさと出ていきな! ──と、言いたいところだが今回は特別だ。このやり方で、格と産地を当てられたのはあんただけだよ。食材はありがたく頂くよ。……そんな事より気をつけた方がいいぜ、表のバイクあんたのだろ? ここは治安が悪いんだ、下手すると盗まれるぞ」
カウンターを彩っていた黄金の礫を全て巾着袋にしまい込んで、マスターは警戒するように辺りを見渡しながら言った。
「そんなことする奴がいたら、そいつはきっと次の日には川に浮いてることだろうよ」
入店以来外そうとしなかったバイクゴーグルを額まで押し上げて、グラスに残ったワインをぐっと飲み干した。
スカーフとゴーグルで隠れていた全容が明らかになって、少女は思わず息を呑んだ。
悪童が目に宿すイタズラ心と純朴な少年が宿すような冒険心が混ざりあった独特な光が差す瞳を、きりりと締める目尻には怜悧なモノが住んでいる。
男の瞳は“美しい”という言葉では足りないほど美しく、その瞳はまるで宝石の翡翠を磨き上げてそのまま義眼に仕立てあげたように見えた。
健康的な褐色のいい肌に、一本スジの通った鼻、そして不思議と引きつけられる瞳。
男は紳士という風体ではなくて、どちらかと言うと遠方の国のヤンチャな王子というような整った顔立ちだ。
とんとん、と小さく男の肩を叩いて今まで黙りだった少女が声をかけた。
「ねぇ、お兄さん。君、旅してるんでしょ? せっかくだから話聞かせてよ。ここじゃない、異国の話をさ」
その問いかけに振り向いた男は翡翠の瞳を明らかな動揺で揺れ動かすと、ふるふると震える右手を少女の方に伸ばし知らない女の名前を呟いた。
「………………えっ、エリカ……」
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それでは、次話でお会いしましょう!