20.完全なる敗北
――ヴェンディが血色の良い可憐な唇を、大きく開いた。
「ふぁ……」
ヴェンディは口を片手で覆うと、可愛らしく欠伸を漏らした。
――何暢気に欠伸なんぞしてやがるこのチビガキ!?
ヴェンディはメイガンの視線に気がつくと、欠伸を見られたことを恥じるように、頬を染めてメイガンを睨んだ。
「……何だよ。ジロジロ見てんな気持ちワリィ。お前の番だぞ」
――寝惚けてんじゃねえよ!
アルバーニアが毒+3に達しただろう。そう頭の中で絶叫するが、ヴェンディは知らん顔だ。
ヴェンディへの罵倒で一杯になった頭に、場違いな明るい吐息が漏れる音が届いた。
その声に、まさかと息を呑む。
アルバーニアだ。アルバーニアが肩を揺らして嗤っていた。
「オイオイ……。何つー顔……してやがんだよ」
ごふっ! と咳ごむアルバーニア。
その姿が目に入ったとき、メイガンはようやく気が付いた。
「ア、ル……ヴァーニアアアアーァ!!」
――この男に、してやられたのだ。
アルバーニアはメイガンが口から吐いた火焔のような慟哭を聞くと、満足げに言い放つ。
「メイガンさん。テメエの敗けは、もう決まりだ」
***
――一体、何事だというのか?
ルアノは混乱で、何手前からか頭が回らない有り様だ。
リュウが自分で毒を分配した杯を、二回も取った。これだけでも意味がわからないのに、その上どちらもセーフとは、一体何がどうなっている?
メイガンもリュウも青⑨を選択せず、レッドラインに手をつけたのは?
極めつけは、メイガンの突然の動揺と雄叫び。からの、リュウの勝利宣言。
ルアノには、何が何だかわからない。
「流石に、気付いた、ろ。俺が、テメエの“ノゾキ”に……ごほ! 気が付いた、ことに……」
「“ノゾキ”!?」
予想だにしない単語に、ルアノは叫ぶ。
ノゾキとはそのまま、リュウの分配シートを覗いていたということだろう。
「この人ズルしてたの!?」
突拍子もないが、そう考えればメイガンの態度や、ルアノが感じた違和感にも説明がつく。
「俺との差を、見せつけたかった……のかも、しんねえけど、力をひけらかすのは、いただけねー……」
メイガンの大胆さは尋常ではなかった。リュウの毒を飄々とかわすあの余裕に、ルアノは神業を垣間見た気さえした。
一セット目にルアノが感じた違和感。あれは、監督官がインチキに加担している可能性を、無意識に疑ったものだったのだ。
「あれじゃ、ズルしてます、って言ってるような、もんだ」
リュウの呼吸が荒々しさを増している。
その様子に、ルアノは焦ってしまう。リュウが体力の限界を迎えつつある?
――そういえば、先程からリュウの身体が、異様な熱をもっていないか。
「ねえ、リュウ……。無理して喋らない方が……」
「わり。……俺は、今、ほとんど3単位量の毒を……」
「なんですって……?」
とんでもないカミングアウトに、ルアノはなるべくリュウを刺激しないよう声量を抑えるが、本音を言えば襟首を掴んででも問いただしたい。
「そうだ……。お前は、確かに3単位量、服毒しただろ……」
もう驚きを隠そうともせずに、歯を食いしばるメイガンである。
「どうして≪決戦≫が終わらない……」
メイガンの細工に気が付いたからなのか、あるいはリュウの勝利宣言に僅かに安堵したからなのか、ルアノにはメイガンの身体が縮んだようにみえる。
拳を握り、顔を少し俯かせ、血走った目で中央テーブルを睨み付ける彼は、もう以前までの彼ではない。安全地帯からリュウを一方的に攻め立てる狩人のような勇姿は見る影もなくなってしまった。
何にせよ、メイガンの疑問はもっともだった。
リュウはたった今、『自分は3単位量の服毒をしている』と暴露した。なら、何故ヴェンディは≪決戦≫の終了を宣言しないのか。
「二セット目……」
と呟くリュウ。
「俺は、二セット目から、シートをすり替えていた。テメエが視た、青⑥の服毒は、幻なんだよ……」
――シートのすり替え?
意味不明なことを口走るリュウの意図を読み取ろうとするルアノだが、そんな暇を与えてくれることなく話は進む。
「じゃあ何か? お前のそのザマは、演技だって言うのかよ……!?」
むしろ、その可能性を否定するようにリュウに問い掛けたメイガン。そして、それはルアノも同感だ。
――リュウが二セット目で服毒していない?
その真偽は、彼の様子を見れば明らかだ。
明らかに、あり得ないことだ。
「……お前、見えることに、頼りすぎだ」
リュウは薄く笑う。
そして、右手でジャンパーのポケットを探ると、弱々しくペットボトルを取り出した。
――メイガンが驚愕に目を開く。
「俺が毒を飲んだのは、杯からじゃねえ……。コイツからだ」
――?
何言ってんのこの人?
ルアノは頭を捻った。
――ペットボトルに毒?
いや、駄目だろう。と心中で突っ込みを入れた。
ペットボトルに毒なんて入れてちゃ駄目でしょうが……。犯罪だ。一体、何処でそんなもの――、
――違うよバカ!?
己に活を入れるルアノ。
リュウはこの場で毒をペットボトルに仕込んだのだ。
ルール説明で毒のアンプルを渡されたあのとき、リュウは毒をペットボトルに入れてしまったのだ。
――見事な手際だなぁ。
などと感心することさえ出来ない。ルアノはただひたすら呆れかえるばかりだ。
それはメイガンも同様だったようで、目を剥いて二の句が継げずに硬直している。綺麗にセットされていたオールバックの髪が、一筋ぷらりと彼の額に掛かった。
「お前みたいな、エスパー野郎は……何人かいたよ」
リュウが余計なことを喋りながらせせら笑う。
その結果、むせ返ってげほげほと咳をしてしまう。
それだけみれば、ただのアホだ。
「だが、お前は、力に頼りすぎ……。的外れな大胆さをみせたり、……力の過信だ」
しかしながら、嘲笑混じりに放った言葉は、経緯を半分程度しか理解していないであろうルアノにさえ、正鵠を射たものに聞こえる。
「その自負心、誇りが、お前の眼を……曇らせた。俺を、甘く見ちまった。見誤った、お前の選択肢は、もう……二つだけだ」
リュウを甘く見たのは、メイガンだけではない。ルアノだって、リュウの仕込みに一切気が付かず、ただ窮地に立たされながらも諦めない根性のみを評価し、応援し続けた。
ルアノは神妙な様子で参加者二人を見ている監督官達をみやった。
彼女達とてどうか。分配シートを見てから審判をしているヴェンディ達だが、果たしてメイガンの“ノゾキ”を見破れていたかさえ怪しいものだ。
「青⑨を飲み干して、毒で敗ける。それか、赤⑨を俺に譲り、やはり敗ける」
『どちらも嫌なら……』とリュウは続けた。
息を切らし、苦悶の表情を浮かべながら、言葉を続けたのだ。
「選ばない。このまま俺が、倒れるまで、待つ……」
何秒かの沈黙があった。
ややあって、リュウの言葉を受けたヴェンディがメイガンに訊く。
「メイガン。どうすんだ? まあ、アルバーニアがぶっ倒れるまで待ってもいいが……。アタシが暇すぎて気が変わっちまうのと、どっちがはえーかの持久戦だぞ」
ヴェンディは肩をすくめている。
「――ハッ!」
だが、メイガンは一笑して首を横に振った。
「ここまで、見事にしてやられて……、今更、悪あがき、なんざ……しねえよ」
彼は口元を吊り上げている。
その瞳には、どこか炎が枯れきったような、諦観とも無常観とも呼べる静けさを宿していた。
「お前さんの、勝ちだ。アルバーニア」
そう言うと、メイガンは赤⑧を取り、飲み干した。
「メイガンの服毒量が3単位量に達した」
そして、放たれたヴェンディの言葉に、
「な――」
「――ァアアアアア――にぃいいいいいいいッ!?」
メイガンは絶叫し、なお余った爆圧で口内で膨らませたのか、顔面の右半分を思い切り持ち上げた。
「“毒杯九飲”、ウィルク・アルバーニアの勝利だ!」
高らかに宣言するヴェンディ。
――やった。
――やりよった!
ルアノには、まだよく分からないことが沢山ある。
だが、確かに勝ったのだ。
心が躍るとはこのことだ。ルアノは今にもリュウの両手を取って、万歳でもしたい衝動に駆られてしまう。
――制服組のエージェントに、リュウが勝ったのだ!
***
――何故だ!?
未だに、メイガンは自らが毒を飲んだという宣言が信じられない。
だが、そんなメイガンの思考を置き去りにするように、神経系の異常がもたらす身体への悪影響は、素直に現れた。
ぶれていた視界は、徐々にピントがなかなか合わない映写機のようにぼやけ始める。目がかすみ、メイガンの視覚を奪った。
身体は熱く、心臓の音がうるさい。
メイガンは平衡感覚を失い、尻餅を着いた。
――何も見えない。感覚がなくなっていく。
まるで虚無の世界に引きずり込まれるようにして、メイガンから五感が失われつつあった。
自らは眼をしっかり開いていると自覚しているのに、“其処”は大の字に倒れたメイガンの肉体以外が存在しない世界だった。
ゆっくりと消え去る、“外”の音。
「悪いな。メイガンさん」
最後にメイガンが聞いたのは、そんなアルバーニアの声だった。
「青⑨には、毒なんてなかったんだよ」
――どういうことだ?
そうメイガンが考えたとき、何もなかった世界に虚ろな人影が現れる。
その人影はコツコツと足音を鳴らしながら、メイガンの身体に近づいた。
横たわるメイガンの視界にアーミーブーツが映ったとき、その正体がアルバーニアであることがわかる。
「テメエは最後の最後で選択を誤った」
「何を言っているんだ?」
――声が出た。
「青⑨に毒がないなら、お前は赤⑥を選ぶまでもなかったはずだろうが……?」
そうアルバーニアに抗議するが、彼は嗤いを堪えるように身体を揺らしたようだった。
もっとも、メイガンに見えているのは彼のブーツだけ。
それ以上を見上げようとしても、頭が言うことをきかない。
「言っただろ? お前の覚悟と姿勢を試すって」
「まさか……」
信じられないことを言うアルバーニアに、メイガンは戦慄を禁じ得ない。
「バカなのか? そんなことの為に一手無駄にして、俺に最後の選択をさせたってのかよ……」
「そう。お前は勝ってたんだよ。青⑨を選んでいれば」
――俺はどうしてあのとき、赤⑧を選択した?
自省するメイガンだが、その理由などは決まっていた。
心が折られていたのだ。
己の能力が看破され、あまつさえ逆手に取られていたという屈辱に。そして、服毒量を誤認させられていたという敗北感に。アルバーニアを侮ったという自らの甘さに。
「だから、お前は潔く敗けを認め、服毒のリスクがない赤⑧を選択した」
――だが、本当に勝たなければならないのなら、青⑨を選ぶべきだった。
メイガンの勝利への執着心など、その程度。
暗にそう咎めているのは、メイガン自身だった。
――完敗じゃねえか。
最後に見たい。
アルバーニア。お前の顔を。
メイガンはもう一度アルバーニアを見上げようとする。
だが、やはり首が動かない。
メイガンは悟った。自分は彼のブーツを眺めながら、意識が途切れるのを待つしかないのだと。
メイガンがこの虚無の世界から消えてなくなるその直前、アルバーニアの嘲りが確かに聞こえた。
――この、ドマヌケが。
≪決戦≫・“毒杯九飲”
勝者
リュウ
敗者
グレイ=ミゼル・メイガン




