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 僕がもっと頭よくて、青大附属に通えるような奴だったら。

 今回に限っては僕の成績が悪いことを、いやって程思い知らされた。

 健吾くんや佐賀さんが僕を軽蔑したようなまなざしを投げつけたわけじゃない。かえって尊敬してくれたようなこと、言ってくれた。

  でも、佐賀さんはどう思ったんだろう。なんとなく、嫌いになられたわけではなさそうだけれど。

  青大附属高校にあのふたりはストレートで進むんだろうし、もしかしたらおとひっちゃんも一緒に行くかもしれない。でも、僕はやっぱり、無理だ。ものすごく勉強して、青潟工専に受かったとしても、どうしようもない。

 ──どうしようもないのかなあ。

 水鳥中学生徒会で行われる予定の交流会……厳密には「交流準備会」……は、非公式ながらも先生たちの許可を得て、来週の土曜日午後に開催決定した。おとひっちゃんと総田ががんばって先生たちをまるめこんだ、もとい説得した努力と根性の結果だ。

「今回はあくまでも、『準備』なんだってことを強調しといたぜ」

 総田はにんまり笑いつつ、僕に予定の書かれたプリントを渡してくれた。

「正式に交流会が動き出すのは四月以降ってこと。関崎の奴、一刻も早く開きたがっていたけどな、そうそう簡単に、忙しい時にできるかって。卒業式とかいろいろあるんだぜ。まあ、来週の土曜だったら、教室もきれいだし、そんなに大騒ぎしなくても青大附中のみなみなさまをお招きできるんでないかと、思ったわけだ」

「ずいぶんあっさり決まったよね」

 早い展開にびっくりした。いろいろ裏に手を回さないと交流会なんて出来ないと思っていたからだった。行事なれしている青大附中だったらともかく、公立の水鳥中学でそんなこと、時間かかっていつのまにか卒業なんてことにならないだろうか。心配していたのだ。

「だからだ、俺が『交流準備』ってことにこだわったのはな、教師連中にあまり重たいこと考えさせたくなかったってわけさ。だろ? 最初は軽い気持ちで教室を貸してもらって、先生にくっついてもらって学級会みたいなことをやろう、ってことを強調したわけだ」

「ああ、そっか。小学校の時やった『おたのしみ会』みたいになんだ」

 夏休み、冬休み、春休み、それぞれ直前に、教室を使って「お楽しみ会」を各クラスで行うのが常だった。転校することに決まった奴がいたら、土曜の放課後を利用してよく、「お別れ会」とかを行ったりした。延長上と考えれば、納得だろう。

「けど、先生たちはなんも言わなかったのか?」

「だから、一応、議論するテーマは決めているぜ。学校祭以来、『校則』『いじめ』あたりの問題を熱く語ってもらえればいいだろ? 関崎が向こうの委員長に連絡して、簡単に意見を集めてもらうようにしているらしいけど、そんなのどうだっていいだろ」

 ──おとひっちゃんのことだ、本気で議論戦わせようと思っているよな。

 何度やっても無駄だってわかっているのに、やめることできないおとひっちゃんの性格。

 こっそりあきれるほかない。

「で、水鳥の生徒会連中はみんな参加するんだろう?」

「そりゃあなあ。関崎言うには、二年の代表が六人くらい来るって言ってたぞ」

 ──二年だけかあ。

 何期待していたんだか。話を聞き流しながら、僕はこの前佐賀さんと会ってから、何日たったかを数えていた。もう、一週間近く経った。うちの店を他人の振りして覗き込んだり、郷土資料館のあたりを遠回りしてみたり、この近辺のエレクトーン教室ってどこだろうと電話帳で調べてみたりとか、僕の思い当たることはすべてしたのに、全く収穫なし。一番いいのは総田かおとひっちゃんに頼んで、健吾くんの電話番号を聞きだしてもらうことだろう。

  健吾くんには内緒で来てくれたんだから、僕はできれば佐賀さんとふたりっきりで話をすべきだと思っていた。

「その六人って、面子どうなってるのかなあ」

「知らねえ。その辺はみな関崎が把握してるぜ。俺は内川会長と一緒に、当日どんなテーマを振るかを考えてるとこ。ほら、青大附中の評議委員会ってかなり芸人が多いとこでな、毎年冬になると、ビデオでドラマ仕立ての演劇を撮って自己満足するんだと。ほら、『奇岩城』だったか。怪盗ルパンの話なんかも、無声映画っていうのかな、ああいう感じでこしらえてたぜ」

「無声映画?」

 古すぎる。イメージ沸かない。総田は何気なく博学だ。

「もちろん台詞はちゃんとしゃべっているんだけどな、途中経過とか、あらすじとかを、話の途中に文字で流すんだ。紙に書いてあったものを、カメラで少しずつずらしていくってやりかたでさあ。いわゆる紙芝居感覚。器用なことするよな」

 やっぱりよくわからない。青大附中の評議委員って、遊び人が多いんだろう。

 ──「彦一とんち話」を押し付けるうちの学校とは違うよなあ。

 中一の時、学校祭三日目に無理やり見せられたつまらない演劇を思い出した。臨時演劇部といった形で先生たちがキャストを集め、上演したという代物だった。

「おもしろかったの、それ」

「おもしろいというか、出来は悪くない。が、しかし、爆笑した」

 どこで爆笑したのかは、謎のまま総田は話を逸らした。

「でな、顧問の萩野先生に話したんだ。青大附中って変人が多いんですねってな。そうしたら、水鳥中学でも同じことをやったらどうかとか言われてなあ。冗談じゃねえよ、どうせうちの学校だったら演劇やるったって、教師連中が喜びそうで生徒がふて寝ってやつばっかりだろ。萩野先生も同じ。『学校のいじめ問題をテーマにした演劇脚本』とかを見繕ってやるよって。全く勘違いもいいとこだぜ」

 ──学校のいじめ問題、演劇、か。

 網にかかった。言葉の魚はちゃんと捕獲して、水槽に泳がせとこう。


 交流準備会について、僕はおとひっちゃんから詳しいことをほとんど聞いていなかった。

 あまりにもだんまりだったので何気なく 、

「この前総田がしゃべってたんだけどさ」

 と持ち出してみた。白状した。

「雅弘、ごめん。俺も隠す気はなかったんだけどな。とにかく先生と話をつけるのが大変だったんだ。悪かった」

 平謝りされても困るんだけど、まあいいや。僕は知らない振りして、とっくの昔に総田から得た情報をふんふんと聞いていた。

「そうなんだ。もし、俺、おとひっちゃんの役に立つようだったら手伝うよ」

 終りまで聞いた後、切り出した。もちろん満面の笑顔を忘れないでだ。

「雅弘、けど、お前最近、店の仕事忙しいんだろ? 水野さんが言ってたけど」

 ──あれ、おとひっちゃんさっきたんと話なんかしてるんだ。

 これまた意外だ。隠していたくせに、何気なくぼろがでる。かわいそうだからその辺も知らん振りをしておいた。店の配達をこまめに手伝っていて忙しいのもほんとのことだし、大抵は青大附中近辺までぐるっと一回りしてくるから時間がかかるのも否定できないことなんだから。父さんは「デート代稼ぎ」と信じ込んでいるけれど。

「うん、でも、この一週間ずっとだったから、一日くらいは大丈夫だよ」

「ほんとか? じゃあ、俺が萩野先生に頼んで、お前も参加できるように話してみる」  

  みるみるうちにおとひっちゃんははりきりだした。声が花開くように華やいでいる。なんだ、おとひっちゃん僕にいてほしかったんじゃないか。

「けどさ、おとひっちゃん。誰が青大附中から来るか、もう名簿、出来てるんか」

「ああ、立村に連絡して名簿をもらったんだ。一応な」

 やはり、おとひっちゃんは立村とウマが合うらしい。総田の言う「うすらぼけ評議委員長」。やはり同類、感じるものがあるのだろう。

「二年が中心なんだろ」

 おとひっちゃんは黙った。

「一年も来るの」

 今度は僕の声が花開いた。まずい。笑いながらごまかした。

「ああ、来る」

 わかりやすい。しぼんでいる。肩がいっきにがくんと落ちたのがおかしい。一呼吸置いた後、僕は尋ねた。もしかしてと思ってたけど、やっぱりもしかしてだ。

「何人?」

「ふたり」

「まさか、来るのか、あの人」

 返事はないけど、言葉を飲み込んでいる様子ですべてが読み取れた。

 ──そういうことか、おとひっちゃん相当まいってるな。

 杉本さんとうとう、水鳥中学へ上陸するってことだ。

 葉牡丹の生育状況および、おとひっちゃんの本心を確認しにだろうか。

「おとひっちゃん、具合悪くなってないか」

「悪くなってねえよ。そんな失礼なことするか」  

  ──無理してるな。

 つっこんでもしょうがないので僕は黙っていた。どんなに努力してもおとひっちゃんは杉本さんを好きになんてなれないだろう。それはすでにわかりきってることなのにだ。おとひっちゃんはいい奴だから、懸命にまだ考えているのだから。どうやったら杉本さんを傷つけないように断れるだろうって。

 もし、相手がさっきたんだったら、とも思っているだろう。

「おとひっちゃん、大変だね」

 アドバイスなんてしたらむくれられるのが目に見えているので、僕は同情だけにとどめておいた。  


  ──葉牡丹を毟り取ってもう二度と水鳥中学の敷居をまたげないようにするにはどうすればいいか?

 佐賀さんと健吾くんと話をした時も思ったことなんだけど、どうして僕は杉本さんにだけこうも露骨に、「嫌い」って感じるんだろうか。

 もちろん好き嫌いというのは誰にでもあることだろう。いじめられたり、悪口言われたりとか、ちゃんと理由があって嫌うんだったら僕もこんなに悩まない。理由がないから変な気持ちになってしまう。

 初めて目と目が合った時、佐賀さんにはいやな気持ちを感じなかった。

 なのに、杉本さんに対しては、背筋がぞっとした。

 もちろんおとひっちゃんに葉牡丹を渡していたのを見た時は、胃の中の珈琲を吐き出すんじゃないかと思うくらいだった。多少、僕に失礼なことを言っていたけれど……ふつう「葉牡丹」なんて名前、知らないと思うよ……、そのくらいのことは、他の女子だったら許していただろう。女子をこんなに嫌うなんて、初めてだった。

 でも、杉本さんは少なくとも僕になにも、悪いことをしていない。

 葉牡丹を奪い取ったことへの逆恨みがいつ来るかと心配していたけれど今のところは大丈夫そうだ。

 僕の方が、杉本さんの見かけと雰囲気だけで思いっきり嫌っちゃっている、それだけだ。

 しかも、それだけの理由で「杉本さんに徹底的恥をおとひっちゃんの前でかかせて交流会関連に一切タッチさせないようにする」なんて計画を立てているのだ。やめようとも思わずに。

 ──どうしてだろう。

 僕もわからない。佐賀さんが僕と同じことを考えるのだったらまだわかる。健吾くんが復讐したくなるのだったら全く納得だ。けど、なんで一度しか会ったことのない女子に対してこんなことを思うのだろう。

 自分を弁護するわけじゃない。でも言わせてもらう。他の男子たちも、なんで杉本さんに対しては、ぞっとした顔を見せるのだろう。総田も、おとひっちゃんも。まあおとひっちゃんは葉牡丹を押し付けられた不幸な奴だからしかたないにしても、総田がなんで一目見るなり「とんでもない女」と言い切ってしまうのだろうか。  健吾くんや佐賀さんの話によれば、青大附中の他男子たちも同じらしい。

 共通する「むかつく」感情。どうしてだかわかんない。


 いらいらしてきて僕は、部屋にくすねてきた鈴蘭優のポスターを机から引っ張り出した。

 別に僕は鈴蘭優のファンなわけではない。

 ただ、髪型が佐賀さんに似ていた。それだけだ。本当に、それだけだ。

 顔は全く違うのに、髪型が同じなだけで、可愛いと思う自分がいる。

 ──杉本さんと同じ髪型にしていたら、そう感じるのかなあ。

 想像しかけておえっときた。やっぱりこの髪型は、佐賀さんでないと似合わない。鈴蘭優よりもはるかに上手だと僕は思う。


 階段を昇る足音が聞こえた。みしみしするのは母さんの体重か。すぐに机へ鈴蘭優をしまいこんだ。

「雅弘、電話だよ、女の子から」

 返事せずに、僕は階段を駆け下りた。母さんが部屋にまだいるのが気になるが、気にしている暇なんてない。

「もしもし、佐賀さん?」

 受話器を握り締め、第一声。当たっていてよかった。外れてたら恥さらしだった。

「はい、あの、私です」

 かすかにささやく声に、僕は耳の形がつぶれるくらい受話器を押し付けた。

「私、今日、お店に寄ったんですけど、傘を忘れてきてしまったみたいなんです。今、駅前なんですけれど、傘、届いてませんか」

 ──傘忘れたって?

 粉雪交じりの雨が降っていた。雪だけだったら、青潟の人たちは傘なんて使わない。僕もフードかぶって凌いだのに。

「店に寄ったっていつくらい?」

「はい、今日、学校休んで、エレクトーンのグレード試験受けに行ったんです。午前中に寄って、今、試験が終わって、今帰ろうとしたら傘忘れてきてたことに気が付いたんです」

「ちょっと待って」

 受話器をおっぽり出したまま、僕は店の中をぐるっと一回りして、レジの父さんにも一声かけて確認した。忘れ物の傘なんて届いてない、とのことだった。

「ごめん、ないよ。うちにはないみたいだ」

「そうですか……」

 沈んだ。雨に打たれて泣いちゃいそうな声だった。

「もしかして、佐賀さん、傘がないから困ってる?」

「はい、今、ものすごい雨で、雷も鳴ってて、どうしようと思って」

「この電話、どこからかけてるの? ああ、駅か」

 佐賀さんは一拍置いて、

「駅の職業別電話帳をめくって、佐川書店を探して、見つけたんです」

 ──やっぱり、僕の電話番号、覚えてなかったんだ。

 力が抜けそうだった。同時に空をぶっこわすような雷鳴が聞こえた。木造の僕のうちは雷なんて落ちたら完全に燃え尽きてしまいそうだった。電話の向こうで、きゃっと小さな悲鳴が聞こえた。佐賀さんが体を小さくしておびえている姿が目に浮かぶようだった。

「わかった、駅なんだよね、今から俺、傘持っていくから、待ってて」

 僕はコートのフードを被り、父さんのこうもり傘を一本持って玄関を飛び出した。三月なんて春じゃない。まだ冬だ。雨と雷と闇がセットで、もう夜だ。ほんとはまだ四時半くらいなのに。傘がなくて困っている友だちから連絡が入ったら、すぐに駆けつけるのが当然だ。変なこと、全然考えていやしない。  


 思いっきり走ってきたのに、やっぱり濡れてしまった。分厚いコートなのに脳天へ染み込む冷たさ。髪の毛だけはおかしくなってないだろう。フードを外し、改札口と公衆電話コーナーを交互に見た。なかなか見つからずなんどもぐるぐる見渡しているうちに、お辞儀をする人を発見。平安朝の人みたいな、長い髪をのばしたまんまの佐賀さんだった。

 薄桃色の横に長い手提げを胸に抱きかかえ、走ってきた。

「ごめんなさい、私、そんなことお願いしたくて言ったんじゃ」

「いいよ、俺のうち近くだし、いいよ」

 長い髪以外はすべてピンク、ピンク、ピンク。リボンを襟とポケットにつけたコート。

 ちらっと覗いたスカートも、もう少し濃いピンクだった。

 傘なしで走りたくない格好だった。やっぱり雨の中、走ってきてよかった。

 佐賀さんをぬらしたくない、本気でそう思った。


  ピアノのおけいこというのはよく聞く。エレクトーンというのは意外だった。

「エレクトーンってどのくらい習ってるの」

「小学校に入ってからすぐなんです。本当は、ピアノを習うつもりでしたけど」

 一週間仕事をしたおかげで「デート代」の小遣いはたんまり稼いでいる。懐は暖かかった。思い切って近くの珈琲喫茶店に入ることにした。あまり中学生が来るところじゃないという先入観があるせいか、学校の友だちと顔を合わせることがない。しかも出てくる飲み物が思ったより安い。150円で珈琲紅茶どれでも大丈夫。駅前に住んでいる利点だ。

「じゃあ、毎週駅前に来てるんだ」

「はい。いつもは学校終わってからなので」

 寄る暇がなかったってことだろう。わかる。わかる。

 淡いランプがところどころにぶら下がっている店内で、僕は一番奥へ席を取った。セーター姿でめがねかけた大人がひとりで煙草をふかしている。窓とカーテンは閉まっていた。どかんとどこかで、大きな雷の落ちた音が響いた。佐賀さんが肩をすくめて僕をきゅっと見つめた。

「大丈夫、あとで俺がバス停まで送ってく」

 ほっとした顔で佐賀さんはうなづこうとし、慌てて頬を押えた。また首をかしげた。

 見れば見るほど、なんでもしてあげたくなってしまう。変だ。僕の方がおかしくなっている。ふつうに見えるように、僕は佐賀さんを壁際に押し付けるようにして座った。真向かいに腰を下ろして、あらためて佐賀さんの瞳を見つめた。

 ──意識してくれてるのかな。

 ──いつも、健吾くんとはこういう感じでいるのかな。

 ぴりりと電流が走る。ふつうに見られないと変な奴だと思われてしまう。急いでメニューを広げた。どうせ珈琲しか頼まない。

「なんでもいいよ。俺、うちの手伝いしてるから大丈夫なんだ」

「いいえ私が払います」

「今日は俺が、佐賀さんにおごりたいんだ。そうさせてくれないかな」

 僕はかたくなに首をふる佐賀さんを無視して、珈琲と紅茶を注文した。ウエートレスさんが愛想良くすぐに運んできてくれた。

「佐川さん、おうちのお手伝いしながら学校に行ってるんですか」

 いつもじゃない、いやいやだけど本当のことなので、僕は嘘なく頷いた。

「うん、うちそんな大きな店じゃないから、俺も手伝わないとだめなんだ」

「すごいですね。だからなんですか」

 ためらいながら、僕に尋ねてくるのは言いづらいことなんだろうか。

「だからってなにが」

「はやく自立したいってこと、この前、佐川さん言ってましたよね。私、そんなこと一度も考えたことなかったし、学校でそういうこと、話す人もいなかったし、びっくりしました」

 ああ、やっぱりしっかり聞いてたんだ。それなら僕が職業科の高校を選ぶってことも覚えてるんだろう。

「俺、この前も言った通り、成績よくないんだ。だからいい学校に行けないと思う。だけど俺のやりたいことはものすごくレベルの高い学校に行かなくてもできることだから、そうするつもりなだけなんだ」

 決して嫌味を言ったつもりはない。なのに佐賀さんはすっかりうなだれてしまった。あわてた。

「佐賀さん、違うよ、俺、佐賀さんのように青大附中に合格できる頭あれば、行ってたかもしれないし、同じ職業科でも青潟工専を受けられたかもしれないよ。俺は佐賀さんも健吾くんも、レベルの高い学校で一生懸命やっているのみて、すごいなあっていつも思うよ。ただ俺は、早く家を出たいというのが目的だから、成績それなりでも別のやりかたができるんじゃないかなって思ったんだ」

 また首を振る佐賀さん。目がうるんできた。ちょっぴり泣き虫なのかもしれない。

「いいえ、佐川さん」

 目尻を指先でこすり、じっと見つめてきた。

「私、佐川さんみたいになりたい。佐川さんみたいに強くなりたい」

 佐賀さんは僕を相手にとつとつと話し始めた。

 時間はかかりそうだけど、かかればかかるほど一緒にいられる。

「私、ほんとはピアノを習いたかったんです。でも、先に習いに行っていた梨南ちゃんがピアノの先生と喧嘩してやめてしまったって聞いて、悪いなって思ってエレクトーンにしたんです。今でも梨南ちゃんは誰かにピアノの話をされると怒ります。エレクトーンはピアノにくらべてレベルが低いと思い込んでいるみたいで、何にも言わなかったんだけど」

 ──とんでもない人だなあ。

 もう何度も思ったことなので、慣れちゃっている。

「けど、エレクトーンって難しいし、面白いんです。だから、梨南ちゃんには言わないでグレード試験受けたりしてました。エレクトーン弾く人なんて馬鹿みたい、と梨南ちゃんは言っていたけど、そんなことないって、最近やっと思えるようになったんです」

「そうだよ、それって当然だよ」  佐賀さんは指先を、鍵盤弾くような格好に丸めて、とんとんと叩いた。

「でも、ずっと怖かったんです。今でも、まだ怖いんです。今日の試験でも順番待っている間に、梨南ちゃんの声が聞こえてくるみたいで、自分が変になっちゃいそうだったんです」

 よくわかんないけど、今日のグレード試験がうまく行かなかったってことなんだろう。試験に失敗した直後だったら、そりゃあ、泣きたいだろう。

「大変だったね」

 それしか言えなかった。

「私、ずっと自分に言い聞かせて、エレクトーンはピアノと同じくらい素敵な楽器なんだって思うようにしてきたんです。弾いている時、楽しくて、誰に認めてもらえなくてもかまわないって。けど、梨南ちゃんがいつも『エレクトーンなんてピアノの延長上にある低レベルな楽器よ』とか言っていたのが耳にこびりついて、怖くなっちゃったんです」

 ──最低な女子だな。もう確定。

 僕は珈琲をごくんと飲んだ。熱すぎてやけどしそうだった。

「どうせ今、杉本さんはピアノが弾けないんだろ? 今の話からすると、それっきりピアノなんて習ってないんだろ? エレクトーンもオルガンもシンセサイザーも」

「はい、たぶん」

 僕には分かる。最低な女子だと再認識した。

「それはさ、佐賀さんが自分のできないことを軽々やっているから、やっかんでいるだけだよ。詳しいことはわかんないけど、ピアノの先生とけんかしてやめたってことは、がまんするだけの根性がなかったってことだよね。俺、そっちの方が情けないなあって思うよ。もし佐賀さんがピアノを習っていたら、杉本さん自分のことを追い抜かれるんじゃないかって思って、焦ってたんだよね。当たり前だよ。それだけの力を佐賀さん持っているんだし。エレクトーンをばかにしてるってことは、杉本さんが鍵盤ものを一切いじれないことをごまかすための言い訳だよ。情けないよな。自分で努力するか、いやな先生に頭を下げてもう一回習い直せばいくらでも追いつけるのに。努力しないで、できる人をやっかむなんて、俺からしたら最低だよ」

「けど、私」

 うざったい、いらいらして僕は言い切った。

「僕は佐賀さんの方が何倍も、何十倍も実力があると思うよ。習い事って大変だろうなあって、思う。がまんしなくちゃいけないことだって多いだろうし。でも、それを投げ出さないでがんばってやりぬいたことって、俺はほんとすごいことだと思うよ。今日の試験、きっと辛かったんだろうなって思うけど、でも、佐賀さんはそんなことでめげる人じゃないって、俺、一発でわかるんだ。ほんとだよ」

 女子と話すと時々、短気の虫が騒ぎ出してしまう。目の前にちゃんと、こうすればいいってことが並んでいるのに、気付かない振りをしているんだから世話がない。佐賀さんだって本当は、したいこと、わかっているはずだ。成績はもしかしたら杉本さんの方がいいのかもしれないけれど、何倍も、いや何億倍も、佐賀さんの方が頭いいことがわかっている。男子をいやな気持ちにさせないとか、嫌いな女子でも思いやりを持つように心がけているところとか。馬鹿だったら、絶対に、できない。  

  ──許さない。

 テーブルをこぶしで押し付けるように叩いた。

「来週の土曜日のこと、健吾くんから聞いている?」

「え、あ、あの」

 どもったけど、ちゃんと頷いてくれた。知っているんだ。

「一年では健吾くんと、あの人が、来るって聞いたんだけど、ほんと」

 たぶん立村の次に評議委員長となるのは健吾くんのはずだ。人数聞いた段階で、健吾くんは外れないだろうと思っていた。そして杉本さん。ふたり。

「梨南ちゃんですか。はい、たぶん今から楽しみにしているはずです」

 はにかみながら、佐賀さんは紅茶カップを丁寧に持ち上げ、一口飲んだ。

「だって、毎日関崎さんがメモで置いていった紙を見つめて、ほうけてます」

 ──おとひっちゃんそんなもの置いていったっけ。

 覚えがない。首をひねった。佐賀さんはかすかに笑った。

「ノートをやぶいて何か書いて、立村先輩に渡していたみたいなんです。それを立村先輩に頼み込んで、もらったみたいです。暇があればそればかり眺めてます。周りでさんざん馬鹿にされても全然気が付かない風です。口癖に『青大附中の馬鹿男子なんかに、あの方の価値なんてわからない』のだそうです。お友だちと話してました」

 ──あの方の価値、ね、確かになあ。

 おとひっちゃんはいい奴だけど、価値、とまで言ってしまえるんだろうか。僕は笑いをこらえきれなくて、つい大声で笑いこけてしまった。佐賀さんも僕に付き合って、顔をほころばせてくれた。やっぱり、こういう時の顔が一番いい。

「ごめん、笑いが止まらなくってさ。じゃあ今からもう、おとひっちゃんのことばかり考えて夢うつつなんだね」

「はい、梨南ちゃんは好きな人のことしか考えられない人です。好きになればなるほど、いじめるのがくせでした。でも、きっと、関崎さんは梨南ちゃんに一度も悪口を言わなかったから、いじめなくても好きになってくれると思ったんじゃないでしょうか」

 勘違いもいいとこだ。葉牡丹をさっさと手放したおとひっちゃんの本心、知るがいい。

「いじめなかったんじゃないよ。おとひっちゃん、いやでいやでならなかったから、離れるために機嫌とっただけだよ。そんなことも気付かないで、学年トップなわけなんだ」

 悪いけど、一瞬のうちに「職業科進学コンプレックス」が消えた。

 成績のよしあしと、ほんとの意味での「頭のよさ」は違うんだ。


 僕は苦い珈琲を半分飲んだ。缶コーヒーと違って、砂糖が入っていない。

 胃がちょっとちくちくしてきた。夕飯前っていうのが効いたらしい。  

 顔をしかめると、佐賀さんが静かに見上げてくるので作り笑いを浮かべた。

 今日は佐賀さんの電話番号を聞かないと帰れない。  


  雷はまだ時折鳴っているけれども、さっきほどうるさくはなかった。

「佐賀さん、これから言うことは、悪いんだけど健吾くんには内緒にしてほしいんだ」

 僕は切り出した。やっと、練りに練っていた案を話せるのが嬉しかった。両手を膝の上に置いて、お上品な格好で佐賀さんがこっくり頷いた。

「いや、健吾くんを無視するんじゃないんだ。この前会った時も思ったんだけど、健吾くんって正々堂々としたやりかたでないと、納得できない性格なんだなあ。あんなに杉本さんが嫌がらせしているのに、クラスでいじめをしないようみんなに言い聞かせるなんて、普通の人じゃできないよ。俺だったら、かかわり持たないよ」

「健吾……新井林くんは、裏表のあるやりかたが本当は嫌いなんです」

 ──でも、相手は裏表のある奴なんだからしょうがないじゃないか。  

 ちくっと来た。 ひとりで突っ込み僕は続けた。

「僕としては、悪いけど杉本さんに金輪際、水鳥中学生徒会に関わりあってほしくないんだ。青大附中の評議委員会がどういうことしているか知らないけれど、人に迷惑をかけてくる人には、寄ってきてほしくない。これ、おとひっちゃん以外の生徒会役員にも聞いてみたんだけど、みな杉本さんのことを嫌っているのは確かなんだ。おとひっちゃんだけは悪口言わないけれど、本当のこというと、別に好きな子いるし、杉本さんと付き合うなんて具合悪くなる以外の何者でもない、と思うんだ」

 おとひっちゃんにはばらせない計画だ。強調した。

「でも、健吾くんと同じく、おとひっちゃんも正々堂々としたことが好きなんだ。きっと、杉本さんに押し捲られたら、礼儀としてお付きあいしなくちゃいけないんだって勘違いするかもしれないんだ。自分が本当はどうしたいか、あきらめて。けど、おとひっちゃんはこんなこと、絶対にしたくないはずなんだ」

「わかります。私も、この前、そう思いました」  

  おとひっちゃんの様子を一応はチェックしてくれたのだろう、納得だった。

「だから、俺としてはこの前話した案を、実行したい。杉本さんに来週の土曜日、水鳥中学で自分の本性を暴露しようと思っている。すっごく汚いことだと自分でも思うよ。ふつうの人にだったら、俺もこんなひどいことしたくないよ。でも、佐賀さん、今でも杉本さんに言われたことが気になってしまうんだろ? エレクトーンなんてピアノよりレベル低いとか、さんざん嫌味言われたことが気になっちゃうんだろ? 俺だったら『どうせ鍵盤も弾けないくせに馬鹿女』って言い返すけどさ。それができないくらい、辛かったんだよね」

 うつむいた。前髪に光が当たって、白い横筋がしゅうっと走った。天使の輪、って奴だろう。

「馬鹿なのはどっちさ、ってことを思い知らせてやりたいよ。俺はおとひっちゃんの親友だから、嫌いな女子なんかと一緒にいてほしくないんだ。言い方変だけど、あの人、いわゆる『みそっかす』だと思うんだ」

「『みそっかす』?」

 小学校一年の四月に、僕があてがわれていた居場所だった。

「そうだよ、ほら、ドッチボールとか鬼ごっことかする時、誰かの弟とか妹とかが混じったら、手加減しようってことで『こいつはみそっかすにしようぜ』って言うだろ? 俺小学校一年の時、そうだったんだ。体もちっちゃかったし、頭もよくないし。弱虫だったし。いつも他の奴から『雅弘はみそっかすな』って決め付けられてて、悔しかったんだ」

 真剣な目で僕を刺す。机の中の「鈴蘭優」のポスターよりも、ずっと真摯だった。どんどん突き刺せとささやいてくる。

「俺、ほんっと悔しくってさ。毎日必死にかけっこの練習したりしてた。誰にも言えないよなあ。年上の奴らと遊ぶならともかく、同じ学年で『みそっかす』だよ。恥ずかしいよ。けどね」

 しゃべりだしたら止まらなくなる。店の中が幻映画館になったみたいだった。佐賀さんの背中に幻影が映っているようだった。

「おとひっちゃんだけは、俺のことを『みそっかす』扱いしなかったんだ。あいつ、俺を幼稚園の頃からかばってくれてて、『雅弘泣かしたら他の奴も泣かしてやっからな!』って体張ってくれたんだ。けど、おとひっちゃん、あの時は他の奴らが俺を『みそっかす』扱いしているのに、平気でボールを俺に当ててくるし、鬼ごっこの時も容赦なく、タッチしてくるんだ。みんなから文句ぶうぶう出たよ。けど、おとひっちゃんはっきり言ってくれたんだ。『雅弘はみそっかすなんかじゃねえよ。差別すんな』って」

「『みそっかす』ですか」  

  そうだろうそうだろう。納得している顔。やっぱり僕がガキっぽいんだ。

「俺も努力したつもりだよ。早く『みそっかす』から脱出しようと思ってたからさあ。一年の六月くらいにやっと抜け出すことできたんだ。すっごく嬉しかったよ。女子にはわかんないかもしれないけど」

 あの時、

「おとひっちゃん、俺、みそっかすじゃなくなったよ!」

とおとひっちゃんに報告したんだったっけ。

「あったりまえだろ、お前のろまじゃねえもん」

って言ってくれたことが今でも忘れられない。思い出なんてとっくの昔に消えていることが多いけど、おとひっちゃんがなんでもない顔して、実はすっごく嬉しそうに言ってくれた時の顔が、後ろの壁に浮かび上がってきたようだった。

「あの時、俺は『みそっかす』から脱出するために、ものすごい努力したつもりなんだ。繰り返すけど、毎日学校から家まで二回往復して走ったりとか、ほんと苦しかったよ。でも努力すれば報われるんだって、その時初めてわかった。おとひっちゃんが一緒にみそっかす扱いしなかったのも、俺ががんばって走りつづけたのを応援してくれてたからなんだなって、後になってわかったんだ。みそっかすから抜け出すには、他の奴らの迷惑にならないくらい動かなくちゃいけないし、とろとろしてちゃいけないんだってことも、あの時よっくわかったんだ。ちゃんと、ルール、あるんだよ」

 ここから本題だ。珈琲を飲み干した。と思ったらウエートレスさんが黙って珈琲と紅茶を注ぎ直してくれた。どうしよう。おかわり代を請求されたら。

「佐賀さん、俺思うんだけど、杉本さんは『みそっかす』から抜け出すための努力、しているのかなあ。もし、佐賀さんや健吾くんを傷つけないように努力するとか、紙鍵盤用意してピアノの練習するとか、そういうことをしてたら、僕たちも『みそっかす』から外してやると思う。けど、そんなとこ全然見せないらしいよね。結局佐賀さんがエレクトーン上手になればなるほど、やっかむわけだし、健吾くんのことを嫌がらせして迷惑かけるし、おとひっちゃんが嫌がっているのみえみえなのに、さらに追いかけてきたりするんだ。どうしても仲良くしてほしいんだったら、ルールを守ってくれってことを、俺は言うよ。あの人普通じゃないから、普通に話してもたぶんわからないよね。だったら、堂々と今まで杉本さんが佐賀さんに何をしてきたか、どんな迷惑をかけてきたか、そういうことを水や青大附中の人たちの前で証明して、みんなに判断してもらった方がいいよ」

 遊んでいる時にうろちょろして迷惑かける『みそっかす』。  『みそっかす』扱いされたくないのだったら、早く走るよう努力することが必要なんだ。  


「水鳥中学交流準備会に佐賀さん、健吾くんの付き添いってことで一緒に来ることできないかなあ」

 計画の芯。僕はやっと切り出すことができた。

「え、私がですか」

「そう。すでにおとひっちゃんと立村との間で話し合いが進んでいるらしいよね。テーマは『いじめ』なんだ。うちの学校、青大附中みたいに学校で演劇をやろうかって話が出ているんだ。『奇岩城』みたいにドラマチックじゃないけど、『学校内のいじめ問題』をテーマにした話をやろうって考えているみたいなんだ。どういう内容なのかはもう少しおとひっちゃんをつっついてみるけれども、杉本さんがいままで佐賀さんにしてきたことを、そのまんま演劇の内容にしてしまったらどうだろうかな、って思ったんだ。佐賀さんは辛いかもしれないけれど」

「え、でも、私」

 戸惑う佐賀さんにまた僕は短気になった。

「でも私、なんか言うことないよ。会の担当になる水鳥の生徒会役員に俺、いろいろ頼んで佐賀さんのされてきたことを演劇のネタにできないかどうか聞いてみる。実際に起こったことの方が説得力あると思うし、僕も交流準備会に参加する予定だからちゃんと手を挙げて発言するよ。もちろん、佐賀さんや健吾くんから聞いたなんてことは、内緒にしてさ。目の前に杉本さんがいる前で、被害者の佐賀さんがいる前で。杉本さん、自分のことをネタにされているって気が付いたらどんな顔、するだろうなあ。本人はどう思っているか知らないけど、みんな、佐賀さんがかわいそうな思いしているってことみんな知っていることだろ? おとひっちゃんの前で、杉本さんは自分のしてきたことが、正真正銘の『いじめ』であって、最低な人間のすることなんだって証明されちゃうんだよ。ふつうの神経持っている人だったら、泣いちゃうよな」

「私なら、泣きます」

 ──佐賀さんは、当然だよな。

 今は笑っている佐賀さんに、ほっとした。

「結論として、『いじめをする人はどんな理由があるにせよ許せない。加害者。青大附中と水鳥中学はいじめ人間を一切受け入れない』って結論に持っていくことできたら、最高だよな」

「でも、梨南ちゃんにそんなことしたら、きっと傷ついてしまうと思います」  

  言いかけた佐賀さんを押しとどめた。

「俺、杉本さんがどう思おうが関係ないよ。要は、おとひっちゃんの前で、杉本さんがいじめをする最低の人間だってことを証明するだけのことなんだからさ」

 どうしようもなく許せなかった。  

  うちにいた時、ちょこっとだけ

「俺になんも悪いことしてないのになんであんな嫌いになるんだろう」

って罪悪感を持っていた。でも、これですっきりした。理由判明。

 ──佐賀さんがまだ、苦しんでいるのに、平気でいるあの性格がいやなんだ。

 もちろん僕が一方的に佐賀さんびいきなだけなのかもしれない。佐賀さんと健吾くんとの話し合いを鵜呑みにしているだけなのかもしれない。でも、杉本さんのしてきたことはどんな人も許せないことだろう。

 いじめられる方に罪がある、とは絶対に言ってはいけないことなんだという。

 でも、佐賀さんが受けた傷のことを考えれば、杉本さんに罪がないとはどんなことあっても言えないと思う。


  それに、杉本さんにはいざとなったら逃げ場所がある。

「立村は相変わらず、杉本さんのことをひいきしているよね」

「梨南ちゃんには無視されてますけどしょっちゅう、声かけたり、呼び寄せたりしてます」

 蝋人形のような顔。すぐに火で解けてしまいそうな頼りない態度。

「じゃあ大丈夫だよ。おとひっちゃんに振られたって、本当に好きな人が待っているんだから」

 佐賀さんはもう一度、大きく頷いた。

「梨南ちゃんが本当に好きなのは、立村先輩です。立村先輩と一緒にいてくれれば、きっと」

「社会の迷惑がひとつ減るよ」  

 


今日こそ忘れてはならない。おかわりでもらった珈琲を舌、やけどしそうになりながら頭と胃をちくちくさせた。

「でも、水鳥生徒会も今、ごたごたしているから何か変わった事があったら、連絡したいんだ。いままでいじめ問題の演劇をやろうとしていたくせに、次の瞬間『彦一とんちばなし』になっちゃう可能性もあるし。佐賀さん、電話番号、もらっていいかな」

 ピンクのかばんから、やはりピンクの女子らしいノートを取り出した。五線譜ノートだった。綴じ目からはがして、電話番号だけ書いて渡してくれた。

 絶対落とさないようにしなくちゃいけない。財布の中に押し込んだ。あとで別の紙にメモしておこう。鈴蘭優のポスターに原本ははさみこんでおこう。


  雨はまだ激しく降っている。すっかり夜。もう六時近い。バス停まで、こうもり傘でふたりで入っていこうと決めた。

 佐賀さんがお手洗いに行っている間に、会計をしてもらおうとした時、ぽこんと僕の肩を叩く人がいた。

 ──まずい、誰かいるのかな。

 恐る恐る振り向いた。

「今日は、サービスだぞ」

 父さんだった。いつも来る取次の営業さんとふたりで打ち合わせしていたらしい。ふたりでにやにやしながら、手を振って出て行った。

  もちろん、ふたりぶんの支払いは終わっていた。    

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