10.協力者
カチ、カチ、カチ――。
時計の針が、時間を刻む音が鳴る。
流は静かにアルフィを見据え、アルフィは異物を見るような目で流に視線を向けていた。
それから、何秒経っただろうか。
アルフィは顔を手で覆った。その仕草が、流が冗談を言っている可能性に縋り付く選択肢を、必死に消していることを物語っていた。
――早まったか。いや、もう腹を括れ。
こういうときに、どう声をかけてやればいいのか、流にはわからない。
謝るべきか、冷淡に事実であることを念押しすべきなのか。
だが、何か言わなくては駄目だ。
彼女にどれだけ激情をぶつけられても構わないが、流が場のコントロールを放棄することで、ウィルクとの関係がこじれるのだけは避けたかった。
流が口を開きかけたとき、
「……何を覚えてるの?」
そう、アルフィが遮った。
不意打ちを受けたように、流は口を半開きにして固まった。
「記憶喪失なのはわかった。でも、全部ってのは嘘でしょ?」
顔を上げ、アルフィは追い討ちをかけるように言う。
「記憶を全部失ったヤツが、今のアンタみたいに平然としていられるわけない。だから、何か覚えてることがあるんでしょ?」
「そうだな……」
流の声に動揺が漏れた。
自分が目前の少女を、ただの小娘と同じように評価していたことに気が付き、ショックを受けたのだ。
彼女はそこらにいる女学生とは違う。
仮にも、間もなく王国騎士になろうという、平均とは逸脱した個人なのだ。その精神力も洗練されているに決まっている。
――どうしてナメちまったかな?
ゲームタワーにいた自分なら、こんな致命的な勘違いは絶対にしなかった。
流はボケを自覚するように額を手のひらで覆う。日和、鈍った己の感に呆れてしまう。
ため息を一つだけ吐き、切り替えるようにしてアルフィに向き直る。
「俺自身、どこまで覚えているのか把握できてねえんだ。ただ、自分の過去や、ここらの文化独特の固有名詞は、ほとんど忘れちまったらしい」
「この辺りの文化独特の固有名詞? 例えば? 具体的に言ってみて」
「ハウネル、ヴェノ、≪現身≫とかって言葉に、聞き覚えがねえ。それでいて、点滴だのオムライスだのは覚えてる」
聞くやいなや、アルフィは頭を抱えた。
「アンタ、それほとんど少児と一緒じゃない……」
「無知って意味じゃ、その通りだな……」
なかなか的を射た表現をされて、流は苦笑いを浮かべるしかない。
「私も詳しくないけど、生活に必要なこと以外を忘れるってのは、よく聞くパターンよね……」
アルフィは顔をしかめたまま、右手の拳を唇にあてた。
「最近頭打った? 物忘れが激しいとかなかった? 今日のヴェノの廻し過ぎが原因とか? 精神的なものが起因するなら、十分記憶が戻る見込みも……」
「難しいこと知ってんな」
「アンタ今の状況理解してる!? 何余裕こいてんのよ!?」
「それが知りたいんだ。教えてくれ。このままだったら、俺はどうなる?」
「もうどうにかなってるでしょ!? 記憶なくしてるでしょ!」
確かに、記憶障害より悪いことは滅多にない。
だが、流はウィルクの進退について知りたかった。
「落ち着け。俺が知りてえのは、公になったらって意味だ」
「下手すりゃ、退学でしょうよ!」
「いや待て。タオの話じゃ、俺は既に卒業までの課程を全部クリアしてるんだろ? このまま何もしなくても、卒業はさせてもらえるんじゃねえのかよ?」
流は食堂でタオイェンやデュナスに確認した事実を思い返す。
ウィルクは既に卒業までの全課程を修了している。
それは、王国騎士になるための最終試験――つまりは卒業試験を含んだ話であり、後日行われるのは、あくまで≪現身≫になれないことにとどまる。
要するに、ウィルクは卒業の条件を満たしているので、このまま何もしなくても王国騎士になることは決定しているということを、タオイェンは言っていたのである。
「仮に卒業させてくれても、王国騎士には絶対になれないでしょ。正規の入団の条件は、養成学校を卒業しただけじゃなくて、健康であることが必須条件なんだから……。いや、ここって養成学校だし、王国騎士としての条件を満たせなくなった時点で、退学だったような……」
アルフィが途中から俯いて、ブツブツと呟き出す。
流が黙って聞いていると、ややあって彼女は顔を上げる。
「ていうかアンタ、何で平然とこれからの話ができるの……?」
正気を疑うように尋ねたアルフィである。
もっとも、疑いようもなく今のウィルクは正気でないが。なにせ、中身が別人なのだから。
「悪い。俺の訊き方がド下手くそだった」
「何か知んないけど、今のアンタ、超腹立つわ」
「悪気はねえんだ」
流は上半身を引いて、両手を上げた。
「それより、ここを追い出されたら、俺はどうすりゃいい?」
流の問いに、アルフィはぐっと口をつぐんだ。
おそらく、彼女は流の質問の意図に気が付いたのだろう。
ウィルクの記憶障害を認めることはできても、流の今後にまで思考が及ばなかったようだ。明らかに、今考えて答えに窮している。
そして、彼女が言葉に詰まったとき、流は自分の想像が当たっていることを悟った。
すなわち、この学校の外に、ウィルクの居場所は存在しないということだ。
「遠慮せず言ってくれ。『金が無い』ってよ」
「だから、何でアンタはそんなに落ち着いてるのよ?」
「なら、ちゃんとした施設での治療は見込めねえな?」
「見込みゼロよ。宿無し職無しコネ無しよ! 満足した!?」
言い切ると、アルフィは『フウーッ』と大きな息を吐いた。
さらりとしたピンクの前髪をかき上げ、目を強く絞り額にしわを寄せる。
「……だから黙ってたの?」
やや間を置いて、アルフィは口を開く。
「記憶喪失がバレたら、自分の立場がどうなるかわからない。だから下手に騒がないで、ずっと話を合わせて様子をみてた。そういうこと?」
「そうだ。ま、ホントのところは、テメエらへの猜疑心から言わなかったってのもあるけどな」
だが、何の知識もない流が、一人で問題を解決するのは不可能だ。
せめて、記憶障害を起こしたことを告白できる協力者が欲しかった。
ウルスやタオイェン達との会話、そしてウィルクのアルバムから、流はアルフィを信じることに決めたのだ。
アルフィはかき上げた前髪を軽く握った。苦い顔をしたまま、ぼそりと呟く。
「恐れ入るわ。その状態で、私との信頼関係を調べたってことでしょ……。そっか、だから手帳――何かメモがないか探してたわけね……」
「お前がいてくれたのは、不幸中の幸いだった。で、そんなアルフィさんに聞きたい」
「これからどうすべきかってこと?」
流は頷いた。
「俺の中では、もう少しこのまま様子をみたいって気持ちが強い。流石に、この状態で路頭に迷いたくねえからな」
「……」
思案するように、アルフィは黙っている。
「だが、それにはアルフィさんの協力が必要だ」
彼女は唇をぎゅっと結んだ。深い葛藤を抱くように。
「たとえ反対されても、俺は隠し続ける。せめて見逃すくらいはして欲しい」
「隠し通せると思ってるわけ? 記憶が戻る保証があるの?」
「可能性がどうであろうと、やるしかねえ。できなきゃ俺は、破滅だ」
アルフィは顔を両手で覆った。
そして、その隙間から出た口から――、
「確かに……」
と呟いた。
再び、沈黙が場を制する。
どうにも居座りが悪かった。こんなこと、彼女にとって、何の利益もない話だ。
流は今、アルフィが持つウィルクに対する無償の慈しみに訴えている。その愛情が兄弟としてのものなのか、異性としてのものなのか、あるいは両方なのかもわからないまま。
罪悪感は、もちろん疼く。
それと同時に、情けなさが、流の安いプライドを傷つけていた。
アルフィは両手をテーブルの上に置き、流の目を見据えた。
「具体的に、何をするか決まってるの?」
流は静かに首を振る。
「正直、俺に何が起こったのか見当も付かねえ。だから記憶を復活させる方法に、アテがない状態だ。楽観的にみりゃ、そのうち思い出す可能性があるが……」
「悠長なこと言ってる場合じゃないわね」
「ああ。差し迫った問題がおおまかに二つ。一つは、俺がここでの常識や人間関係が、全くわからねえこと。もう一つは、≪剣竜の現身≫の最終選抜試験だ」
流はこの世界における常識や、学校生活の規則を識っておく必要がある。これは記憶障害がバレるバレない以前に、ここでの生活に直ちに影響するからだ。
続いて、人間関係。これを把握しておかなければ、ウィルクの異常が露呈するのも時間の問題だろう。
「一つ目は、騙し騙しで何とかなっちゃうかもしれないわ。でも、流石に最終選抜はどうにもならない」
二つ目に対するアルフィの指摘を、流はもちろん承知しているつもりだ。
≪現身≫最終選抜は、もう二週間後に迫っている。
その存在をタオイェンから聞かされたときから頭を抱えている難題だが、流にはやり過ごす方法が仮病くらいしか見つからない。
「最終選抜、どうしても受けなきゃダメか?」
「ダメね。もう知ってるかもだけど、あんたは特待生なの。結果はともかく、せめて参加して誠意をみせなきゃ、何言われるかわからないわよ」
「だったら、それがタイムリミットってことになっちまうな。現時点だと」
覚悟はしていたが、やはり厳しい現実だ。
流は頭を掻く。ウィルクの長い髪に、未だに違和感を覚えてしまう。
アルフィは真っ直ぐに流を見ている。
その表情は、最初から不可能を決めつけているものではない。今、ウィルクがどれだけ問題を自覚しているのか、それに立ち向かう覚悟があるかを問うている顔だった。
つまり、もしかするとウィルクならこの状況を覆すかも、と彼女に判断されたということだ。可能性が全くゼロならば、とっくにバッサリ切り捨てられているはずだった。
「そのタイムリミットに対して、アンタが失った二年間は大きすぎる。……それでもやるの?」
「やるぜ? 俺からしてみたら、ここで諦めちまう方がどうかしてる」
このまま何もしないわけにはいかなかった。
それは、ウィルクに対する義理もあるが、流自身も立派な当事者だ。
行くアテがないというのは建前にすぎない。当事者である以上、ただ傍観するだけでは満足できない。
それは、流がゲームタワーで得た、生きることへの糧だった。
人生という膨大な時間を消費するための財産が、今目の前にある。
ゲームタワーで流は識った。
その味に耽溺したいと強く欲する己の性。すなわち、好奇心。
そして、その欲望を忠実にぶつけること以外に、生きる意味など存在しないことを。
ただその事実だけが、流の世界の救いようだ。
流の意思は既に固まっている。
あとは、目前の少女がそれを許してくれるか否かだ。
アルフィは立ち上がる。
そのまま、テーブルを離れ、流に背を向けながら――、
「手伝う」
と小さく言った。
流は目を瞑った。
何かが噛み合う。そんな音が聞こえたのだ。
『お前、あんまそういうの表に出さないから、地味に皆気にしてたんだぞ』
ふいに、デュナスの言葉が思い出された。それが、今のアルフィの後ろ姿と重なった。
――大義名分を得たわけだ。
流が望んだ勝負と、周りが望んだウィルクの帰り。二つがイコールで結ばれた。
それだけで、燃料でも得たかのように、胸の内で熱いものがほとばしる。
「アンタがリタイアしたら、私が困るし……」
髪をいじりながら呟くアルフィに、流は笑みを零した。
「ありがとう。アルフィさん」




