02.ウィルク
流はため息を吐く。
異常事態だ。
ゲームタワーに連れてこられたときと状況は似ているが、事態はより深刻だとみて間違いない。
必死になって何が起きたかを思い出す。
――また、自殺未遂をした?
違う。もうそれはしないと決めたはずだ。
――どこかの学校に忍び込み、大量飲酒?
違う。飲み過ぎについては笑い飛ばされたし、第一そんな馬鹿げた真似は酔っていてもしない。
いずれの可能性も、この不可解な現状に繋がらない。
――“ウィルク”?
『ウィルク、お酒飲んだの?』
そう、医師は言っていた。
これは人の名前だ。訳がわからないが、流に向けられてこの名が呼ばれた?
ズキ、と頭が痛む。
『ウィルク?』
思い出す。動悸が激しくなっていく。
『ちょっと、ウィルク!? 大丈夫!?』
蘇る。ほんの一時だけ意識があった。あのときの記憶が。
あのとき、確か流は、床に崩れ落ちて嘔吐していた。
『ウィルク! もう大丈夫だから!』
少女の声だ。派手な外見の綺麗な少女。
「――あ」
と流の口から声が漏れる。
――ウィルク。
記憶の時系列が繋がった。
訳のわからないまま倒れ嘔吐し、“ウィルク”と連呼されながら運ばれた記憶。
おそらく、今はあれからそう時間は経っていない。
そこまで思い出すと、流はますます混乱する。
余計に意味がわからない。
――何が起こってやがる?
こみ上がる不安。
――俺は一体どうしちまった?
心を飲み込もうとする恐怖。
流は視界が歪んでいくような錯覚に陥った。
理解不能な情報が飽和状態を迎え、流の精神は、
バチバチ! と流の頭で、火花が散るような激しい音が鳴り響く。
――そんなふうに、平静を取り戻していった。
流は痛む頭で集中する。
認識と現実のズレを修正するために。
『思い出せ』と己自身に命令した。
気が付いたらウィルクと呼ばれ、悪心に倒れ、ベッドで目覚める。
その前の記憶はどうだろう。
バイトを探していた?
テレビを見ていた?
それとも寝ていただろうか?
記憶を辿ろうとするが、分厚い霧に阻まれたように上手くいかない。
記憶が欠落しているかのように。
なら今度は、最後に印象に残った出来事を思い返す。
――アレしかねえよな。
そう、心中でごちる。
思い返したところで、流の脳裏に乾いた破竹音が鳴った。
***
流にとって、ゲームタワーでのラストゲーム。“ロシアンルーレット”。
流はリボルバーの先端を己のこめかみに当て、引き金を引いた。
轟く空砲の音。
使用されたリボルバーの安全性は確約されていた。
それでも、残チップ少量の流にとって被弾は致命的で、ゲームタワーにおける死を意味する。
流は敗け、ゲームタワーを追放された。
***
流はゆっくりと、その後の記憶を辿る。
追放された流は、その後無事に自宅まで送り帰されたはずである。
ゲームタワー直前に、練炭による自殺未遂を犯したアパートの一室だ。
流がゲームタワーに滞在している間のことは、大家には精神疾患で入院していたと上手い説明が為されているはずだった。
だが、ゲームタワーから帰った後の生活がどうっだったのか、さっぱりと記憶にない。
――結局、大したことわからねえな。
落胆し、流は三度頭を掻く。
その刹那のことだった。
流の背筋を、ぞっと嫌なものが走る。
最初に感じた違和感の正体がわかったのだ。
髪が長すぎる。
男にしては珍しい長さの、手触りがサラリとした髪。
だが、流は髪を伸ばしていない。
そこで、もう一つ気が付いた。
視界に入る手の甲の形が、自分のものとは明らかに違うのだ。
流が思うに、自分の手はもっと大きく、色もここまで白くない。また、この手は血管があまり浮き出ておらず、本来の自分の手とは違う綺麗な手をしていた。ひょいと裏返しにして手のひらを確認してみるが、タコが多く、やはり自分のそれとは思えない。
スウ、と飲み込んだ息が、やけに冷たく感じた。
上半身を起こし、掛け布団を引っ剥がした。
自分の身なりを確認する。
黒いワイシャツ。
流はたまに好んで着るが、胸ポケットに刺繍されているエンブレムに見覚えがない。
白いパンツはフォーマルな制服であり、これもやはり流の物ではなかった。
流はたまらずベッドから飛び出した。
点滴のキャスター付きスタンドを右手で掴み、カーテンの外側に出る。
頭がふらつき、足がもつれそうになる。何とか踏ん張り、周囲を見回した。
ここでも、流は違和感を覚える。流の知る医務室と雰囲気が違うのだ。
暖炉があったり、壁付きのランプがあったりと、どういうわけかアンティークな造りをしていた。極めつけには、木材フレームにランプを取り付けたシャンデリアまで吊されている。
ざっと見た限りでは、鏡は見当たらない。
流は腰高の棚の上に鎮座する、大きめな水槽に近づいた。
水槽には白い砂が敷き詰められており、ぼんやりとした照明の光を反射し、きらきらと輝いている。砂の上には、ガラス玉が幾らか散りばめられており、さながら宝石箱のようだった。
その上を、小さく美しい魚が、優雅にくるくると踊りをみせている。
アクアリウムだ。だが、流は魚に興味はない。
水槽の縁にはシルバーの装飾が施されており、流は右手前側にスライド式のツマミを目ざとく見つける。
それは流の想像通り、アクアリウムの照明の強弱を調節するスイッチだ。
完全に照明の明かりを消したとき、流は軽口を叩くしかなかった。
「……美少年になっちまった」
黒のバックスクリーンが張られた水槽は、その明かりを失うと、たちまち姿見に早変わりした。
目前に映った顔を見て、流は愕然とする。
鈴のような眼、細いが芯があるよな形良い眉、通った鼻筋、そっとめの輪郭にむくみのない唇。
目元まで垂れ下がる前髪と、耳に被さるサイド。
神坐流の姿は、神坐流が知るそれではなかった。
水槽に映ったその顔の頬が引きつった。眼が大きく見開かれ、口元はぎこちない笑みを浮かべる。
――声!?
気付き、流は咄嗟に喉に手を当てる。
やはり自分の声ではない。声変わりはしているが、男にしては高い声色だ。流の声はもっと低く、太い。
流は両手で顔を覆った。自分のものではないはずの、見知らぬ顔を。
――待て待て待て待て!
念仏のように心の中で唱える。
津波のように押し寄せる疑問の大群を、流は無理矢理押さえ込んだ。
わずか数分の間だったが、流はそのまま動けなかった。どうやっても説明がつかない超現象に、為す術なく飲まれてしまう。
夢かと疑いさえしたが、そう疑って夢だった経験は流にはない。
『嘘だろ?』と言ってみせても、そのほとんどが真実だ。
冷静になろうと強がってみせたが、無駄である。現実感と現実味との乖離が、流の“いつも通り”や“当たり前”をあっさりとぶち壊す。
ゲームタワーで幾度となく信じられない結果をみた。
起こりえないことは、十分に起こりえることなのだ。そう骨の髄まで思い知ったはずだった。
しかし、今度こそ、こんなことはあり得ない。
強いめまい。世界が回る。
流は仰向けにひっくり返った。点滴のスタンドがガシャンと倒れる。
気を失えたらどれだけ楽だろう、と流は思う。
視界に入る光景も、倒錯した意識も、たっぷり数十分間は回転を続けた。