03.王国騎士養成学校
仰向けにぶっ倒れた流は、戻ってきた医師を仰天させたようだった。
助け起こされ、ベッドに戻った流は、点滴を通じて鎮静剤を投与された。
しかし、馬鹿げた現実のせいで最悪な気分が続き、はや一時間が経過する。
「一体どうしたんだよ……?」
心配そうな医師の声。
――教えて欲しいのはこっちだ、マヌケが。
流は毛布にくるまって、心中で毒吐いた。
今の質問は、もう何度も繰り返されている。
その度に流は、説明したくてもできない症状に、歯痒さを通り越してヤスリで削られるような痛みを感じる。それは錯覚ではなく、歯を食いしばり過ぎて感じる痛みだったと馬鹿をみた。
医師の質問が、諦めを伴った呟きに変わったのも、丁度そのときからである。
――気が付いたら、知らない場所で、自分じゃなくなってました。経緯は覚えていません。
そんな意味不明な体験を、汚物と一緒に胸から吐き出してしまいたい。二言、三言で済むことだ。
しかし、それを言ったところで、医師が何とかしてくれるとは流にはとても思えない。
おかしな発言をした直後、デロデロとエチケット袋に嘔吐する流に、憐憫の眼差しを向けて途方に暮れるのが容易に想像できる。
それから、どれだけの時間が経ったか流にはわからなかったが、契機は突然だった。
――オムライスが食べたい。
突拍子もなく、流は思った。
アルコール依存症だった流の母親は、ろくに料理もしなかった。オムライスは、そんな母との嫌な思い出がない、唯一の手料理。流の好物だ。
のっそりと毛布から頭を出す。
「先生、水をくれ……」
枯れた老人のように、流は懇願した。
「先生だ!?」
医師は素っ頓狂な声を上げつつも、水差しの先を流の口に運んだ。
「どうかしちゃったんじゃいの? ウィルク」
「あぁ、ありがとう」
頭がどうかしてしまったという可能性は、流自身も十分に検討した。だが、その結論を下すまでに、もうしばらくの猶予が欲しい。
自我の崩壊を認めてしまえば、たとえ好物のオムライスを食べようとも、臭くて酸っぱい胃液の味に早変わりしてしまう。
それよりも、またしても流は『ウィルク』と呼ばれた。
それが、おそらくヒントの一つとなるだろう。
鎮静剤の効果を自覚し始めたのか、流のめまいや心理的恐怖が薄らいでいく。
自分に何が起こったか?
理屈抜きという条件付きで説明できる、荒唐無稽な答えが浮かんでいた。
――ああ、ようやくだ。
水を飲まされながら、流は安堵する。自分にしては随分と時間がかかったが、ようやく覚悟を決めることができたのだ。
どのみち、いずれは立ち向かわなければならない問題だ。
「認めるしかねえ。この世知辛え現実をよ」
「どうしたウィルク!?」
流の言葉に、医師は若干怯えたようである。
――よろしく。ウィルクさんの身体。
***
流がこれから追求する可能性。それは、自分の意識が何らかの要因で、ウィルクという少年の肉体に乗り移ってしまったというものだ。
これについては、フィクションの世界で鉄板の設定が思い出される。
ぶつかった二人の魂が入れ替わってしまった。無念の死により亡霊となり、生者の身体を乗っ取ったなど。
流の国で流行っているパターンは、別世界に転生したなどがある。今の流のケースでは、この世界での幼少期の記憶がないため、転生という表現は適切ではないはずだ。
ちなみに、別世界というのは、全く知らない異世界や、元の世界と歴史が異なるパラレルワールド、あるいは有名作品の舞台であるのが主流である。
流は手掛かりを探るため、パンツのポケットにハンカチと鍵しか入っていないことを確認したあと、医師に頼んで上着を取ってもらった。パンツがフォーマルなものであることと、ワイシャツが長袖であることから、治療のため脱がされた上着があると推測したのだ。
医師が「この医務室が学内にある」と発言したことから、ウィルク少年が学生である可能性が高い。ならば、上着からは生徒手帳が見つかるはずだ。そうでなくても、財布か何かがあれば、身分証となる何かがあるだろう。
胸ポケットには、流の予想通り生徒手帳が入っていた。
だが、表紙をぱっと見て、流は苦笑してしまう。
――これは、相当やっかいなパターンじゃねえか?
現実的に捉えたといえば語弊があるが、自分が別世界までジャンプしてしまった可能性は、流石になかろうと考えていたのに。
『ハウネル王国騎士団附王国騎士養成学校』。
生徒手帳の表紙に、そう刻まれているのがわかった。流の知らない記号のような文字で、だ。
何故、見たこともない文字が読めるのか?
それは、『流がウィルクの肉体に宿っているから』ということで、仕組みはさておき納得しておくことにする。
気にするべきは、地理的な問題だ。
【ハウネル王国】という国を、流は知らない。
ただの騎士ならばともかく、【王国騎士】なるものが現実に存在するとも、流は聞いたことがない。
知らないだけで実在すれば、それでよい。だが、流には到底そうは思えなかった。
つまり、流のサブカルチャー的な推測によると、ここは元いた世界ではない。異世界であり、王国騎士というキーワードから察するに、カテゴリーはファンタジー。
「我ながら、随分遠くまで来たもんだ」
「ウィルクの人生はこれからだろ?」
流の呟きに対して、医師は別の解釈をしたようである。
「いや、人生振り返ったわけじゃなくて、迷子っつーか……」
言ってから、センスのない軽口だと思ったが、医師は納得したように理解を示した。
「いざ念願が叶いそうになると、『ホントにこれでいいのか?』って怖くなるもんさ」
「念願?」
流の意図した言い回しが通じたのは面白いが、それよりも興味深い情報が耳に入ってきた。
「ただの騎士になるんじゃない。必ず≪現身≫に入隊すると約束した」
医師は笑みをたたえて言う。
「アルフィが嬉しそうに言ってたよ」
「へぇ……」
流は適当に相づちを打った。
――アルフィね。
医師の口ぶりからして、ウィルクの学友の名だと悟った。それも、おそらくはウィルクのガールフレンドだろう。
脳裏に、少女の顔がよぎる。
流が最初に倒れたとき、ウィルクの身体に駆け寄り、身を案じたピンク髪の少女だ。
流は生徒手帳を開く。学生証と一体となっているようだった。
名前は『ウィルク・アルバーニア』とある。
流のいた世界と同じように、顔写真が載せられている。
水槽に映った顔で間違いない。入学案内に載せたくなるような顔をしていた。
流は次に生年月日に注目する。『新理歴五十三年穂ノ三十』。
ビリビリ、と閃光が弾ける錯覚。
「今年って、何年だった?」
医師の顔をちらりと伺うと、やはり困り顔をしていた。
「七十一年だろ。さっきから思わせぶりだなあ」
ならば、ウィルクは十七、八歳ということだ。流よりも四つか五つ下になる。
【グレード】という欄に、『5』とあった。
流の常識で捉えれば、これは五年生を意味しているが、入学年月日と矛盾する。入学年月日は『新理歴七十年百合ノ一』だ。今年が七十一年なら、ウィルクは二年生のはずである。
だが、この疑問まで医師に尋ねるのは、流石にまずい。
「話くらい、聞くけど?」
医師がため息交じりに言った。流は医師を見る。
「人生迷子なんでしょ?」
「あー……」
流はどうはぐらかそうか迷った。
悩みを抱える生徒が、保健室の先生に相談ごと。流に経験はないが、学園ドラマではよくある話だ。
医師の態度から、ウィルクと彼はそれなりに親しい間柄であると流は推察する。何か漏らした方が自然なのだろうが、流はウィルクの悩みなど知るはずもない。
「主席を獲ることに、プレッシャー感じてる?」
躊躇う仕草をみせる流に対し、医師はそう言った。
『主席』とは意外な言葉だ。医師は腕を組み、続ける。
「顔つきとか喋り方とか、さっきから様子が変だけど、かなり苛立ってるようにみえる。ヴェノの過剰摂取なんて、できもしない大技使おうとした結果としか思えないし」
『大技』などと、穏やかではない単語が現れたものである。
流の知るファンタジーの定番よろしく、この世界では戦闘が当然のように行われるのだろうか?
だとすると、人にはそれぞれ、異能だの必殺技だのがあっても不思議ではない。
ヴェノという用語について、確かなことはわからない。しかし、文脈から『大気中に存在するマナ』という、定番中の定番を想起してしまう。
――身体の外にあるのは、『マナ』とは呼ばないんだっけか? 逆か?
疑問が一瞬だけちらついたが、そんなことはどうでもいい。
流は一つの可能性を思い付いた。
ウィルクは何か必殺技を使った? 別世界から人格を強制的に召喚する呪文?
だとすると、必ず殺されるのはウィルクの方だが。
無関係の他人まで巻き込んでしまう、新手の心中だろうか。
「≪現身≫でやっていくことに、不安を感じてる、とか……?」
流の馬鹿げた考えを、医師の言葉が遮る。
しかし、彼は黙り込んでいる流の様子をみかねたのか、やがて諦めたように言った。
「まぁ、無理に聞き出すことでもないか。けど、何か思うことがあるなら、アルフィにだけは教えてあげなよ」
「……そうだな」
一応、話を合わせる意味で肯定しておくことしかできない。
流は己の情けなさにため息を吐いた。