32.不可視の記憶
リュウは荷車に寄りかかるシロノを座らせた。シロノの調子を見ようと、ヴァネッサはシロノの前にしゃがみ、彼の顔を触れる。
「確かに結構な熱ですね」
「サソリに噛まれたかもしれねえ」
御者は声を荒げることはなかったが、その様子から緊迫感を抱いているのがわかった。
そんな彼に、リュウは宥めるように答える。
「コイツはぼんやりしてるようにみえるけど、そんな隙はねえ。風邪かなんかじゃねえか?」
「治癒術をかけます」
そう言って、ヴァネッサはシロノの顔に触れた手から、癒やしの光を放つ。
だが、そんなヴァネッサに対しても、リュウは同様の違和感を覚えた。
「ねえ、ヴァネッサも調子悪そうだよ?」
「俺もそう思う。ヴェノを活性化させるのは避けた方がいいだろ」
「私は大丈夫ですから。今はシロノ君を」
ヴァネッサの顔に薄らと陰が増したようにみえたのだ。
元々がダウナーで儚げな雰囲気を纏うヴァネッサだが、リュウの印象としては彼女は凜然として美しい。それが今は水分が不足した花のように、どこか元気がないように思える。
ヴァネッサはシロノの表情に視線を移し、治癒術を解除した。
「手応えがない……」
そう呟いたヴァネッサに、ルアノとリュウは一瞬顔を見合わせた。
そして、ルアノはヴァネッサに視線を戻して問う。
「治らないの? シロノ」
「ええ、理由……までは……、――何にしろ、シロノ君はただの発熱ではないです」
立ち上がったヴァネッサの歯切れは悪かった。
そんなヴァネッサをみると、リュウの心中に猜疑心が沸き上がった。
彼女自身も体調が悪くて、万全な状態でシロノを看れないことに不甲斐なさを感じているのか?
それとも――。
リュウはシロノの方に顔を向けた。いつもの無表情と変わらないが、よくよく観察すればおかしなことなど幾らでもわかる。
――自分の鈍くささに腹が立った。
どうしてこんな風になるまで、シロノが“いつもと変わらない”と思っていられたのか?
彼はいつから我慢し、どれだけ苦しい思いをしていたのか?
「そろそろ日が沈む。あと少しで、ルランドに着けるか?」
傾き始めた太陽が、もう間もなく茜を帯びそうな頃合いだった。リュウは御者にルランドへの到着時間を訊く。
「馬の具合から距離を判断するに、まだ一時間以上は掛かるぜ。コイツらも疲れちまってるから、無理はさせられねえよ。黒い嬢ちゃんがいよいよヤバいってんなら、潰してでも走らせるけどな。だが、それでもやっぱり四十分以上は掛かると思った方がいい」
御者の回答に、リュウは悩む。あと一時間以上も、シロノをこの状態にしておいていいものか。ヴァネッサの治癒術が効かないなら、もしかすると厄介な病気の可能性さえある。
ラクダより、ルアノにシロノを担いで走らせた方が、早くルランドに着くのでは?
――リュウのズボンの裾を、シロノの右手が弱々しく掴んでいた。
「オッサン。馬潰すのは悪いから、ギリギリのとこで頼めねえか?」
「わかった。じゃあ、客台に黒い嬢ちゃん寝かせろ。兄ちゃんは俺の横に座れや。ったく、やけに金払いがいいから、面倒な客とは思ったけどよぉ……」
「ありがとな。オッサン」
リュウは不安を振り切るようにして、首を横に振った。きっと、シロノは大丈夫だろうと信じるほかない。
景気のいいむち打ちの音。それと同時に、馬の鳴き声が辺り一面に轟いた。
***
「シロノ君。元気になったからといって、フルコースは流石に……」
黒龍の荒野を抜け、何とかルランドに到着したリュウ達は、早々にシロノを診てくれる診療所を捜索した。時間が遅くなりすぎると、診療所の営業時間を過ぎてしまうからだ。
――異常なし。
診察後にシロノが言い放った結果に、リュウとルアノは地べたにこけそうになった。
ヴァネッサは安堵からか、ため息を吐いて、夕食を採る提案をしたものだった。
シロノの発熱は何だったのか、本人にもわからないし、診療所でも原因不明とされてしまった。
今こうして、いつも通りに夕食を採ってくれているのだから、リュウとしては文句はないのだが。本当に杞憂でよかった、と心底安心している自分に気が付くリュウである。
そうして、シロノは何事もなかったかのようにコース料理を食べている。ここまで来ればのんびり出来るとヴァネッサは言ったが、リュウにしろ酒を飲む気が起きなかったので、四人してソーダ水を注文した。
「エグルルフには、あとどれくらいで着くんだ?」
パスタを食べているヴァネッサに、リュウは尋ねた。
彼女は噛んでいるものを喉に通した後、水をごくりと飲んでから口を開く。
「ここからなら、余裕を見てあと二日。マトルゥからルランド間で、一気に距離が縮まりました」
「ならよかった。流石に、王子とのアポずらしちまったらマズイんだろ?」
「不味い――というのは適切ではないでしょう。ヴァン様もルアノ様とお逢いになるのを楽しみにされているはずですから、きっとこちらの段取りにもご理解頂けますよ」
ヴァネッサは律儀にリュウの言葉に答える。ラクダでの反応とは大違いであり、彼女自身もシロノ同様に調子が戻ったような気がする。
ともあれ、ヴァンにとってルアノの訪問は面倒事ではない、とヴァネッサは言いたいのだろう。言われてみれば、それはそうかと納得するリュウである。
ルアノの様子をみると、何やら少しぎこちくソーダ水を飲んでいた。そんなルアノをみて、リュウの悪戯心が鎌首をもたげてしまう。
「どんなヤツなんだ? 王子様は」
ぎくりとルアノの身体が硬直する。
三人分の視線がルアノに集まったのを自覚したのか、彼女はグラスを置いて右手で首の後ろを撫でた。
「たはは。なんか今更緊張してきちゃってさ」
などと誤魔化すような笑顔を浮かべた。
「そうだねぇ……。ヴァンは落ち着いてて、誠実で……、優しい人だよ」
「ほう。悪くねえな」
「そうですね。人相と言葉遣いが悪くて無礼でデリカシーに欠けていないなら、もう悪くねえですよね」
「お前じゃない。ルアノに訊いてんだ」
リュウは口を挟んだヴァネッサに、目もくれずに手だけで制止を掛けた。
「いつ婚約した?」
「えっと、もう一年半くらい前になるのかな。シェイリスとは仲良くなって結構経つから、王族同士の交流もそれなりに多いんだよ。わたしはあまり社交的な場が好きな方じゃないんだけど、シェイリスだけは別で。だから、父上が輿入れさせるならシェイリスの王子と、って言ってて、何とか嫁ぎ先が決まった次第です……、ハイ……」
「なら、ガキの頃から知った仲ってことか。よかったじゃねえか」
「そうだよね。これ全然知らない人だったら、わたしもうどうなってたか……」
あくせく、と。首の後ろに手をやりながら喋るルアノ。
その様子をみて、リュウは何故か胸をなで下ろしていた。リュウが安心する筋合いなど全くないはずなのに。
一般的に政略結婚といえば、恋愛をテーマにしたフィクションにおいて障害として扱われたり、そうでなくても政治の道具として乙女を扱うという道徳的観点から、あまり良い目で見られないイメージがある。
だが、みるからにルアノは満更でもない様子だし、相手の人となりをちゃんと知っているのであれば、余計な心配も要らない。
結構結構。と呟いて、リュウはステーキを口に運んだ。
「リュウは?」
――ステーキを噛む口の動きを止めてしまった。
「いや、今はそれどころじゃないかもだけど、昔とかさ」
などと、無遠慮にルアノは尋ねてくる。
リュウは肉を飲み干し、ため息を吐いた。
「俺はもう、そういうのいいや」
「かなり痛い目みてるよこの人!?」
リュウが中空を見ながらほやくと、ルアノは察してしまったのだろう。目を縦楕円にして自らの失言に、あるいはリュウの過去に震えていた。
――苦い記憶だ。
リュウもシロノみたく、忘れることが出来ればいいのに。
「だ、大丈夫だよリュウ……。いつか、またそう思える人に逢えるよきっと」
「ルアノ様。甘やかしてはダメです。この腐った性根を何とかしなければ、そんな奇跡は起こり得ない」
慰めモードに切り替わったルアノに、しかしながら苦言を呈するようにヴァネッサ。流石にリュウは自分の性根を腐ってるとは思わないが、彼女の言う通り、リュウはもう誰かに恋心を感じることなど――。
「そ、そんなことないよ。リュウって普通にしてれば格好いいし、ちょっとオラつくのを控えれば……」
「ちょっと?」
「……もっと控えれば、……あと頭おかしいのを治して……それから――」
「余計なお世話だ! ったく、勝ち組が……」
指折り数えて論うルアノに、リュウは一喝。
リュウは背もたれに上半身の体重を預け、脚を組む。顎を持ち上げて、対面に座す女性二人を見下ろした。
「別に俺は一人でも生きていけるっつーの。愛だの恋だのができない? 上等じゃねえか。せいせいするぜ」
「ほら、そういうとこ……」
ルアノは半眼で睨み、ヴァネッサに至っては呆れて関心さえ失ってしまったのだろう、パスタをフォークにくるくると巻き付けている。
本心のつもりだった。
流は一度、自ら命を絶とうとし、それでもまだ生きていた。ゲームタワーで、もう生きることだけは諦めまいと心に決めた。
たとえ独りきりで、この先の人生を歩むことになろうと、流は――、
――ふと、思い出せないことを、思い出した。
ゲームタワーから戻った。そして流は独りで以前のように生活を送っていたはずだ。
それからのことが思い出せない。それ以降の記憶が、どうしても思い出せないのだ。
答えが叩き出せない疑心に、頭の中を占拠される不快感。
――神坐流は、いつウィルク・アルバーニアになった?




