12.蛇の餌
「えっと? もしかして、今『やりたくない』と言ったのかしら?」
アリッサ=ララ・エイデンは、地べたに両膝と手のひらをつけた。そして、ついにはその額さえも、である。
アリッサはエイデンファミリーの一人娘だった。
ギルドのボスであった父は、荒れ狂った世界にあるギルドを大切に守り抜き、その後継としてアリッサを立ててくれていた。
ギルドの世界を見限り、早々に家を出て行った姉。
アリッサは彼女が自ら放棄した地位を、もうじきに受け継ぐはずだった。
にもかかわらず、賭場が踏み倒しに遭っただけで、もはやギルドは壊滅状態だ。
たった一度の失敗は、タイミングが悪ければ一瞬にして大炎上にまで発展してしまう。
「許してください。……私には、できないです」
アリッサが許しを請う相手は、ギルドの後押しをしていた企業のエージェント、テレサ・ライトネルである。
彼女から依頼された仕事を目前にして、アリッサ達のギルドは他のギルドや関連企業、町民会への対応に追われてしまう。契約不履行の落とし前を付けるのは、御屋形である父だけのはずだった。
しかし、テレサはアリッサの父の首だけでは許してくれなかったのだ。
テレサが提示したもう一つの手打ちの条件。
それは、アリッサが≪ウルトラシング≫に乗船する、十二連盟管理委員会のメンバーへの接待だった。
見目麗しい年頃の娘であるアリッサならば、その男の気分を盛り上げることくらいできるだろう。そうテレサは判断したようである。
父やギルドのメンバーから、あまりに過保護に育てられてきたアリッサには、人には知られたくないが男性経験というものがない。そんなアリッサにとって、男に奉仕をするなどとてもではないができないと思った。
しかし、この危機的状況にあるギルドのため、自分が身体を張らなくてどうするのか。ファミリーの未来を、自分が守らなくてどうするのか。
意を決し、アリッサはテレサの条件を呑む。
――が、そんなアリッサの決意は、相手の男を見た瞬間に崩壊することになる。
でっぷりとした腹の、中年の男だった。
わざとらしい香水のむせ返りそうな臭い。オールバックで固めるために使われている整髪料は、彼の黒髪から光沢が放たれるまで塗りたくられている。
そして、脂ぎったたるみのある大きい顔。
何より、アリッサを嘗め回すように見る、いやらしい目付き。浮かべられる下卑た笑み。
――無理だった。
ギルドの娘でありながら、父の方針により嫁入りするか婿を迎えるまで、貞淑であろうとこの身を保ってきた。
そんなアリッサの潔癖が、もはや生理的なレベルで相手の男を拒絶する。
アリッサの意思など関係ない。己に根ざした乙女としての何かが、どうしてもアリッサを拒絶の選択へと縛り付けてしまう。
「本当に申し訳ございません。ですが、お金なら必ず用意します。だから、だから何とぞ……」
土下座の姿勢でひたすらに切願するアリッサの頭上から、テレサの声が降ってくる。
「そうは言うけど、貴女ね。結構な金額よ? 人によっては、人生を捧げても得られないだけの額を、一晩でチャラにできる。こんなことは言いたくないけど、本来なら貴女なんかにそれだけの価値はない。破格の条件なのよ?」
「……」
アリッサはそれでも姿勢を変えなかった。それがアリッサの答えだ。
テレサが盛大にため息を吐いたのがわかった。
「……もういいわ」
そんなテレサの冷たい声が聞こえた。
アリッサの額から、手のひらから、脇から、背中から、足の裏から、一気に冷や汗が出るほどの威圧感だった。
――終わった。
後押しの打ち切り、粛正。ギルドの崩壊。
そんな言葉がアリッサの脳裏をよぎったとき、
「もういいって言ってるの。接待も、お金のことも、もういいの。だから、顔を上げなさい」
テレサの慈しみが宿った声が聞こえた。
アリッサは顔を上げる。
――信じられない。
テレサはソファに脚を組み座っていたが、アリッサが顔を上げたのを確認すると、立ち上がった。
「あの……」
アリッサは声を掛けようとするが、彼女は無視して脇に立っていた黒服に言う。
「私の白いカード、出して頂戴」
「はい」
坊主頭の黒服は、客室に備えられている金庫をいじり出す。そして、その内側でジッパーが開かれる音がした。
程なくして、坊主頭はテレサに白いカードを手渡した。
ありがとう。そうテレサは彼に優美に微笑んだ。
そして、彼女はアリッサに視線を向けた。
そのまま、白いカードをアリッサに差し出す。
アリッサはどうすればいいのかわからなかった。おそらく、そのカードを受け取れということなのだろうが、テレサとの距離からして、自分のこの体勢のままでは――、
「立ちなさい。私にそっちまで行って、床に膝をつけっていうの?」
「は、はいっ」
慌てて立ち上がり、テレサが差し出すカードを、両手で受け取る。
――ソルカードだ。
その昔、塩は物品と交換されたり、時として高額で取引されたという。
そんな塩を語源としたそのカードは、このア・ケートのほとんどの金融機関が提供しているサービスの一つだ。
すなわち、このカードの機能は、所有者が作った口座の残額が許す限り|(もちろん、暴走を防ぐべく、使用限度額が定められる場合がほとんどだが)、自由に通貨の代用をすることができるというもの。
大きな現金を持ち歩かずに済むというメリットから、主として裕福な客層からの利用が多い代物だ。
「その白いのは、私がときどき、可愛い部下にお小遣いをあげるときに渡すものなの」
そうテレサは言った。
「六万シーンくらい入ってるのかしら? ああ、暗証番号なんて気にしなくていいわ。私のカードを見せて、そんな無粋なことを訊いてくる世間知らずなおザコさんは、このクジラにいないから」
「え、あの……?」
全く意図が読めない展開だ。思考が追いつかず、アリッサは間抜けな声しか出すことができずにいた。
「あげるわ。せっかくの≪ウルトラシング≫のクルーズ、貴女も楽しみなさい」
そう言って、テレサは腰掛けた。
「最高の料理、お酒。美容整体、お風呂。この船にはいろんなサービスが揃ってるわ。良いドレス、ネックレス、ピアス、化粧品類はもちろん、その場で爪の手入れをしてくれるお店もあるわよ。それから貴女、少しは男のコと楽しんだら? ウブなのも結構だけど、女としての人生としては、つまらないと思わない?」
テレサは柔らかく笑っていた。
「あ――」
思わず、声が漏れた。
慈悲を貰ったのだ。とんでもない迷惑を掛けた。直接的には、テレサにではない。テレサを雇っている会社に迷惑をかけた。そして、その責任を負うのは彼女のはずである。
それがどれだけのことなのか、アリッサには見当も付かない。
「ありがとう、……ございますっ」
涙がこぼれた。
そんなテレサに、アリッサは十分な補填もできず、駄々をこねた。
なのに、彼女はこんなにも暖かく、アリッサに施してくれる。
――女神だ。
本気でそう思った。
客観的にみれば、彼女がアリッサの父の首を討ったのは、エイデンファミリーの失態に対する正当ともいえる処罰。それだけでは到底足りないはずなのに、テレサはこのように慈悲を与えてくれている。
――返さなくては。
テレサ・ライトネルに対して、アリッサは自分の生涯を掛けてでも、この恩に報いなければ。
「ありがとうございます……。ありがとうございますっ」
「いいのよ。私だって、なりたくて鬼になってるんじゃないの。だから、これはせめてもの私からの親切心と思って頂戴」
楽しみなさい――、
テレサは笑顔でそう言った。
「このクルーズが、貴女の最期の時間になるのだから」
「――え?」
「これが、貴女にとって最期の時間。このクルーズが終わったら、貴女にはウチのクライアントが裏で運営してる変態倶楽部で、短い一生、玩具になってもらうわ」
凍り付く。
アリッサはそのテレサの言葉に凍り付く。
「当然でしょう? 貴女の価値なんて、その無駄に大きいおっぱいとかくらいしかないじゃない。ソレさえ使いたくないなんて言い出したら、もう貴女の生きてる意味がないでしょう」
ほどなくして、硬直から震えに推移する身体。
アリッサは唇を戦慄かせた。
「楽しむのね。人生最期のクルーズ」
そう言ったテレサの笑顔は、先程と何も変わりはないはずだ。
だが少なくともアリッサには、女神が蛇としての本質を剥き出しにしたような、そんな獰猛な笑みにみえた。
***
リュウは船内のレストランで、食後の紅茶を飲んでいた。
どうやら、この≪ウルトラシング≫では、ホガロと≪シーリング≫によるパーティが盛大に開かれているようだった。そのパーティは現在進行中で開かれており、飲食が無料だという。
だが、リュウは形式張ったパーティなるものがあまり得意でないため、あえてクジラ内で店を出しているレストランに入ったのだ。
もちろん、そのレストランはそこらの定食屋とはわけが違う。それなりにレベルの高い店であり、クジラ内ということもあって、特別価格で支払いをしなければならない。
それでもなお、煩雑としたパーティは避ける。
そんな判断を下したのはリュウだけではないようで、このレストランにも結構な人数が集まっていた。
――エルシアのことが気になる。
飛び出していった彼女の言葉がリフレインして、リュウはどうしても酒も嗜む気になれないでいた(ここ二週間でわかったが、どうやらウィルクはイケるクチだ)。グラスに注がれた飲み物も、いわゆるソーダ水というやつだ。
「シロノ、……シロノちゃんよお」
そうシロノに呼びかけるが、返事はない。
シロノは白いテーブルクロスが敷かれた机の上に乗っている、メインディッシュの仔牛を丁寧に口に運んでいる。コース料理を遠慮なく食べる彼の図太さを、リュウも見習うべきなのだろう。
「エルシアの最後のアレ、何言ってんのかワケわかんなかったんだけどよ。何か知ってることねえか? ≪赤の預言≫? で世界が滅びる? とかよ」
シロノは次に、水の入ったグラスを口に付けた。
その濡れた唇から謎の危険を感じ、リュウは少し視線をずらすことを強いられる。
「≪赤の預言者≫は、予知能力の類いの奇跡を持つ者達からすれば、確かに“最高”の預言者かもしれない。年一という制限に目を瞑れば」
とシロノは言った。
「知ってんのか?」
そんなリュウの問い掛けに、シロノはこくりと頷いた。
「ハウネルが≪赤の預言者≫を囲っていることは、周知の事実。ただ、それも“知る人ぞ知る”といった程度で、関心のない者達は名前さえ知らないと思うよ」
今日はシロノがよく喋る。
それとも、普段がどうでもいいことばかり喋っているので、無視されていただけなのだろうか?
何にせよ、シロノは肝心なときに重要な情報について問いただせば、それに応えてくれるのだ。それが、今になってようやく腹に落とし込めたリュウである。
まあ、許されるなら、下らないことにでも反応してくれれば張り合いがあるのだが。
「その≪赤の預言≫ってのは厄災を提示するって、エルシアは言ってたけどよ。マジで世界が滅ぶとかわかるもんなのか? つか、そんな未来、あり得んのかよ? いや、ねえだろうけど」
リュウはどうしても彼女の言うことが信じ切れずにいた。
王族という重い身の上が生み出した、彼女の闇なのか。それとも、誰かに構って欲しい、認めて欲しい。そんなアイデンティティを訴える病みなのか。
いずれにせよ、何か妄執めいたものが、彼女にとんでもなく誤った思考を巡らさせているのではないかと疑ってしまう。
そのあたりの判断を下すのに、リュウはシロノの意見を参考にしたかったのだ。
「……」
シロノはリュウの問い掛けに答えることなく、仔牛の肉にありついていた。
リュウは宙に向かって、大きなため息を吐く。
――考える。
リュウはエルシアのことを考える。
そうしている間に、どうしてかゲームタワーの激闘が回想された。
何故だろう、わからない。
――損得。
それだけ考えれば、もう今後は――否、はるかに前からエルシアに一切関わるべきではないはずなのに。
ゲームタワーでの経験。あの熾烈な戦いが、リュウに訴えている。
リュウはあそこで、決して忘れてはならない、忘れたくても忘れられない哲学を、その心身に根差した。その哲学が、今リュウがとんでもない見落としをしていることを、訴えているのだ。
「なあ、シロノ。ちっとばかり考えたんだが」
「……」
シロノは何も言わない。
リュウはこれまで、そんな彼の態度を無言の肯定として尊重してきた。
勝手にしろ。まるで、そう言われているようで。
それでも、ときにはリュウとてシロノに返して欲しい言葉がある。聞かせて欲しい考えがある。
だが、今はこれでいい。そうリュウは己を肯定し、強がってみせた。
――自分には、シロノから言葉を引き出す資格が、まだない。
ただそれだけのことだ。
そう考えるのは、リュウの意地のようなものなのかもしれない。




