06.王国と天才王子と怪獣王女
「点滴終わったね」
ウルスの声で流は我に返った。
気が付けば大量の時間を消費していたのだろう。点滴パックはすっかり空になっていた。
「流石に車椅子や松葉杖は要らないだろ?」
点滴の針を抜き、ガーゼとテープで後処理を施しながらウルスは言った。
「大丈夫そうだ。ありがとう、ウルスさん」
礼を言う流に、ウルスが笑う。
「はは、やっと戻った」
起き上がってベッドから降りようとする流を、タオイェンが補助した。
「ああ。それじゃあ、よろしく頼んだ。えー、……タオイェンさん?」
「えぇー?」
「“さん”付け? そして俺は?」
驚くタオイェンと、顔をしかめるデュナス。
「ダメだ。まだおかしい……」
ウルスが眉間を指先で押さえた。
タオイェンとデュナスに歩調を合わせて、流は建物の廊下を進んでいく。
建物の造りは、とても美しい。
灰色の石ででき、ロウソクの明かりで道を照らす、砦のような無骨なイメージを勝手に抱いていた。
しかし、建物はどちらかというと王城のそれに近く、全体的に明るい色でまとめられている。
流は白い壁を指先でなぞった。材質はコンクリートではなく、よく研磨された結晶石のような何かだ。
壁には所々にステンドグラスがはめ込まれており、日が落ちた今でこそ鈍い群青色をしているが、日中に陽が差し込めばさぞ綺麗に輝くだろう。
上を見上げるとシャンデリアが廊下に連なっている。ロウソクではなく、電灯の明るさだ。
踏みしめている赤の絨毯は、白いタイルに敷かれていた。
感嘆しながら歩いていると、やがて目前に大きめの扉がみえた。
上枠が弧になっている木製の両開き。無骨な金属のフレームが重々しさを演出しており、いかにも神殿の出入口といった風情をしている。
壁に窓があることから、ここがエントランスなのだろう。
つまり、このまま進めば外に出るということだ。
「……忘れ物とかないっけか?」
流は探りを入れる。外の雰囲気がわからない不安感が、流に不足しているものがないかを警戒させたのだ。
そして、流は一つの疑問を抱く。
自分も友人二人も、鞄を持っていないが大丈夫なのだろうか。
流を間に挟み、左手のデュナスに右手のタオイェンと強布陣だが、どうにも鞄がないと背中が寂しい。学校など卒業して久しい流にとって、この違和感は懐かしかった。
「鍵くらいしか持ち歩かないでしょ……?」
タオイェンが不思議そうに言う。その発言が不思議でならないのは、流の方なのだが。
鞄が必要ないのは、今の反応で確信した。それにしても、鍵だけというのは奇妙な話だ。携帯電話は存在しないにしても、せめて財布が続きそうなものである。
「鍵は?」
デュナスに問われ、流はパンツの右ポケットを叩いて感触を確かめる。
「ある」
「なら、手帳」
今度はブレザーの内ポケットだ。
「ある」
「じゃ、脳みそだ」
デュナスはそう言い、ケケケと笑う。
冗談で済まないかもしれない流は、苦笑いを浮かべた。
扉から出るデュナスに続き、外に出る。
その風景を見た流は――、
「すげぇな……」
と呟いていた。
目前には広々としたスペース。その全体を円柱で支えられた玄関屋根が覆っている。その先には、幅五十メートルはあろう大きな階段が玄関アプローチとなっていた。
向こう側には、学校の敷地よろしく幾らか建物が並んでいる。
流が驚愕したのは、更にその先。
十キロ以上も先の、夜空の下に点々と輝く小さな灯かりだ。
それら全てが、街灯であることがわかる。
――高い。
この建物は、この学校全域は山上に建っている。
そして、目前の階段を上回るサイズの登り階段が、学内から伸びているのを見つける。山上であるはずの、この建物よりも更に上。流は顔を上に傾けた。
今までいた建物を、勝手に王城のような造りになっていると思い込んでいた。
だが違う。規模が明らかに違った。
山頂にそびえ立つ、あの巨神兵のような建物こそ“王城”と呼ぶのに相応しい。
「ハウネル王国ね」
流はようやく実感する。
ここは、ファンタジーの異世界なのだと。
そして、見上げれば王城。見下ろせば城下町。
自分は今、王族の住処に一番近い高さに存在することを許される、王国騎士の卵なのだ。
***
ハウネル王国王城の七階、――通称≪フロアセブン≫は、城の事実上の最上階だ。
そこでは、王族達のプライベートルームが配置されており、王城の者の中でも立ち入りが許可されているのはごく僅かである。
王族達の近衛を務めるロイヤルガードは、ほぼハウネル王国騎士団の花形部隊である≪剣竜の現身≫で構成されている。その人数はたったの十四名しかいない。
“たったの十四名”の一人であるクレイス・ルーベは、ハウネル王国第一王子である、ラアル・ルクターレの瞑想を静かに見守っていた。
ラアルは十五歳の少年だが、帝王学が施されている現時点で、あまりに逸脱した才覚をみせている。
当然、歴代の王を超える名君になることを期待されているラアルだが、それゆえの不安もある。
『十で神童、十五で才子、二十過ぎればただの人』。
自らの身分からくる重圧、周囲からのプレッシャー。
それでなくとも、この王城は陰謀渦巻く伏魔殿だ。ラアルの真価が問われるのは、まだまだこれからといっていいだろう。
しかし、わかっていてもクレイスは期待してしまうのだ。
王族が実質的に参政権を持たないにもかかわらず、革命を起しうる圧倒的なまでのカリスマ、その片鱗をみせるラアルに。
――それに引き換え。
中性的な容姿も相まって、まだ稚いラアルの横顔。
その睫毛がぴくりと動くのをみると、クレイスはため息を吐いた。
外の騒ぎに反応してしまったのだ。
『オラクソ待たねえかガキがああ!!』
『待てといわれて待つガキなんていませんンーー!!』
『逃がすかバカがよォ!! 小娘の分際で≪現身≫から逃げられると思ってんのかっ……コラ!!』
『ちょ……! 廊下で“跳んだり跳ねたり走ったり”だのは厳禁のはずでしょお!?』
『テメエのこと棚に上げてんじゃねえよ! それにここはバルコニーだこの王女殿下!』
『へえええ! なら殿下本気出すわ! 毎度逃がしてもらってありがとー! ≪現身≫さん!』
『おっと温ィなぁ! そっちは通行止めだぜェ! 今だ挟め挟め!!』
『ちょっと!? さすがに三人がかりは汚くない!?』
『何があっても逃げ切らなきゃゲームは敗けなんだよ世の中の常識だろオラアア!! そのスッカラカンの頭にぶっ壊れるまで常識叩き込んでやるよ確保ォォ!!』
『だああああ! 脚掴まないで! ぐえ!? 後ろ固めもヤメテ……』
『もーう逃げらんねえぞ……。ゲームオーバーだ……ぜえぜえ』
『ひいぃぃ……。見逃してよぉ、ヴォルガあぁ……』
『何が『見逃してよぉ』ですか殿下? ほーら、お勉強の時間ですよ? ……つーかさっき“うすのろ”とか抜かしたか? “う”しか合ってねえじゃねえか! 頭足りねえからそんなカスみてえなギャグしかほざけねえんだよ! ゴミセンス矯正されるまでしごいてやるから覚悟しろや王女殿下!!』
――などと。
ここが王城の、それもフロアセブンであることが疑われるほどに汚く醜い。
実に低レベルで子供さえ笑わない寸劇を広げる、第一王女ルアノ=エルシア・ルクターレ。彼女はこの王城の悩みの種の一つであった。
ラアルと同じハウネル王家の血を引くとは、クレイスにはとても思えない。
彼女の帝王学からの脱走劇はよくあること(よくあっては困るが)で、クレイスもその喧噪には慣れたもの(慣れるのも困るが)である。
業を煮やしたロイヤルガードが、不敬罪上等で暴言を吐き鬼と化すのも毎度の通り。
それでもなお、ルアノは上手いこと彼らを出し抜くのだが、今回は珍しくロイヤルガードに軍配が上がったらしい。
クレイスは恐ろしい。
彼女のような“怪獣”が、第一王女として存在することが。
「珍しく捕まりましたね。姉上」
外の騒ぎに、ラアルの集中が途切れたようだった。
「ヴォルガの自慢話を、聞かされる羽目になりそうです」
クレイスは眼鏡を指先で持ち上げ言った。
「何とかなりませんか? ルアノ様のあれは」
「父上やエルシア様ですら、どうにもならないのに? 今更でしょう」
ラアルはクスっと笑みを零す。
ルアノが幼少の頃、その気性の荒さを矯正するべく、厳しい折檻が何度も行われたらしい。
そして指導は成功し、ようやくあれになったのだ。
もっとも、彼女も年々、自分の立場を自覚し始めているのだろう。公的な場では理想の姫君を完璧に演じてみせるので、このめまいがするような現実が露出したことはない。
「いえ、もうすぐ≪預言の儀≫の日ですのでね……。思わず」
そうクレイスは零した。
「あはは。巫女が全然成長しないんじゃ、年一回のあの日のたびに焦りますよね」
ラアルは朗らかな笑顔で言う。
失礼ながら仰る通り、とクレイスは頷いた。
年に一度の≪預言の儀≫は迫っている。去年の今頃も、一昨年の今頃も、巫女を務めるルアノは変わらずあの調子だ。
――もう一年経つんだけど、大丈夫?
毎年そう思わずにはいられない。
自分がお付きでないとはいえ、王家の将来に関わりうる問題だ。クレイスが不安を覚えるのは当然だった。
その不安ゆえに――ヴォルガの追跡をまくことができる者など、≪剣竜の現身≫でも数人いるかいないかという事実を、無視してしまいたくなる。
「そういえば、≪預言の儀≫の三日前は、最終選抜試験でしたっけ?」
ラアルの質問に我に返り、ふと浮かんだ怪獣の幻影が消え去る。
「ええ。今年は四名残っています。あのウィルク・アルバーニアだけでなく、いずれも優秀な人材であると聞かされていますよ」
「優秀でなければ、≪現身≫には選ばれないでしょ?」
「ラアル様はご覧になりますか?」
≪剣竜の現身≫最終選抜試験は、王国騎士のお偉い方はもちろん、王族をはじめとした超貴族の御前で行われる。将来的にロイヤルガードになる人材や、最低でも政治や軍事に携わる【制服組】の採用試験だからだ。
クレイスの問いに、ラアルは子供らしく拗ねたような表情をみせた。
「惜しいんですけど、私はその日に諸用という名の公務がありますから。姉上達からの報告だけ楽しみにします」
『ちょっと、首ねっこ掴まないでよもう。ええい、放せ! 自分で歩ける!』
『仰ってることが、捕まった容疑者のそれになってますよ? 殿下』
「……」
「……」
ラアルは少し間を置くと、『たまには俺もサボろうかな……』と小さく呟いた。
「ラアル様」
「言ってみただけですよ」
たしなめるクレイスに、ラアルは悪戯っぽい笑顔を向けた。